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3-9-3 刎頸の交わり

2018-09-09 03:05:57 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

9 富国と強兵

3 刎頸(ふんけい)の交わり

 秦と趙のあいだの和平も、ながくはつづかなかった。
 藺相如が完璧の使者をつとめてから二年ののち、秦の軍は趙に攻めかかった。
 国内ふかく侵入し、つぎの年にもまた攻めて、一万人を殺した(前二八〇)。
 そのうえで秦王は、澠池(めんち)において会盟をしたい、と申しいれた。
 趙の恵文王は行くことをためらった。しかし、もし王がゆかなければ、卑怯(ひきよう)とみなされよう。
 このように説いたのが、廉頗(れんぱ)と藺相如であった。かくて相如がついてゆくことになった。
 澠池(めんち)の会合の酒宴たけなわのころ、秦王がいいだした。
 「趙王は音楽を好まれる、と聞いておる。ひとつ、瑟(しつ=琴の大きなもの)を奏していただけませぬか」。
 趙王が瑟をひいた。すると秦の吏官がすすみでて、「某年、月、日、秦王は趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」と書いた。
 たちまち藺相如もすすみでて、いった。
 「ひそかに聞くところでは、秦王は秦声(しんせい=秦のうた)にたくみであるとか。
 そこで、缻(ふ)を秦王にたてまつり、それを打っていただいて、ともに楽しみたいしに存じます」。(缻は土製の楽器にて、中に水を入れ、叩いて音を出す)
 秦王はいかって承知しない。かさねての懇請にも応じぬのをみると、相如はいった。
 「大王との間は五歩をへだてるのみ。相如の頸の血を、大王にそそぐこともできますぞ」。
 左右の者が相如に刃をむけた。相如は目をいがらせて叱りつけた。みな、ひるんだ。
 やむなく秦王も、一度だけ缻(ふ)を打った。
 相如はふりかえって趙の吏官をまねき、「某年、月、日、秦王は趙王のために缻を打つ」と書かせた。
 そこで秦の群臣が「趙の十五城をもって、秦王の寿をことほいでいただこう」といった。
 すると相如も「秦の咸陽をもって、趙王の寿をことほいでいただきたい」と応じた。
 ついに秦王は、趙を威圧することができなかった。
 この功によって藺相如は上卿(宰相の位)に任ぜられ、廉頗(れんぱ)の上に立つことになった。
 それが廉頗には不服であった。
 みずからは将軍として攻城や野戦の功があったのに、相如は口舌(こうぜつ)の労のみをもって、上位に立っている。
 しかも相如は出身も卑しい。相如に会ったら、きっと恥をかかせてやる、と廉頗はいきまいた。
 これを知ると相如は、つとめて廉頗に会わぬようにした。
 公式の席では病気といつわって欠席して、序列をあらそうことをさけた。
 道でゆきあうと、車をかえして、かくれた。
 相如の家来たちは、そのような態度をはずかしく思った。ついには、ひまをくれ、と申しでる者があった。
 すると相如は、かたく引きとめ、家来たちに問うた、「お前たちから見て、廉将軍は秦王より手ごわいと思うか」。
 「いや、とうてい及びません」と、家来たちが答えた。
 そこで相如はいった。
 「その秦王さえも、わしは叱咤(しった)したのだ。どうして廉将軍だけをおそれようぞ。
 つらつら思うに、強秦があえて趙をおかさぬのは、われら両人がいるからなのだ。
 いま両虎がたたかえば、ともに生きることはできまい。わしは国家の急を考えて私情を二の次にしているのだ」。
 これを聞いた廉頗は、肉袒(にくたん)して荊(けい)を負い、つまり上衣をぬいで肩をだし、むちを持って、これで打ってくれという気持をしめしながら、相如の家の門前におもむいた。
 そして人を介して罪を謝し、ついに親睦して、ながく刎頸(ふんけい)の交わり(生死を共にし、首をはねられても、心を変えぬほどの交わり)をむすんだ。


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