ヴィテルボの聖ローザおとめ St. Rosa de Viterbio V. 記念日 9月 4日
天主はその聖人の中に奇蹟を行い給う。我等はあらゆる聖人の生涯に天主の聖寵の奇蹟を認め得るが、なかんずくその顕著に窺われるのはヴィテルボの聖ローザの一生であろう。
彼女は1235年イタリアのヴィテルボに生まれた。両親は貧しい人々であったが、子供といっては彼女一人であったので、及ぶ限りの注意を以て教え育てようとした。しかし彼女の教育に大いなる役割を演じたのは、父母の力よりも寧ろ天主の聖寵であった。まだようよう二、三歳の頑是ないローザが、おぼつかない足取りで近所のフランシスコ会の聖堂へ行き、天使の如く敬虔な態度でミサ聖祭にあずかるのを見た時の両親始め他の人々の驚嘆はどれほどであったろう!ローザは説教の間鈴のような眼をみはって司祭の一語をも聞き落とすまいと耳を傾け、それを記憶に留めては帰宅後父母や近所の子供らにくり返し語って聞かせるのであった。
それから二、三年経つと、ローザは苦行の生活を始めた。自家の小さな一つの部屋に、彼女は自ら祭壇を築き、殆どいつもその前で祈った。そして一枚の板を床として眠り、また人々が彼女の身体を心配するほどの厳しい断食をした。その衣服は粗剛な着心地の悪い物を用い、歩行は常に裸足、その上睡眠時間も極度に切り詰めるという風であった。それでも彼女は始終楽しげに見え、すべての人、殊に貧しい人々に親切で、自分の分と定められた貧しい食物を割いて彼等に施すことも珍しくはなかった。
その頃のローザについて幾つかの奇蹟談が伝えられている。一人の貧乏な家の子がある時花瓶を壊した。ローザは気の毒に思ってその破片を集め、それに向かって十字架の印をした。するとたちまち花瓶は元通り直って、継ぎ目さえわからなくなったと言う。
ローザは十歳の時思い病に罹った。死期も間近と思われた時、彼女は一つの示現を見た。それは天国、地獄、煉獄の有り様であった。それから
聖母マリアが御出現になって、彼女に美しい冠を示し、聖フランシスコの第三会に入るようお奨めになり、同時に今後の生活の仕方や彼女の仕事や、更にその受くべき迫害や苦痛などに就いても種々諭し給う所があった。かくて彼女は全快の後、粗服に縄の帯を締めるようになったのである。
彼女はまた幼きイエズスの御姿を幻の中に拝したこともあった。そのイエズスは既に茨の冠を戴き鮮血に染まっておいでになった。それを仰ぎ見たローザはその後で自ら我が身を血の流れるまで鞭打ったりした。
当時皇帝フェデリコは聖会に対して迫害を加え、その軍隊はイタリアに侵入して恐るべき残虐の数々を働いた。ヴィテルボ及びその近隣の町々も彼等の魔手を免れることは出来なかった。しかるにこの秋に当たり突然少女ローザは決然起って世の不信、不道徳、奢侈贅沢、その他あらゆる不正を戒める説教を行ったが、その雄弁、その力強い言々句々は天来のものとしか思われぬほどであった。ローザは街路や広場など人の大勢集まる所を選び、何人にも自分の姿が見えるよう石か柱の上に立って説教した。僅か12歳の少女の、この驚くべき熱弁は大いなる反響を呼び起こさずにはいなかった。多くの人々は彼女の言葉に感じて改心し、また罪の償いを献げるようになったのである。
フェデリコの家来達は之を苦々しいことに思い、ヴィテルボの市長をしてローザの一家に即刻退去を厳命させた。彼女の父は「何分冬のことでもあり、金もなし、行き先も心当たりがありませんから、暫くの御猶予をお願い致します。唯今この町を追い出されましては、私共一同野垂れ死にをするより外はございません」と憐れみを請うたが、市長は少しの情け容赦もなく「お前達の死ぬのは寧ろ望むところだ、さっさと出ていって貰いたい」とけんもほろろの挨拶なので、父は取りつく島もなく妻子をつれてすごすごと住み慣れた町を去り、数多の艱難の後ソリアノという所に来た。ここの人々は親切にも哀れな親子に目をかけてくれたので、彼等もそこに足を留めたが、ローザは早速またも説教を始めたのに、やはりその反響は驚くばかりであった。
しかるに1250年の12月5日のことであった。彼女は人々にやがて大いなる幸福が来ると預言した。すると果たしてその月の13日フリデリコ皇帝の崩御と共に、国内には平和がかえってきた。でローザ達も懐かしいヴィテルボ市へ戻ることとなったが、途中通りかかった或る町では、信仰を抛った一婦人の悪例に躓き棄教する者が夥しくあった。ローザはこれは捨ておけずと、先ずその婦人の非を咎めたけれど相手もさる者いろいろ抗弁してなかなか承服しない。するとローザは「それではどちらの言葉が正しいか、奇蹟によって決めることにしましょう」と言って、先ず盲人を癒すことを求めた、勿論相手にそういう事が出来る筈はない。見事それが失敗に帰すると、ローザは鮮やかにその盲人の目を開いて見せた。しかし婦人はまだ改心しなかった。そこで今度はローザが二人で燃え立つ火中を渡ろうと言い出した。相手は恐れをなしてそれに応ずる色がなかった。けれどもローザは山のように薪を持ち来らせ、これに火を放って紅蓮の炎の中に歩み入り暫くそこに立ち留まって見せた。彼女は着物すら少しも焼けず、まして身体にはわずかの火傷をも受けなかった。それには流石の婦人も顔色をかえて驚き、ついに改心するに至り、彼女と共に再び信仰に立ち帰った者も数多あった。
ローザ親子がヴィテルボに帰った時市民の歓びは一通りではなかった。今や15歳を迎えたローザは修道院に入ることを望んだ。けれどもそれが許されなかった時、彼女は再び自分の小さな部屋に籠もり、前の通り苦行と祈祷と黙想の生活を始めた。
二年後彼女はまだ17歳のうら若い身で、その清い霊魂を天主の御手に返した。その遺骸は始めヴィテルボの教会に葬られたが、後他の教会に改葬された。その時は死後既に5年を経ていたのに、容色さながら活ける如くであったという。
それから100年ほどしてその教会は火災で焼け落ち、ローザの柩もその衣服もまた焼失した。しかし彼女の聖骸は些かも損なわれず今日に及んでいる。
教訓
天主は時々弱き者をして大事をなさしめ給う事がある。聖女ローザの如きはその一例と言えよう、我等はこの少女の償いの生活を考える時、償いはおろか日常の義務すら果たす勇気のない己を恥ずには居られぬのである。
天主はその聖人の中に奇蹟を行い給う。我等はあらゆる聖人の生涯に天主の聖寵の奇蹟を認め得るが、なかんずくその顕著に窺われるのはヴィテルボの聖ローザの一生であろう。
彼女は1235年イタリアのヴィテルボに生まれた。両親は貧しい人々であったが、子供といっては彼女一人であったので、及ぶ限りの注意を以て教え育てようとした。しかし彼女の教育に大いなる役割を演じたのは、父母の力よりも寧ろ天主の聖寵であった。まだようよう二、三歳の頑是ないローザが、おぼつかない足取りで近所のフランシスコ会の聖堂へ行き、天使の如く敬虔な態度でミサ聖祭にあずかるのを見た時の両親始め他の人々の驚嘆はどれほどであったろう!ローザは説教の間鈴のような眼をみはって司祭の一語をも聞き落とすまいと耳を傾け、それを記憶に留めては帰宅後父母や近所の子供らにくり返し語って聞かせるのであった。
それから二、三年経つと、ローザは苦行の生活を始めた。自家の小さな一つの部屋に、彼女は自ら祭壇を築き、殆どいつもその前で祈った。そして一枚の板を床として眠り、また人々が彼女の身体を心配するほどの厳しい断食をした。その衣服は粗剛な着心地の悪い物を用い、歩行は常に裸足、その上睡眠時間も極度に切り詰めるという風であった。それでも彼女は始終楽しげに見え、すべての人、殊に貧しい人々に親切で、自分の分と定められた貧しい食物を割いて彼等に施すことも珍しくはなかった。
その頃のローザについて幾つかの奇蹟談が伝えられている。一人の貧乏な家の子がある時花瓶を壊した。ローザは気の毒に思ってその破片を集め、それに向かって十字架の印をした。するとたちまち花瓶は元通り直って、継ぎ目さえわからなくなったと言う。
ローザは十歳の時思い病に罹った。死期も間近と思われた時、彼女は一つの示現を見た。それは天国、地獄、煉獄の有り様であった。それから
聖母マリアが御出現になって、彼女に美しい冠を示し、聖フランシスコの第三会に入るようお奨めになり、同時に今後の生活の仕方や彼女の仕事や、更にその受くべき迫害や苦痛などに就いても種々諭し給う所があった。かくて彼女は全快の後、粗服に縄の帯を締めるようになったのである。
彼女はまた幼きイエズスの御姿を幻の中に拝したこともあった。そのイエズスは既に茨の冠を戴き鮮血に染まっておいでになった。それを仰ぎ見たローザはその後で自ら我が身を血の流れるまで鞭打ったりした。
当時皇帝フェデリコは聖会に対して迫害を加え、その軍隊はイタリアに侵入して恐るべき残虐の数々を働いた。ヴィテルボ及びその近隣の町々も彼等の魔手を免れることは出来なかった。しかるにこの秋に当たり突然少女ローザは決然起って世の不信、不道徳、奢侈贅沢、その他あらゆる不正を戒める説教を行ったが、その雄弁、その力強い言々句々は天来のものとしか思われぬほどであった。ローザは街路や広場など人の大勢集まる所を選び、何人にも自分の姿が見えるよう石か柱の上に立って説教した。僅か12歳の少女の、この驚くべき熱弁は大いなる反響を呼び起こさずにはいなかった。多くの人々は彼女の言葉に感じて改心し、また罪の償いを献げるようになったのである。
フェデリコの家来達は之を苦々しいことに思い、ヴィテルボの市長をしてローザの一家に即刻退去を厳命させた。彼女の父は「何分冬のことでもあり、金もなし、行き先も心当たりがありませんから、暫くの御猶予をお願い致します。唯今この町を追い出されましては、私共一同野垂れ死にをするより外はございません」と憐れみを請うたが、市長は少しの情け容赦もなく「お前達の死ぬのは寧ろ望むところだ、さっさと出ていって貰いたい」とけんもほろろの挨拶なので、父は取りつく島もなく妻子をつれてすごすごと住み慣れた町を去り、数多の艱難の後ソリアノという所に来た。ここの人々は親切にも哀れな親子に目をかけてくれたので、彼等もそこに足を留めたが、ローザは早速またも説教を始めたのに、やはりその反響は驚くばかりであった。
しかるに1250年の12月5日のことであった。彼女は人々にやがて大いなる幸福が来ると預言した。すると果たしてその月の13日フリデリコ皇帝の崩御と共に、国内には平和がかえってきた。でローザ達も懐かしいヴィテルボ市へ戻ることとなったが、途中通りかかった或る町では、信仰を抛った一婦人の悪例に躓き棄教する者が夥しくあった。ローザはこれは捨ておけずと、先ずその婦人の非を咎めたけれど相手もさる者いろいろ抗弁してなかなか承服しない。するとローザは「それではどちらの言葉が正しいか、奇蹟によって決めることにしましょう」と言って、先ず盲人を癒すことを求めた、勿論相手にそういう事が出来る筈はない。見事それが失敗に帰すると、ローザは鮮やかにその盲人の目を開いて見せた。しかし婦人はまだ改心しなかった。そこで今度はローザが二人で燃え立つ火中を渡ろうと言い出した。相手は恐れをなしてそれに応ずる色がなかった。けれどもローザは山のように薪を持ち来らせ、これに火を放って紅蓮の炎の中に歩み入り暫くそこに立ち留まって見せた。彼女は着物すら少しも焼けず、まして身体にはわずかの火傷をも受けなかった。それには流石の婦人も顔色をかえて驚き、ついに改心するに至り、彼女と共に再び信仰に立ち帰った者も数多あった。
ローザ親子がヴィテルボに帰った時市民の歓びは一通りではなかった。今や15歳を迎えたローザは修道院に入ることを望んだ。けれどもそれが許されなかった時、彼女は再び自分の小さな部屋に籠もり、前の通り苦行と祈祷と黙想の生活を始めた。
二年後彼女はまだ17歳のうら若い身で、その清い霊魂を天主の御手に返した。その遺骸は始めヴィテルボの教会に葬られたが、後他の教会に改葬された。その時は死後既に5年を経ていたのに、容色さながら活ける如くであったという。
それから100年ほどしてその教会は火災で焼け落ち、ローザの柩もその衣服もまた焼失した。しかし彼女の聖骸は些かも損なわれず今日に及んでいる。
教訓
天主は時々弱き者をして大事をなさしめ給う事がある。聖女ローザの如きはその一例と言えよう、我等はこの少女の償いの生活を考える時、償いはおろか日常の義務すら果たす勇気のない己を恥ずには居られぬのである。