「第8章 俗権と教権との衝突」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教
37
この時代の出来事をひとまとめにしてください
ドイツ皇帝は、聖会を奴隷にして、自分の意のままに遣い回そうとしました。
聖会はそれにさからって、その束縛を脱しました。これを俗権と教権との衝突と申します。その間にも聖会は相変わらず世界平和と自己の改革とに力を尽くしたのであります。
38
ドイツ皇帝はどうして聖会に干渉するようになりましたか
カロリンガ大帝国がくずれましてから、イタリアの諸侯は教皇庁に干渉して、横暴の限りを尽くすのでしたから、教皇ヨハネ12世は、ドイツ王オットー1世の助けを求め、963年ローマにおいてこれに帝冠を加えました。こうして、神聖ローマ帝国なるものが新たに起こりました。
しかしそれは前門にオオカミを防いで、後門にトラを進める結果となり、聖会は全くドイツ皇帝の奴隷となってしまいました。
ドイツ皇帝は、司教達を登用して諸侯となし、俗務に当たらせました。
しかも、これを叙任するのに指環と牧杖を以てするので、神聖なる教権までが、俗界の君主から授けられるかのような観を呈するに至りました。なお、皇帝は司教区や大修道院区を競売(せり売り)にし、多く献金したものにこれを授けるとか、あるいは自分に忠誠な家臣に褒美としてこれを与えるとかしました。時としては教皇の任命にもそのようなことをしたものです。こうなっては早かれ遅かれ、皇帝の手の中に丸められ、消え失せるのを待つより外はありません。
39
この悪弊を刈り除くために聖会は何をしましたか
教皇聖グレゴリウス7世は、一大決心をもって、この悪弊を刈り除こうと努めました。「俗権から任命されたものは、これを司教とも大修道院長とも認めない。
皇帝であろうと、その他の王公であろうと、司教叙任権を公使するものは、断然これを除名する」という教令を発布しました。
時のドイツ皇帝ヘンリ4世は、上の教令をあざ笑って問題にしません。
相変わらず司教、大修道院長等を叙任し、1076年には、ウォルムスに司教たちを招集して、教皇の廃位を決議し、人をローマに遣わしてその決議文を教皇グレゴリウスに突きつけさせました。教皇もやむを得ず、ヘンリ及びウォルムスに集会した司教たちに対して除名を宣告しました。
40
除名の結果はどうなりましたか
その頃のドイツは選挙王国で、全権は諸侯の掌中にありました。
1ヶ年以内にその除名を解除されなければ、当然位を失わねばならなかったのです。
さすがのヘンリもうろたえずにはいられません。
一日も早く教皇に除名の取り消しを嘆願するのが一番だと思い、1077年1月、ひそかにアルプスの険しい道を越えてイタリアに入り、グレゴリウスの駐在しているカノッサ城に着き、王位を脱ぎ、苦行者の服をつけ、はだしで門前に立つこと3日にして、ようやく教皇の恩典を得ました。
「カノッサは暴力に対する精神の勝利で、人類の一大名誉だ」
とフランス国19世紀の評論家ルメトルは言っています。
しかし、叙任権問題はこれで解決した訳ではなく、久しく紛争を続けましたが、
終に1122年ウォルムスの協約を成立し、皇帝は司教及び大修道院長の選挙に干渉しないこと、ただ、選挙後、笏をもってこれを叙任することと定め、こうして半世紀にわたる「もつれ」も聖会側の勝利をもってめでたく解決しました。
41
聖会は世界平和の為に何をしましたか
聖会は当時の荒々しい気風を和らげ、平和の精神を養うが為に、「神の平和」と、「神の休戦」という2つの制度を設けました。
「神の平和」とは、教会、修道院、聖職者、農夫、商工人、その住宅、農作物、家畜等を犯すべからずという法令でした。今日戦闘員と非戦闘員とを区別し、非戦闘員の生命、住宅、財産に手を触れるのを禁じるのは、ここに始まったのです。
「神の休戦」とは、一定の期日に戦争を禁止するのでありまして、その期日とは、毎週水曜日の夕方から月曜日の早朝まで、その他大祝日とその前日、四季のはじめ、わが主の御降誕節と7旬節から御復活祭までを含んだものでした。
上記制度は、10世紀の終わり頃、南フランスのアキテーヌ地方で考案され、次第に全キリスト教界に実施せられたものであります。
なお、「神の平和」か「神の休戦」かに背いたものがあると、司教たちはその地方ひ聖務禁止令を発し、必要やむを得ない場合のほかは、秘跡を授ける事すらゆるさず、もって犯人の自省を促すのでした。
42
聖会はどのようにして自己の改革を断行しましたか
ドイツ皇帝の圧制と絶え間なき戦争の禍いとを脱した聖会は、平和の中に黙々として自己の改革に力を尽しました。改革運動は、11世紀にはじまって、12世紀、13世紀に及びました。この間は、実に大教皇、大聖人、大事業の世紀でございました。
結び--
聖会と離れた近代人は、恐るべき世界戦争、「地獄の戦争」とも言われたような災いを見るに至りました。しかし、中世には、教会の努力によってそのような不幸は見られなかったのです
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。
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この時代の出来事をひとまとめにしてください
ドイツ皇帝は、聖会を奴隷にして、自分の意のままに遣い回そうとしました。
聖会はそれにさからって、その束縛を脱しました。これを俗権と教権との衝突と申します。その間にも聖会は相変わらず世界平和と自己の改革とに力を尽くしたのであります。
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ドイツ皇帝はどうして聖会に干渉するようになりましたか
カロリンガ大帝国がくずれましてから、イタリアの諸侯は教皇庁に干渉して、横暴の限りを尽くすのでしたから、教皇ヨハネ12世は、ドイツ王オットー1世の助けを求め、963年ローマにおいてこれに帝冠を加えました。こうして、神聖ローマ帝国なるものが新たに起こりました。
しかしそれは前門にオオカミを防いで、後門にトラを進める結果となり、聖会は全くドイツ皇帝の奴隷となってしまいました。
ドイツ皇帝は、司教達を登用して諸侯となし、俗務に当たらせました。
しかも、これを叙任するのに指環と牧杖を以てするので、神聖なる教権までが、俗界の君主から授けられるかのような観を呈するに至りました。なお、皇帝は司教区や大修道院区を競売(せり売り)にし、多く献金したものにこれを授けるとか、あるいは自分に忠誠な家臣に褒美としてこれを与えるとかしました。時としては教皇の任命にもそのようなことをしたものです。こうなっては早かれ遅かれ、皇帝の手の中に丸められ、消え失せるのを待つより外はありません。
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この悪弊を刈り除くために聖会は何をしましたか
教皇聖グレゴリウス7世は、一大決心をもって、この悪弊を刈り除こうと努めました。「俗権から任命されたものは、これを司教とも大修道院長とも認めない。
皇帝であろうと、その他の王公であろうと、司教叙任権を公使するものは、断然これを除名する」という教令を発布しました。
時のドイツ皇帝ヘンリ4世は、上の教令をあざ笑って問題にしません。
相変わらず司教、大修道院長等を叙任し、1076年には、ウォルムスに司教たちを招集して、教皇の廃位を決議し、人をローマに遣わしてその決議文を教皇グレゴリウスに突きつけさせました。教皇もやむを得ず、ヘンリ及びウォルムスに集会した司教たちに対して除名を宣告しました。
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除名の結果はどうなりましたか
その頃のドイツは選挙王国で、全権は諸侯の掌中にありました。
1ヶ年以内にその除名を解除されなければ、当然位を失わねばならなかったのです。
さすがのヘンリもうろたえずにはいられません。
一日も早く教皇に除名の取り消しを嘆願するのが一番だと思い、1077年1月、ひそかにアルプスの険しい道を越えてイタリアに入り、グレゴリウスの駐在しているカノッサ城に着き、王位を脱ぎ、苦行者の服をつけ、はだしで門前に立つこと3日にして、ようやく教皇の恩典を得ました。
「カノッサは暴力に対する精神の勝利で、人類の一大名誉だ」
とフランス国19世紀の評論家ルメトルは言っています。
しかし、叙任権問題はこれで解決した訳ではなく、久しく紛争を続けましたが、
終に1122年ウォルムスの協約を成立し、皇帝は司教及び大修道院長の選挙に干渉しないこと、ただ、選挙後、笏をもってこれを叙任することと定め、こうして半世紀にわたる「もつれ」も聖会側の勝利をもってめでたく解決しました。
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聖会は世界平和の為に何をしましたか
聖会は当時の荒々しい気風を和らげ、平和の精神を養うが為に、「神の平和」と、「神の休戦」という2つの制度を設けました。
「神の平和」とは、教会、修道院、聖職者、農夫、商工人、その住宅、農作物、家畜等を犯すべからずという法令でした。今日戦闘員と非戦闘員とを区別し、非戦闘員の生命、住宅、財産に手を触れるのを禁じるのは、ここに始まったのです。
「神の休戦」とは、一定の期日に戦争を禁止するのでありまして、その期日とは、毎週水曜日の夕方から月曜日の早朝まで、その他大祝日とその前日、四季のはじめ、わが主の御降誕節と7旬節から御復活祭までを含んだものでした。
上記制度は、10世紀の終わり頃、南フランスのアキテーヌ地方で考案され、次第に全キリスト教界に実施せられたものであります。
なお、「神の平和」か「神の休戦」かに背いたものがあると、司教たちはその地方ひ聖務禁止令を発し、必要やむを得ない場合のほかは、秘跡を授ける事すらゆるさず、もって犯人の自省を促すのでした。
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聖会はどのようにして自己の改革を断行しましたか
ドイツ皇帝の圧制と絶え間なき戦争の禍いとを脱した聖会は、平和の中に黙々として自己の改革に力を尽しました。改革運動は、11世紀にはじまって、12世紀、13世紀に及びました。この間は、実に大教皇、大聖人、大事業の世紀でございました。
結び--
聖会と離れた近代人は、恐るべき世界戦争、「地獄の戦争」とも言われたような災いを見るに至りました。しかし、中世には、教会の努力によってそのような不幸は見られなかったのです
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