江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、23
第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて
◆1-3、お葬式
いつかボネ神父さまの跡をたどるため、黒崎の教会をたずねたときのことでした。あるかたからこんな話を聞きました。
「まあ、ボネ神父さまですって!わたしも、そのかたをよく存じあげていますのよ」。
「では、あなたも新田原にいらっしゃったかたのおひとりですね?」
わたしの好奇心にみちた不遠慮な質問にたいして、その人はやさしくほほえみながら、思いがけない、まったく感激的な事実を話してくれました。
「いいえ、そうではございませんが、神父さまの生涯を書いたあの思い出の記をよんで心を打たれたのです。わたしは、このご本を、信仰など見向きもしなかった友人にみせてやりました。ところが、その人は、すっかり感激して、それか教理の勉強をはじめ、熱心な信都なったのです。こんなことでボネ神父さまのお名前をきくと、何かしら、とてもなつかしく感ずるのです」。
このように、思い出の記は、その飾り気のない物語のなかに、フィクションなどに見られない生命のいぶきをもっていて、よむ人とのあいだに、人格的な交わりさえ成りたたせるのです。しかし、その多くは、かつて新田原に保養にきて、朝夕ボネ神父さまの訪問をうけた人たちによってしるされ、これに神父さまのほかの霊的子どもたちのなつかしい思い出も、加えられているのです。
では、これから、まったく未知の旅路へ出発する時のように、宗教や司祭にたいするあらゆる既成概念を排除しつつ、回想への巡礼によって、思い出の記と神父さまをご存じの人々のうちに、さらにかれの足跡をたずねてみることにしましょう。
(写真は黒崎教会)
是非、フェイスブックのカトリックグループにもお越しください。当該グループには、このブログの少なくとも倍の良質な定期投稿があります。ここと異なり、連載が途切れることもありません。
第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて
◆1-3、お葬式
いつかボネ神父さまの跡をたどるため、黒崎の教会をたずねたときのことでした。あるかたからこんな話を聞きました。
「まあ、ボネ神父さまですって!わたしも、そのかたをよく存じあげていますのよ」。
「では、あなたも新田原にいらっしゃったかたのおひとりですね?」
わたしの好奇心にみちた不遠慮な質問にたいして、その人はやさしくほほえみながら、思いがけない、まったく感激的な事実を話してくれました。
「いいえ、そうではございませんが、神父さまの生涯を書いたあの思い出の記をよんで心を打たれたのです。わたしは、このご本を、信仰など見向きもしなかった友人にみせてやりました。ところが、その人は、すっかり感激して、それか教理の勉強をはじめ、熱心な信都なったのです。こんなことでボネ神父さまのお名前をきくと、何かしら、とてもなつかしく感ずるのです」。
このように、思い出の記は、その飾り気のない物語のなかに、フィクションなどに見られない生命のいぶきをもっていて、よむ人とのあいだに、人格的な交わりさえ成りたたせるのです。しかし、その多くは、かつて新田原に保養にきて、朝夕ボネ神父さまの訪問をうけた人たちによってしるされ、これに神父さまのほかの霊的子どもたちのなつかしい思い出も、加えられているのです。
では、これから、まったく未知の旅路へ出発する時のように、宗教や司祭にたいするあらゆる既成概念を排除しつつ、回想への巡礼によって、思い出の記と神父さまをご存じの人々のうちに、さらにかれの足跡をたずねてみることにしましょう。
(写真は黒崎教会)
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