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第8章 俗権と教権との衝突

2018-07-05 10:22:42 | 教会史
「第8章 俗権と教権との衝突」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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この時代の出来事をひとまとめにしてください

ドイツ皇帝は、聖会を奴隷にして、自分の意のままに遣い回そうとしました。
聖会はそれにさからって、その束縛を脱しました。これを俗権と教権との衝突と申します。その間にも聖会は相変わらず世界平和と自己の改革とに力を尽くしたのであります。

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ドイツ皇帝はどうして聖会に干渉するようになりましたか

カロリンガ大帝国がくずれましてから、イタリアの諸侯は教皇庁に干渉して、横暴の限りを尽くすのでしたから、教皇ヨハネ12世は、ドイツ王オットー1世の助けを求め、963年ローマにおいてこれに帝冠を加えました。こうして、神聖ローマ帝国なるものが新たに起こりました。

しかしそれは前門にオオカミを防いで、後門にトラを進める結果となり、聖会は全くドイツ皇帝の奴隷となってしまいました。

ドイツ皇帝は、司教達を登用して諸侯となし、俗務に当たらせました。
しかも、これを叙任するのに指環と牧杖を以てするので、神聖なる教権までが、俗界の君主から授けられるかのような観を呈するに至りました。なお、皇帝は司教区や大修道院区を競売(せり売り)にし、多く献金したものにこれを授けるとか、あるいは自分に忠誠な家臣に褒美としてこれを与えるとかしました。時としては教皇の任命にもそのようなことをしたものです。こうなっては早かれ遅かれ、皇帝の手の中に丸められ、消え失せるのを待つより外はありません。

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この悪弊を刈り除くために聖会は何をしましたか

教皇聖グレゴリウス7世は、一大決心をもって、この悪弊を刈り除こうと努めました。「俗権から任命されたものは、これを司教とも大修道院長とも認めない。
 皇帝であろうと、その他の王公であろうと、司教叙任権を公使するものは、断然これを除名する」という教令を発布しました。

時のドイツ皇帝ヘンリ4世は、上の教令をあざ笑って問題にしません。
相変わらず司教、大修道院長等を叙任し、1076年には、ウォルムスに司教たちを招集して、教皇の廃位を決議し、人をローマに遣わしてその決議文を教皇グレゴリウスに突きつけさせました。教皇もやむを得ず、ヘンリ及びウォルムスに集会した司教たちに対して除名を宣告しました。

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除名の結果はどうなりましたか

その頃のドイツは選挙王国で、全権は諸侯の掌中にありました。
1ヶ年以内にその除名を解除されなければ、当然位を失わねばならなかったのです。
さすがのヘンリもうろたえずにはいられません。
一日も早く教皇に除名の取り消しを嘆願するのが一番だと思い、1077年1月、ひそかにアルプスの険しい道を越えてイタリアに入り、グレゴリウスの駐在しているカノッサ城に着き、王位を脱ぎ、苦行者の服をつけ、はだしで門前に立つこと3日にして、ようやく教皇の恩典を得ました。

「カノッサは暴力に対する精神の勝利で、人類の一大名誉だ」
とフランス国19世紀の評論家ルメトルは言っています。

しかし、叙任権問題はこれで解決した訳ではなく、久しく紛争を続けましたが、
終に1122年ウォルムスの協約を成立し、皇帝は司教及び大修道院長の選挙に干渉しないこと、ただ、選挙後、笏をもってこれを叙任することと定め、こうして半世紀にわたる「もつれ」も聖会側の勝利をもってめでたく解決しました。

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聖会は世界平和の為に何をしましたか

聖会は当時の荒々しい気風を和らげ、平和の精神を養うが為に、「神の平和」と、「神の休戦」という2つの制度を設けました。
「神の平和」とは、教会、修道院、聖職者、農夫、商工人、その住宅、農作物、家畜等を犯すべからずという法令でした。今日戦闘員と非戦闘員とを区別し、非戦闘員の生命、住宅、財産に手を触れるのを禁じるのは、ここに始まったのです。

「神の休戦」とは、一定の期日に戦争を禁止するのでありまして、その期日とは、毎週水曜日の夕方から月曜日の早朝まで、その他大祝日とその前日、四季のはじめ、わが主の御降誕節と7旬節から御復活祭までを含んだものでした。
上記制度は、10世紀の終わり頃、南フランスのアキテーヌ地方で考案され、次第に全キリスト教界に実施せられたものであります。
なお、「神の平和」か「神の休戦」かに背いたものがあると、司教たちはその地方ひ聖務禁止令を発し、必要やむを得ない場合のほかは、秘跡を授ける事すらゆるさず、もって犯人の自省を促すのでした。

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聖会はどのようにして自己の改革を断行しましたか

ドイツ皇帝の圧制と絶え間なき戦争の禍いとを脱した聖会は、平和の中に黙々として自己の改革に力を尽しました。改革運動は、11世紀にはじまって、12世紀、13世紀に及びました。この間は、実に大教皇、大聖人、大事業の世紀でございました。

結び--
聖会と離れた近代人は、恐るべき世界戦争、「地獄の戦争」とも言われたような災いを見るに至りました。しかし、中世には、教会の努力によってそのような不幸は見られなかったのです



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聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭  St. Antonius Maria Zacharias C.

2018-07-05 10:15:58 | 聖人伝
聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭  St. Antonius Maria Zacharias C.  記念日 7月 5日


 1503年イタリアのクレモナで、ザカリアと名乗る身分の高い青年が世を去った。彼はまだ若かったが既に妻帯の身で、妻は彼より更に若く、なお少女と言えるほどの年頃であった。二人の間には生後数ヶ月を経たばかりの男の子が一人あり、名をアントニオと言った。信心深い母はこの忘れ形見を掌中の珠といつくしみ、その無垢の心に早くから聖い信仰や祈祷、神への愛、隣人への愛などの精神を刻み込もうと努めた。それでアントニオは敬虔に愛深く生い立ち、まだ年端もゆかぬ内から貧しい子供に自分の晴れ着を恵んだり。我が家の召使い達に説教や公教要理の勉強の折り聞いた話を語って聞かせたりしたこともあったという。
 クレモナで基礎教育を受けた後、彼はパヴィアで哲学を、それからパドヴァで医学を専攻した。この医学を専攻したのは何もそれで生計を立てようと思ったからではない。暮らして行くには有り余るほどの財産を持っている。それでそれはまったく人助けの為、同胞殊に貧しい人々の霊肉の悩みを救いたいという一念から出たものであった。彼はこの志に従って暫くはその博愛の業にいそしんでいた。が、その内に天主の御示しを蒙って司祭になる決心を起こし、神学の研究にとりかかり、ついに1528年叙階の秘蹟を受けた。
 その初ミサの時であった。彼が一心こめて聖い祭りを行っていると、列席者はその頭に不思議な光の冠の燦爛と輝くのを認めた。また天使達が天降って聖変化の後主を礼拝し奉る有様をもありありと見たのである。
 司祭となったアントニオは寝食を忘れて救霊に勉めた。彼は機会ある毎に説教し、告解を聴いた。その上貧民、病人、囚人をも喜んで見舞い慰め、すべての人々を力の及ぶ限り助けようとした。しかも自分の生活は厳格を極め、しばしば断食し、決して肉を摂らず、徹宵祈り明かすことも珍しくなかった。

 当時の世の風潮には実に嘆かわしいものがあった。教会にも冷淡不熱心な信者が多く、それにあたかもマルチン・ルターがその異端説を唱道し始めた頃の事とて、これに走る者もまた少なくなかった。で、アントニオは痛嘆に堪えず、いかにしたら風俗改善の実を挙げることが出来ようかと日夜肝胆を砕いていたが、天主のお示しにより、ふと司祭達の会を設けて償いの業をしたり人々に改心を説いたりしてはどうかと考えついた。これは間もなく実現される運びになった。即ち1530年に、ルイザ・トレリという大公の息女から、霊魂上の顧問としてミラノに来るようお招きを受けたアントニオは、謙遜の心から切に辞退したが、なおも再三の懇望黙し難く、とうとうその地に赴いた。所が同市で思いもかけず二人の青年が彼を訪れ、生活を共にせんことを願った。これこそ実に新修道会の始めとなったのである。
 その後更に二人の司祭が来て、やはり同志に加わった。かようにして会員の数が8人に達すると、アントニオは教皇クレメンス7世に願い出てその認可を得た。8人の会員達は聖パウロの聖職者と名乗り、救霊の熱心に燃え、自らはへりくだって清貧に甘んじ、峻厳な生活を送ったから、世の人々の賛嘆の的となった。
 とはいえいつの世にも悪魔の配下は跡を絶たない。やがて聖人方をそねみ誹謗する者が出て、その為会を解散せねばならぬかと思うような悲運に立ち至った。けれども幸いに聖会側の調査は彼及びその同志に何の罪もないことを立証した。で、教皇パウロ3世は更にその新修道会を認可され、その為同会も発展の一路を辿ることが出来るようになった。彼等の活動は多大の効果を収め、わけても祭壇の秘蹟に対する尊敬を説き頻繁な御聖体拝領をすすめた事などは彼等の偉大な功績と言えよう。
 しかしアントニオは少しも思い上がるようなことはなかった。彼は自分で戒律を編み、首尾よく教皇の認可を受けたが、謙遜の一念からそれを人々に知らせなかった。実際それが発見されたのは、彼の死後40年を経た1579年のことであった。また彼は会の総長になることを承知せず、代わりに最初の弟子なるモリジアを推挙任命したが、その聖なる生活振りは会員一同の鑑と仰がれずにはいなかった。彼は同じ女子修道会の戒律をも編纂した。なおアントニオ等は司教からひとつの教会を与えられたが、それは聖バルナバに献げられたものであったから、これより彼等の会はバルナバ会と呼ばれるに至った。
 アントニオはまだ若かったが、その激しい活動と厳しい苦行とは、早くも彼の体力を消耗し尽くした。それでも彼は働きをやめず、1537年にはヴィンセンシアで、1539年5月にはグナスタラで説教を続けた。しかし彼はその使命の半ばにして倒れ、再びクレモナに連れ帰られ、思い出多い我が家においてなお健在の母に看取られつつ息を引き取った。時は7月5日のことで享年37であった。
 その帰天後いくばくもなく、世人は彼を聖人として尊敬するようになった。けれども公の列聖の儀は騒然たる世相が禍して、なかなか行われず、ようやくその実現されたのは、1897年5月27日、レオ13世教皇の御代においてであった。

教訓

 人の誹謗を受けた時は、聖アントニオに倣って全知なる天主に信頼しよう。正義に在す主は、いつかは必ずその無実を晴らして下さるに相違ない。



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