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3-17-5 生活の遺品

2019-05-29 03:19:30 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

17 驚異の漢墓

5 生活の遺品

 馬王推の漢墓の副葬品は、合計百点あまり。その種類は絹織物をはじめ、漆器や木器や陶器、さらに穀物や食料品など、ほとんど完全な形で残っていた。
 絹織物のなかには、完全な状態の衣服、靴や靴下など、また枕やふろしきなどの日用品があった。
 数も多ければ、種類も多い。
 いままでにわかっている漢代の絹織物の、ほとんどすべての種類をふくんでいた。
 最も珍しく貴重な発見は、内棺の上にかぶせてあった帛画(はくが=絹の絵)である。
 帛画の長さは二〇五センチ。上から下にかけて、天上と人間と地下の世界を、三つの部分にわけてえがいている。
 中段にえがかれた老婦人は、この墓の主人をあらわしたものであろうか。
 画題は写実と想像とをとりまぜ、それらを総合して一幅の作品にまとめあげた。
 古代の絵画史上における一大傑作というべきものである。
 漆器は合計百八十点あまりが出土した。
 そのうち耳杯(じはい)が九十点、盤(ばん)が三十二点である。
 多くの漆器に文字が記されてあった。
 文字は、たとえば所有者を示す「軑候(だいこう)家」といったものや、用途を示す「君幸食」「君幸飲」といったもの、また容量を示す「石」「四斗」などというものがあった。
 一部の漆器には、食物がはいっていた。鼎(てい)のなかにはレンコンや鶏の骨があったし、盒(こう)のなかには米や麦でつくった食物が保存され、盤には牛肉や鶏や魚がのせてあった。
 二千年以上も前の食べものが、そのままの形で出土したのである。
 木俑(もくよう=木の人形)も百六十二点が出土した。
 絹や麻の衣服をつけたもの、彩色をほどこしたものなど、さまざまであった。
 二十数点で一組をなしたものは、歌舞の一座をあらわしていて、楽器をもつものは奏楽のさまを示す。
 一座のむこう側には、漆器の机や屏風、また食物を盛った漆器などが並べてあり、これは墓の主人が生前における歌舞酒宴のさまを模したものであろう。
 陶器にも、たくさんの型があった。彩色を加えたものや、錫箔(すずはく)をはったものもあった。
 そして多くの陶器に、食物が盛られていた。
 たとえば鼎(かなえ)には鶏の骨、盒(こう)のなかには穀類、壺(つぼ)や罐(かん)には野菜の漬けものや、くだもの(ヤマモモやウリなど)が入れてあった。
 竹を細んでつくった行李(こうり)も四十八件おさめられていた。
 あるものは衣服や絹織物を入れ、あるものは食料品を入れてあった。
 牛や鹿や犬などの肉、鳥や魚をはじめ、豆類、くだもの、野菜などである。
 一つの行李には鶏卵が四十個おさめられ、また一つの行李には薬草がおさめられていた。
 当時は、もちろん紙がない。竹でつくった“簡(かん)”に文字を記した。
 そうした簡も合わせて三百十二枚あった。書体は隷書(れいしょ)である。
 これらは副葬品の明細を記したもので、簡の記載と出土品とを照らし合わせてみると、おおむね一致した。
 そのほかにも、たくさんの種類の品がある。なかでも注目すべきものは、泥でつくった貨幣であろう。
 こうした貨幣から年代を考えると、いずれも武帝より前の時期のものである。
 したがって墓がつくられたのも武帝より前、すなわち前漢の初期と考えられる。
 いや、それよりも墓の年代、墓の主人公を考えるために有力な証拠となったものは、漆器の上や、封印(ふういん)にほどこされた「軑侯(だいこう)」の文字であった。


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