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聖ヨハネ・ア・デオ証聖者 St. Joannes de Deo C.  聖ヨハネ病院修道会創立者

2024-03-08 06:23:04 | 聖人伝
聖ヨハネ・ア・デオ証聖者 St. Joannes de Deo C.  聖ヨハネ病院修道会創立者   記念日 3月 8日


 聖ヨハネ・ア・デオ、即ち「天主の聖ヨハネ」とは、この聖人がその改心後、全く天主の御旨のままに生きられた所からそう呼ばれるのであるが、彼はまた聖会に於いて聖ヴィンセンシオ・パウロと共に慈善事業を目的とする修道会の創立者として有名な人である。

 彼ヨハネは1495年ポルトガルの一小村モンテモール・ノヴォに生まれた。父母は極めて信心深い人々であったが、若い頃のヨハネは両親に似ず、あまり信仰熱心でもなく、冒険心好奇心が強く、むしろ悪に流れやすい方であった。それが始め大した罪悪にも陥らずに済んだのは、全く彼の唯一の美点、聖母マリアに対する尊敬心の深かったに依るものであろう。
 
 7歳の時彼は、ふとスペインの旅人から聞いたその国の有様が見たさに、大胆にも家出をしてしまった。すると母はそれを苦にして重い病の床に就き、間もなく死去する、父も世をはかなんでリスボン市のフランシスコ修道院に入ったが、これも二三年して妻の後を追うに至った。
 しかしヨハネはのんきなもので、憧れの国スペインへ行くと、オロベサという伯爵家の羊飼いに住み込んだ。かくて忠実に奉公する事15年、主人にその陰日向のない所を見込まれて寵愛されるようになり、ついにはその姫君の夫にとまで懇望された。けれども日頃童貞なる聖マリアを尊敬するヨハネは、思い切ってその縁談を断り、そうなると最早主人の家にも止まりかねる所から、ちょうどその頃戦争があって兵士の募集があったのを幸いに、スペインの軍隊に入った。これは彼にとって不幸であった。何となればふしだらな周囲に感化され誘惑されて、ついに罪悪を犯すようになったからである。
 その内彼は九死に一生を得ること二度、急に故郷が懐かしくなり、父母の消息も知りたく、モンテモール・ノヴォをさして帰った。所が両親は既にこの世の人でなく、それも自分の不幸のためと聞いた時の彼の驚きと悲しみはどれほどであったろう!今更痛悔の涙にくれたヨハネはことに前半生の罪を償う堅い覚悟を定めるに至ったのである。
 彼はその為にまず聖ペトロ・ノラスコ等の如く回教徒の捕虜となっているキリスト信者を救い出すべくアフリカに渡ろうと思い両親の墓に詣でて別れを告げ、ジブラルタル海峡を経てツェウタに行こうとしたが、たまたま途中侫臣の讒言に逢ってポルトガルを追放された某貴族一家が落ちぶれて生計を立てる術も知らず、むなしく餓死を待っている哀れな有様を見て心動かされ、かような人々を救うこそ天主の思し召しに沿うゆえんと、自分の衣服を売り払って急場を助け、またある工場に雇われて労働し、得た給料もことごとくその一家に与えたから、彼等は聖人の恩に感じて涙にくれるばかりであった。
 その後ヨハネは捕虜救済の成し遂げ難い事を知ってスペインに戻り、まずジブラルタルで、次にグラナダ市で聖具画商を始めた。そして商売の傍ら無学な農夫や労働者や子供等に、天主の事聖母の事などを語り聞かせ、彼等の心に信心を植え付けるように努力した。かような教理を伝える仕事は、性質に合うのか彼は真から好きであったが、天主はやがて彼をより貴い事業に召し給うたのである。
 1539年の1月20日、聖セバスチアノの祝日の事である、16世紀スペインでその名を謳われていたアヴィラの福者ヨハネがグラナダに来て大罪と地獄に就き一場の説教をした。それを聞いたヨハネ・ア・デオは深く感じ、今更のように過去の我が罪の恐ろしさを思い、今まで償いではまだまだ不十分であると考え、遂に公衆の面前で我が罪を告白しその赦しを求めた。所が人々は彼が発狂したものと誤解し、引き捕らえて精神病院に入れた。が、彼はそこでアヴィラのヨハネに会って慰めを受け、憂いの雲も名残なく晴れ、今後は一身を慈善事業に捧げようと決心するに至ったのである。
 その手始めとして彼はグラナダ市立病院の看護人となり、無給で働く事にしたが、間もなくその病院が火災に罹ったので彼は努力で一病院を創立する念願を立て、早速労働に就き、賃金を貯蓄し材料購入その他の費用に宛てる事にした。勿論貧しい彼にはこれはなかなかの難事業であったが、天主の御祝福があった為か思いの外早く、小さいながらも一つの病院を建てる事が出来たから、彼は喜び勇んで哀れな病者を収容し、彼等を主キリストの兄弟としてあらん限りの親切を尽くしたのであった。
 もとより患者から一文の金も取らぬので、経営の費用は自ら心配する外はなかった。その為ヨハネは朝一通りの看護の務めを果たすと籠を背に、二つの瓶を手にして町を廻り、施しや寄付を請うては、喜捨した人々に礼心から聖い話を聞かせるのを常とした。そして自分は極端に質素な修道的生活に甘んじ、施しで得た物はことごとく愛する病者達の為に用いるのであった。
 かように博愛の精神を具現したヨハネの活動が人々の心を動かさぬはずはない、やがて彼の評判は国中に高く、今は貴族も富豪も喜んで彼の事業に寄付するようになり、果ては国王フィリポ二世からも御下賜があるに至ったから、彼は病院を拡張し諸般の設備を完全にし、ますます不幸な病者の救済に努めた。それにその頃には同志の士も多く集まって来たので、一層華々しい活動も出来るようになったのである。ヨハネは別に修道会を立てるつもりはなかったが、ただタイの司教の勧めで、同志は皆司祭服に似た制服を身にまとう事にした。
 ヨハネはまた日毎町を廻る間に貧しい人々の悲惨な生活振りのみならず、彼等の荒んだ心にも憐れみの情をそそられずにはいなかった。わけても彼の胸を痛めたのは、半ば自暴自棄から身をもち崩した娼婦等の爛れきった罪の生活であった。で、彼は彼女等を救うべく毎金曜日訪問して道を説き、更正を望む女達にはその負債を払ったり、正しい職業を与えたり、或いは真面目な結婚生活に入らしめたりしてやった。もっともその間には堕落しきった娼婦達やその抱え主、ならず者等に憎まれて罵られた事もある、嘲られた事もある、殴られた事もある。しかし彼はよくその恥辱を堪え忍んで、霊の光の失われていない哀れな女の救い出しに成功したのであった。
 なおヨハネはかつて自分も精神病院に入れられ、狂人のごとく遇せられた事があるが、その為か精神病者に対する同情も人一倍強く、その保護救済の方面にも大いに尽くす所があった。

 さて聖人はかく慈善博愛の為日夜活動を続けていたが、追々と、身の衰えを覚えるようになった。折しも春まだきにヘニル河が氾濫して洪水となった時、流されて来た一人の子供を救おうと濁流の中に飛び込んで身を冷やしたのが原因になり、重病を発して危篤に陥った。これを聞いたグラナダの司教が親しく彼を見舞い臨終の秘跡を授けた後「何か言い残す事はありませんか」と尋ねると、ヨハネは「実に気がかりな事が三つございます。その一つは私は今日まで天主様から言い尽くせぬほど多くの御恵みを頂いておりますが、まだその萬分の一の御報恩も果たしておらぬ事、次にはせっかく正しい道に帰した婦人達が、また罪に陥らぬかという事、それからもう一つはこの名簿に記してあります患者の負債をまだ支払っていない事であります」と言いつつ枕の下から一冊の帳面を取り出して渡した。司教は「貴方の第一の御心配は天主様の御慈悲にお任せ致しましょう。また第二第三の御心配に就いては、不肖ながら私がきっとお引き受けして如何様とも取り計らいますからどうぞ御安心下さい」と頼もしく断言したので、ヨハネは感謝の涙にくれた。いよいよ臨終が近づくと、彼はむっくと起き直り十字架に向かって跪き、祈りながらこの世を去った。時は1550年の3月8日であった。
 彼が死去してからもその弟子達は師の衣鉢をついで博愛の事業を続けたが、後にその団体は認可を受けて「慈善の友」会と呼ぶ修道会となり、会員は今日も聖ヨハネ・ア・デオの精神に従い病者の看護に努めている。

教訓

 聖ヨハネ・ア・デオは若き日の過失を償うべく一身を慈善事業に献げ、遂に立派な聖人になった。かような人こそ主キリストの「わがこの最も小さき兄弟の一人に為したる所は、事毎に即ち我に為ししなり」(マテオ25-40)との聖言に適うもので、公審判の時特別の表彰を受ける事は疑いない。








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