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公教要理図解:第59図 七つの罪源

2022-06-06 17:43:55 | 要理(カテキズム)
「第59図 七つの罪源」『公教要理図解』ワグネル神父

◎自罪のこと


自罪とは、われらが自ら犯す罪である。


この罪を自罪というわけは、原罪のように他から来るのではなく、各々自分で犯すからである。


罪を犯すのは、すなわち、思想(思い)、言語(ことば)、行為(おこない)、怠りをもってである。


邪推するのは、思想の罪の一例で、冒涜の罪を申すのは言葉の罪、主日に労働を致すのは、行為の罪、御復活日の頃に聖体を拝領せぬのは、怠りの罪である。


自罪は、大罪小罪の2種ある。


大罪とは、われらに聖寵を失わせ、われらを地獄に落とすものである。


大罪のことを死罪とも申す。その理由は、聖寵を失わせ、超自然的生命を奪い取り、人を地獄の永遠の死に処するからである。


大罪とは、重大なことについて、知りながら故意に自ら天主に背くことである。


大罪の赦される方法は、悔悛の秘跡と、告白をする希望に伴う完全なる痛悔との、この2つである。

10
小罪は聖寵を減らし、我等に現世または煉獄において、罰を受けさせるのである。

11
小罪とは、軽微なことについて、天主に背くことである。あるいは重大なことであっても、十分に知らずに、天主に背くことである。

12
われらがこの小罪を犯さないように、よく慎まなければならない理由は、
(1)小罪といえども、やはり天主の御旨に逆らうから
(2)小罪がだんだんと我等を大罪に導くから
(3)天主が現世によいても、また、来世においても、これを罰し給うから 
である。

13
小罪が赦される方法は、悔悛の秘跡、痛悔、ミサ聖祭の拝聴、施し、その他、聖寵をもちながら為す、種々の善行等である。

◎罪源のこと

14
罪源の数は、傲慢、貪欲、邪淫、餐食、嫉妬、憤怒、怠惰の7つである。

15
これらの罪を罪源と名付ける理由は、多くの罪の源となるからである。

16
罪源でも、大事につき、あるいは小事についてこれを犯すか、または知りつつあるいは十分に知らずして、これを犯すかによって、あるいは大罪となり、あるいは小罪となるのである。

◎傲慢のこと

17
傲慢というのは、むやみに自己を尊ぶことである。

18
最初にこの傲慢の罪を犯した者は、天主に背き、悪魔となった天使である。

19
傲慢の結果は
(1)人々の面前で名誉を買おうとすること
(2)自分に頼りすぎること
(3)人々から善人とみてもらいたいばかりに、偽善の挙動をすること
(4)両親または長上者に服従しないこと
(5)自分と同等の者、及び以下の者を軽蔑すること
などである。

◎絵の説明

20
この絵に書いてあるのは、善天使と悪天使との戦争である。中央には、善天使の首領である大天使聖ミカエルが、悪天使の統領であるルシフェルに向かって、戦っている。
ルシフェルはその仲間と共に、天主に背いて、「我は、天主と等しい者となろう」と叫んだ。
そのとき、ミカエルと善天使等は、ルシフェルに対して、「誰か、天主に並ぶようなものが在るであろうか、いや、そんなものはいない」と答えて申した。
このようにして、ルシフェルとその仲間たちは、雷光のように迅速に、地獄へ落とされたのである。

21
下段の左方には、著名な「バベルの塔」が見える。昔、旧約聖書のノアの子孫が、傲慢のために自分たちの名を高く挙げようとして、天に達するほどの高大な塔を建てるつもりであった。しかし、天主は彼らの傲慢を罰して、かれらの言語を混乱させられた。それで、彼らはその目的を達することができず、四方八方に散り散りになった。よって、この塔はバベルすなわち、混乱と名付けられたのである。

22
下段の右方には、福音書中のファリサイ派と、収税官とが描かれている。この二人は、祈ろうとして聖殿に参詣致した。しかし、ファリサイ派は、立ちながら、傲慢な祈祷を為し、自己を他人よりも尊い者と致した。

しかしながら、収税官は、謙遜と悔悛との心をもって祈ったから、その祈祷は天主の聖旨にかなった。ファリサイ派の祈祷は、罪の上に罪を増すばかりであった。なぜならば、イエズス キリストも仰せられたとおり、およそ、自らを高くする者は卑くせられ、自ら卑くする者は高くせられるからである。





聖ノルベルト大司教     St. Norbertus E.   

2022-06-06 17:35:59 | 聖人伝
聖ノルベルト大司教     St. Norbertus E.                   記念日 6月 6日


 1015年頃の事である、皇帝ヘンリコ5世の宮廷に、ノルベルトという副助祭がいた。家は門地の高い貴族で、収入も相当豊かであったが、ただその生活振りは地位に似げなく放縦を極め、甚だ感服出来かねるものがあった。
 所がある日の事、馬に乗って一人の従者を連れ、祭礼の見物に出ると、途中大暴風雨に逢ったが、その時突然従者が絶叫した「旦那様、帰りましょう。天主様の御罰があなたの上に下りますよ!」
 その瞬間ものすごい電光がひらめいて、宇宙も裂けたかと思われるような雷鳴が轟いたかと思うと、ノルベルトは馬もろとも大地に叩きつけられ、それと同時に気を失ってしまった。
 それからどれほど時間がたった事であろう。ようように我に帰った彼は、起きあがるや否や聖パウロの如く「主よ、御身は何を私にお望みになりますか?」と叫んだ。彼は「悪事をやめて、善いことをしなさい。平和を探し求めて、それに従いなさい」という聖主の御言葉を聞いたのである。そして天主の聖旨を知るべくジーグブルグの一修院に籠もって祈祷や大斉をなし、院長と共に心の修養に勉めた。次いで彼はケルン市に赴き、司祭叙階の準備に励み、二年後の1115年めでたくその資格を得た。
 かくて再びもといた所に戻った彼は、全く打って変わったような人間になり、信仰極めて厚く、様々の苦行を行い、しばしば説教を試みて、総ての人々にキリスト教的生活を為すべき事を勧めた。しかし、彼は至る所で反対にあい、わけても昔を知っている人々には悪し様に言われ、時としては顔に唾さえ吐きかけかねない仕打ちも受けた。けれどもノルベルトは以前の罪の償いにキリストの御苦難を念じつつ、何事も目をつぶってじっと辛抱したのである。
 彼はここかしこの町や村を廻って教えを説いた。が、彼はそこでも迫害冷遇を蒙らねばならなかった。そして挙げ句の果てには教皇使節の許に讒訴までされるに至った。
 ノルベルトはそれに対し謙遜に弁明した。それから自分の所有物を売り、得た金を貧民に施し、身分や地位も一切捨ててちょうど教皇ジェラジオ2世が御逗留中の南フランスにあるプロバンスに行ったが、既にノルベルトの聖なる日常に就いて聞知されている教皇は快く彼を迎え、以後御許に引き留めておこうとされた。
 しかしノルベルトはその御好意に甘えはしなかった。彼は教皇に願って到るところで説教する許可を得、まずケルンへと志した彼は裸足で雪中を行き、菜食に甘んじ、しばしば徹夜して祈った。途中フランスのヴァランシアンヌまで来ると、たって望まれて一場の説教を試みたが、彼はフランス語をほんの少ししか知らぬに拘わらず、聴衆はいずれもよく彼の言わんとする所を悟り深い感動を受けた。これはちょうどエルサレムにおける聖霊降臨の日に使徒達の上に起こったと同じく、感ずべき聖霊の御奇特に相違ない。
 彼はそれからなおも行脚を続けようとした。けれども引き連れた3人の従者が死んだために、しばらくはそれも出来なかった。その内に若い一聖職者が彼の許に来て、是非にと同行を望んだ。で、ノルベルトはその人と共にカンブレの司教ブルカルドを訪れ、付近一帯で自由に説教する許可を得た。天主は彼等の活動に豊かな祝福を垂れ給い、その成果には極めて大いなるものがあった。さればラオンの司教バルテルミイは、教皇の推薦に従って、彼を自分の司教区に、礼を厚くして招聘した。
 ノルベルトはその請を容れ、司教よりプレモントレの谷にある一小聖堂を与えられた。彼はかねてから、日常の生活にも祈りと苦行とを織り込むのを目的とする修道会の創立を考えていたが、ある夜プレモントレで一群の白衣の修道者達が、手に手に十字架とたいまつをとを携えて過ぎゆく幻影を見た。彼はこれこそわが兄弟達、わが精神を受け継ぐ人々であると思った。
 それからしばらくして、1120年の1月25日、いよいよ彼の念願なるプレモントレ修道会が創立され、司教は彼に白衣を与えたが、それはその後長く同修道会の制服となった。
 彼は早速付近を廻って説教した。それに感じてしばらくの後彼の修道会には13人の修練者が出来た。それはいずれも既に司祭の位を受けた人達ばかりであった。ノルベルトは彼等に会の精神を伝え、特に総て御聖体の秘蹟に関係ある事物、従ってミサ聖祭その他あらゆる勤行に対し尊敬と信心を示す事を使命とした。
 彼が教会の用事でドイツのシュバイエルに行った時の事であった。彼は皇帝と教皇使節の懇望黙し難く、とうとうマグデブルグの大司教になる事を承諾した。その教区には改革すべき事、整理すべき事が山ほどあった。彼が任地に乗り込むと、大司教館の玄関番は、そのあまりにもみすぼらしい服装から、乞食と思い誤り、なかなか彼の館に入るを肯んじなかった。そればかりでない。新大司教に反感を有する者は、事ごとに反対妨害し、果ては彼を亡き者にしようとまでした。実際暴漢が太刀をひらめかして切ってかかった時、彼が危うく難を逃れて、かすり傷すら身におびなかったのは、奇蹟という外はない。しかし聖大司教の徳行と、柔和にして剛毅な心とは一歩一歩あらゆる障害を克服せずにはいなかった。
 1132年にノルベルトは、皇帝の戴冠式に参列すべくローマに赴いたが、はからずもそこで重病に罹り、4ヶ月は薬餌に親しまねばならなかった。それからようやくマグデブルグに帰り、なお2年の間職務を執っていたが、遂に1134年54歳で永眠した。

教訓

 ノルベルトは身近の落雷に主の御戒めを見た。人は誰でも一生の中に常ならぬ出来事に出逢うものである。そういう時我等もそこに主の御教訓を認めて、己をより善き者と為すべく努力せねばならぬ。