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敗戦革命の仕掛け人、ハーバート・ノーマンのスパイ疑惑

2019-01-04 10:01:34 | 戦勝国史観
 戦後、GHQで暗躍したカナダの外交官ハーバート・ノーマンには、数々の共産スパイ疑惑が存在する。日本人の多くは、ノーマンの存在さえ知らないが、彼が戦後の日本に及ぼした影響は凄まじく大きい。にも拘らず、後に赤狩りの標的となり、悲劇的な最期を遂げたことから、表向きにはタブー視されながらも、裏では聖人化が進み、その実態が掴みにくくなっている。また、ネット情報の中には、ソ連のスパイだったと確定したかのように書いているものもある。そこで、スパイ疑惑に的を絞って、彼の人生を検証してみたい。

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 以前、『日本国憲法の父?鈴木安蔵とハーバート・ノーマン』でまとめた通り、ノーマンはカナダ人宣教師の息子で、日本生まれの日本育ち。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ留学中、『大英帝国のレーニン』を自称する若き共産主義者、ジョン・コンフォードと出会い、彼を通じて共産主義者になった。スペイン内戦が勃発すると、コンフォードは共産主義者らで構成された国際旅団に参加して戦死する。参戦を思いとどまり、寄付集めなど後方支援をしていたノーマンは大きな衝撃を受けた。その後、ハーバード大学で日本研究を始め、マルクス主義経済学者・都留重人(後に一橋大学学長)と出会い、反日親中共の学術団体『太平洋問題調査会(IPR)』の研究員となる。ノーマンが都留の助言を得てIPRから出版した『日本における近代国家の成立』(Japan's Emergence as a Modern State: Political and Economic Problems of the Meiji Period)は、マルクス主義の観点から明治維新と日本の近代化を糾弾する内容で、日本敗戦後、日本のことを全く知らないGHQ職員たちの教科書的役割を果たし、占領政策に大きな影響を与えた。

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 1939年、カナダ外務省に採用されると、語学研修生として東京に派遣される。真珠湾攻撃後、カナダに送還されると、戦争中はIPRで『日本は自力で封建制から脱却できなかった。かくなる上は、日本を決定的かつ完全に敗北させて、アジアを日本の侵略から解放し、日本を民主化しなければならない』と、日本の無条件降伏を主張する論陣を張った。日本敗戦後、カナダ人捕虜の保護を目的に再来日すると、GHQに要請され、そのまま日本に滞在。1945年9月から翌年1月までGHQ対敵諜報部で勤務した。その後、一旦、日本を離れ、ワシントンの極東委員会カナダ代表代行として働いた後、その年の8月、駐日カナダ代表部主席として再来日。羽仁五郎や丸山眞男、鶴見俊輔など、戦後リベラルを代表する学者たちと親交を深めたが、1950年、朝鮮戦争勃発を前後してノーマンに共産スパイ疑惑が持ち上がり、解任されて帰国している。

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 ノーマンへの疑惑の発端は、GHQ参謀第2部 (G2) 部長ウィロビー将軍の告発。ノーマンが1945年10月に、府中刑務所から共産主義者の志賀義雄や徳田球一らを釈放し、その後、共産党の勢力拡大を支援したというもの。次に、原爆スパイの一人がトロント大学時代の友人だったということで疑惑が深まり、ノーマンはカナダ政府から最初の尋問を受ける。更に、コンフォードを通じて繋がっていたであろうケンブリッジ大学の同窓生二人が、ソ連のスパイ疑惑をかけられ、そのままソ連に亡命する事件が起こる。所謂『ケンブリッジ・ファイヴ』事件で、イギリスの国家機密が戦中戦後を通じ、ソ連にダダ漏れになっていたことが判明し、世界に衝撃を与えた。その他にも、ノーマンが共産主義者として活動していたことを示す数々の証言があり、カナダ政府は二回に渡ってノーマンを尋問したが、結論は『学生時代に共産主義者ではあったが、スパイ行為はしていない』というもの。尋問にあたったカナダ警察は、ノーマンを全ての公職から外すよう提言したが、時の外相ピアソンは、不問に付した。

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 その後、ほとぼりが冷めるまで暫くの間、駐ニュージーランド高等弁務官という閑職に就いていたが、1956年、 駐エジプト大使に就任し外交の表舞台に復帰。折り悪くスエズ動乱が勃発し、世界中の注目がエジプトに集まる中、カナダのピアソン外相は、宗主国イギリスや大国アメリカになびかない独自の国連外交を展開。ノーマンはピアソンの手足となって活躍し、エジプトのナセル大統領に国連緊急軍の受入れを認めさせる。だが、ピアソンを快く思わないアメリカ保守派が、再びノーマンのスパイ疑惑を問題化し、米議会でノーマンの親友・都留重人を尋問。都留は、学生時代に共産主義者だったことやノーマンとの関係を白状してしまう。その1週間後、ノーマンはカイロのビルから飛び降りて自殺した。

 その後、ノーマンの存在は忘れられ、ノーマン同様、宣教師の息子で日本育ちの元駐日大使、ライシャワー教授による親日的な日本史観が台頭するも、ベトナム反戦運動に加わった日本研究家ジョン・ダワー教授によってノーマン再評価が行われた。1980年代、ノーマンに関して2つの異なる視点からの本が出版される。一つはノーマンを共産スパイだったと見做す『No Sense of Evil: Espionage the Case of Herbert Norman』。もう一つは、スパイ説を否定する『Innocence Is Not Enough : The Life and Death of Herbert Norman』。スパイ説否定本を書いたロジャー・ボーウェンは、ダワーと同様、ノーマン史観を継承する学者であり、彼が制作に協力したノーマンの伝記ドキュメンタリー『The Man Who Might Have Been: An Inquiry into the Life and Death of Herbert Norman』も全く同じ論調。都留重人本人が出演している上に、エンディングはノーマンの友人だった丸山眞男の追悼文で〆ており、ノーマンの名誉を守るために、端からスパイ説を否定する目的で作ったような内容。オリジナル英語版NHK日本語版はネットで視聴できる。ただし、英語版はケンブリッジ時代のノーマンが共産主義に傾倒していく状況を詳しく描いているのに対し、NHK日本語版は、ややこしいスパイ疑惑の詳細を全てすっ飛ばし、ノーマンのお蔭で恩恵を被った左翼学者たちのインタビューを追加して『赤狩りの犠牲になった悲劇の外交官』として単純化しているので、注意が必要。
 英語版と日本語版の動画を両方検証したが、重大な瑕疵があることに気づいた。英語版では、1930年代のケンブリッジ大学がどれだけ共産主義に毒されていたか詳しく描いていて参考になるものの、ハーバード大学入学から外交官時代にかけて、ノーマンが関わり続けた反日親中共の学術団体『太平洋問題調査会(IPR)』について、全く描いていないのである。ノーマンは親友の都留重人が米議会で尋問を受けた直後、自殺している。自殺前、医者から鎮静剤を貰った時、『友人が議会で尋問された』とはっきり語っており、都留の尋問がノーマンに大きなプレッシャーを与えたことは確実である。都留は何を知っていたのか? 都留はケンブリッジ時代のノーマンを知らない。ハーバード時代以降、ノーマンがIPRの活動にのめり込んでいった時代の生き証人なのだ。スパイ疑惑のカギはケンブリッジではなくIPRにあるのではなかろうか。

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 『太平洋問題調査会(IPR)』とは何か? 詳しくは『オーウェン・ラティモアと太平洋問題調査会の暗躍』でまとめているので、そちらを参照して貰いたいが、要は、日米戦争をけしかけて、日本で敗戦革命をやろうとした親中極左(China Hand)のアジア研究家集団である。中心人物のラティモアは、中国育ちのモンゴル研究家。IPRを牛耳り、日米開戦前は機関誌『パシフィック・アフェアーズ』で日本批判の論陣を張ってきた。日本の敗北が濃厚になると、IPRの矛先は親日派(Japan Crowd)の巨魁・グルー前駐日大使に向けられる。米国務省では戦前、親中派(親国民党であり親中共ではない)のスタンリー・ホーンベックが極東局長で、日本を石油禁輸で追い詰め、近衛・ルーズベルト会談を潰し、日米開戦不可避の状況を作ったが、戦争中、中国国民党が同盟国として全く役に立たないことからハル国務長官の不興を買い、日本から送還されていたグルー前大使と交代された。戦後の日本占領計画は、グルーによって練られることになったが、グルーは軍部を排除するも天皇制は温存し、近衛文麿や木戸幸一ら穏健なリベラルからなる宮廷グループによって日本再建を図ることを計画していた。所謂、『soft peace』(穏やかな非軍事化)政策である。これに真っ向から噛みついたのが、IPRのChina Handsで、日本の軍国主義は封建制や財閥支配に原因があるとし、旧支配層の徹底的な排除と農地解放、財閥解体を断行する所謂『hard peace』を主張した。要は、地主と資本家を打倒するという共産主義の究極的な理想を、戦争責任追及にかこつけてやっちまおう、ということである。

 日本が降伏する1945年、ラティモアは戦後の対日、対中政策を提言する本『Solution in Asia』を出版する。この中でラティモアは、近衛文麿ら上流階級のリベラルについて、“We must not be soft with the old-school-kimono ‘liberals’, from Prince Konoye on down”と辛辣に書いており、戦後の日本は、親ソの中道左派に担わせるべきだと主張している。一方、注釈でノーマンの著作を引用する際には、ノーマンの日本研究家としての力量を絶賛。これが推薦状の役割を果たして、ノーマンはGHQにスカウトされることになった。

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 日本敗戦後、来日してGHQで働き始めたノーマンが、妻イレーネに送った手紙(1945年10月26日付け)がある。共産主義者らを府中刑務所から解放した時のことを、詳しく説明している。ウィロビー将軍が問題視した件だ。

Dear Irene:
You have no idea how terribly busy I have been the last two weeks. yet never so excitingly busy in my life. My present position is head of the Research and Analysis branch of the Counter-Intelligence Section of GHQ — and it is every bit as interesting as it sounds. (中略)

The most exciting experience of my life was to drive out to a prison 20 miles from Tokyo with another officer and be the first Allied officials to enter a prison with 16 leading political prisoners, including 2 communists (略) . The reception we got was something beyond description. I have never enjoyed anything so much as being able to tell them that according to General MacArthur’s order they were to be released within a week. Later we had the opportunity to interview them at greater length and after a few days of liberty they were able to give us political information on current affairs of the utmost interest.

 後にスパイ疑惑で尋問された時、ノーマンは共産主義者の釈放について『マッカーサーの命令を実行しただけ』と弁明したが、『私の人生で最もエキサイティングな経験』と明言しており、実際にはかなり積極的にやっていたことがこの手紙から分かる。多分、マッカーサーを説得して、釈放命令を出させたのではあるまいか。当時のマッカーサーは日本のことを全く知らず、ノーマンの影響力は甚大だった。占領軍最高司令官の名前を印籠のように使って、日本の官憲に超法規的措置を命令するのは、共産主義者のノーマンにとってさぞかし快感であったに違いない。だが、問題は、その次の箇所である。

Recent arrivals of old friends include Pat Ayres, T.A. Bisson (Strategic Bombing Survey) Bill Holland, Smith-Hutton, and now Owen Lattimore is due to arrive soon.(中略)On Sunday I am driving out with John Emerson and Shigeto to visit Riho’s home in the country.

 ノーマンが言う旧友の中、ビッソン、ホーランド、ラティモアの3人は、IPRのChina Handsである。彼らはいろんな名目を使って、戦後の日本にやってきた。ビッソンは、戦略爆撃調査団の一員として来日したが、IPRからの推薦でそのままGHQ民政局に採用され、憲法制定や財閥解体に関わるようになる。ビッソンは中国で宣教師をしていた経験があり、China Handsにはキリスト教関係者が多いパターンを踏襲している。『Shigeto』というのは都留重人のことで、彼もキリスト教徒のマルキスト。ノーマンの親友だった都留も、そのコネを使ってGHQに入り、日本政府の高官にまで大出世することになる。
 
 ノーマンがGHQに在職したのは、1945年秋から翌年1月までと、極めて短い。だが、この間、その後の占領政策を左右する重要なことが次々と行われている。即ち、戦犯逮捕、公職追放、鈴木安蔵らの憲法草案発表である。ノーマンは来日早々、都留と一緒にマルクス主義憲法学者の鈴木安蔵に憲法草案作成を持ちかけ、GHQ民政局には、鈴木らの憲法草案に注目するよう、根回しもしている。一方、マッカーサーが別途、近衛文麿に草案作成を依頼すると、近衛を戦犯容疑で告発する文書を提出して、これを潰してしまう(【参考】『日本国憲法の父?鈴木安蔵とハーバート・ノーマン』)。ノーマンは近衛だけでなく、木戸幸一も同時に戦犯告発しており、この二人の逮捕は(実際、近衛は逮捕前に自殺)、戦後の日本再建を近衛や木戸ら宮廷グループにやらせようとするグルーの計画をも潰すことを意味した。

 ただ、近衛に対する告発が辛辣極まりないのに対し、木戸には相当に甘い内容になっていた。実は、都留重人の義父が木戸幸一の弟だったのである。当時、都留は木戸幸一や義父一家と同居しており、木戸は都留を介してノーマンやGHQの動きを知っていただろう。近衛を潰すために、敢えて木戸も戦犯指定するものの、木戸が極刑にならぬよう配慮していたはずである。東京裁判の間、都留は木戸の弁護にも協力。木戸は死刑を免れることになる。文官として、近衛や木戸の代わりに死刑になったのが、元首相の広田弘毅。玄洋社との縁が深く、右翼の巨魁・頭山満の葬儀委員長を務めたことが仇になった。ノーマンは日本の右翼や武士道のような文化を憎悪しており、戦時中、玄洋社を日本のナチスとして糾弾する記事をIPRに書いていた。広田の妻は玄洋社幹部の娘で、東京裁判中、それを苦にして服毒自殺している。

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 大政翼賛会や軍部、右翼関係者を中心にした公職追放にノーマンがどれだけ関わったか、明白な資料は見つからないが、日本のことを何も知らないGHQのアメリカ人たちに、総計20万人に及ぶ日本人追放者の人選ができるはずもなく、ノーマンや都留重人の人脈に連なる左派日本人(恐らく、戦前に冷遇されてきたマルクス主義学者たち)の協力を得てやったのだろう。46年1月に最初の公職追放が発表され、その翌月から憲法改正への動きが加速している。明治憲法からコペルニクス的転回をする新憲法草案を日本の国会で通すには、大規模な公職追放によって議員を総入れ替えすることが必要絶対条件だったのである。大学から保守派学者が追放されたお蔭で、丸山眞男や都留重人ら左派の学者たちは、若くして大学教授になることができ、その後、長きにわたって日本の大学に君臨することになる。

 46年1月にノーマンがGHQを辞めた後は、GHQ民政局に入ったIPRの同志・ビッソンが代わって憲法草案の細部交渉や財閥解体に深く関わることになる。ビッソンは吉田政権と激しく対立し、共産主義者による二・一ゼネスト(1947年)では、スト容認を主張して吉田茂政権打倒を目論むも、マッカーサーはゼネスト中止を決定。民政局の左翼ニューディーラーたちやビッソンは、共産主義者を目の敵にする参謀第2部 (G2) ウィロビー将軍によって、徐々に力を削がれていく。ウィロビーは、来日する前にビッソンが関わっていたIPRやその提携誌アメラシアについて調べ上げ、ビッソンが共産主義シンパであり、都留重人に機密情報を流したとして告発した。追い詰められたビッソンは、47年4月、志半ばにしてGHQを辞め帰国してしまう(【参考】Thomas Arthur Bisson and the Limits of Reform in Occupied Japan)。その後、冷戦が激化する中、GHQの占領政策が逆コースへ舵を切ることに反対し続けたノーマンも駐日カナダ公使を解任され、IPRのChina Handsによる敗戦革命は終わりを告げる。

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 アメリカ帰国後、ビッソンはラティモアと一緒にマッカーシズムの暴風に巻き込まれ、過去の共産主義活動を厳しく追及される。IPRは活動停止に追い込まれ、大学での仕事を失い、ラティモアはイギリスに移住。ビッソンも仕事探しに苦労することになる。だが、それでも実刑を受けなかっただけまだ幸運だったと言える。ビッソンの死後、ソ連のスパイ活動を暴いたベノナ・ファイルが公表され、ビッソンは『アーサー』の暗号名を持つソ連のスパイであったことが判明する。その他、IPRに所属した中国人・冀朝鼎(Ji Chaoding)も中共のスパイだったことが公表されており、IPRのヤバイ実態が明るみになった。

 スパイ疑惑をもたれた財務省のハリー・デクスター・ホワイトや国務省のローレンス・ダガンは、赤狩りの最中に自殺したので、魔女狩りの被害者と見られていたが、後にベノナ・ファイルの公開でソ連のスパイだったことが確定する。一方、同じく自殺したノーマンに関しては、ベノナでも名前が出なかった上、スパイだったことを示す証拠は未だに見つかっていない。これを持って、『無罪だ』『濡れ衣だ』と言えるのだろうか? ノーマンやラティモアのような共産主義活動家のことを、英語で“Fellow traveller”と呼ぶ。共産主義革命を目指し、共産党員と共闘するものの、自分自身は党員にならず、機密情報を漏らすようなあからさまなスパイ行為は行わない。飽く迄、一般人として官庁やメディア、大学で働きながら、その職権を運動に利用する。こういうタイプをスパイとして罪に問うことは難しいが、さりとて外交官として機密情報に接するポストに就けることには問題がある。

 ノーマンの上司、レスター・ピアソン外相は、ノーマンの尋問で共産主義者だった過去を知ったものの、公職から外すことなく起用し続けた。ピアソン自身、ノーマン同様、宣教師の息子で、リベラルな思想の外交官だった。カナダは、宗主国イギリスと大国アメリカの狭間で、独自色のあるリベラルな外交を展開しており、ノーマンのような共産主義者の外交官でも、国益を損なわないと考えたのだろう。だが、カナダの同盟国として、機密情報を共有するアメリカ政府にとって、ノーマンのような共産主義者がカナダ外務省の要職にいることは由々しき問題である。両国の狭間で苦しんだ結果、ノーマンは死を選んだ。

 スエズ動乱解決のため、国連緊急軍の派遣を実現したピアソンは、ノーマンが自殺したその年、ノーベル平和賞を受賞する。ノーマンが大使としてエジプトのナセル大統領にカナダ軍を国連軍として受け入れるよう説得した時、ナセルはカナダ国旗にユニオンジャックがあることから、イギリスの傀儡だとしてこれに難色を示した。その後、カナダの国旗からユニオンジャックが消え、カエデのマークだけになったのは、この事件が切っ掛けである。

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ピアソンとノーマン

 後に首相になったピアソンは、ベトナム戦争にも反対するなど、リベラルな外交を貫き、現在では最も偉大なカナダの首相として評価されている。ピアソンの後継首相がピエール・トルドーで、その息子が現カナダ首相ジャスティン・トルドーである。もし、ピアソンの片腕だったノーマンがソ連のスパイだったと判明すると、カナダの国家的威信が傷つくことになる。今後、カナダ政府がノーマンに不利な機密情報を開示することは絶対にないだろう。ノーマンについて今言える結論は、『スパイ行為をした証拠はないが、限りなくクロに近い共産主義者』であり、反共に舵を切った当時のアメリカの外交官だったらクビだが、カナダだからこそクビにならずに済んだものの、それが災いして自殺に追い込まれた、というものである。



初稿:2018年7月22日



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