『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
14 落日のローマ帝国
4 帝国のたて直し
解体の危険にさらされたローマ帝国の本格的な再建に着手したのは、三世紀末のディオクレティアヌス帝であった。
彼は一兵卒から身を起こし、先帝暗殺後の混乱をしずめて帝国を統一した。
そして広大な領土を確実に治めるために、同郷のイリリア人マクシミアヌスを第二の正帝(アウグストゥス)とし、さらに二人の副帝(カエサル)をえらんで、帝国を四つに分けて治めた。
正帝はそれぞれ娘を副帝の妻にさせ、結びつきを固めた。
こうして彼はガリアやブリタニアの反乱を鎮定し、ゲルマン人を撃退し、ガルシアにも勝利を得て、帝国の統一と威信を回復した。
しかしそれはローマがアウグストゥスや五賢帝の時代の状態に復帰したことではなかった。
再建された帝国の君主はもはやローマ第一の市民としての元首ではなく、専制君主であり、市民は臣民となり、皇帝の前ではペルシアふうにひざまずいて拝礼しなければならなかった。
ディオクレティアヌスはまた軍団の兵員を増強し、属州には屯田(とんでん)辺境軍を配置し、別に騎兵を主力とした機動力のある野戦軍を編成した。
行政組織も改め、全国を十二管区にわけ、それぞれに近衛長官に属する管区長官をおき、属州は細分されて総数百にもなり、イタリアもそのなかに編入された。
ただローマ市だけは、これまでのように特別な地位が与えられた。
属州には総督と軍司令官が併任され、ローマ古来の伝統を破って、文武の官職が分離された。
このような官僚と軍隊を維持するために、税制も根本的に改められ、これまでの地祖と人頭税とを統合した体系にし、このため全国的に課税基準の評価が行なわれた。
これによって中央政府の管区、属州、都市に対する課税の割り当てが容易になった。
しかしけっきょくは末端の都市にしわよせがきて、徴税の未収額は、都市参事会が尻ぬぐいしなければならず、この点からも帝国の中流市民たる参事会員層の没落に拍車をかけた。
帝はまた、三世紀のあいだに進行した悪性インフレを断ちきるために、幣制改革をおこなった。
三〇一年には、最高公定価格令をだし、すべての生活必需物資はもとより、さまざまな職種の労働者の賃金や書記、弁護士、教師の報酬まで細かに定めた。
違反者は死刑や追放に処することとしたが、そのため物資の供給は円滑でなくなり、闇取り引きはなくならず、物価の上昇を抑制することはできず、まもなくこの法令は有名無実となってしまった。
ディオクレティアヌスはまた帝国の新体制の一環として、ローマ古来の宗教の復興をはかり、外来宗教を取り締まった。
しかしキリスト教に対しては即位以来寛大で、信者の数は増大し、妃や皇女までも入信した。
キリスト教の迫害は三世紀中ごろ、デキウス帝とそれにつづく元首のもとで約十年間、組織的におこなわれたが、二六〇年に即位したガリェヌス帝のとき以来、中止されたので、キリスト教は黙認された形で発展してきたのであった。
ところがディオクレティアヌス帝の晩年に突然激しい迫害がはじめられた。
それは副帝ガレリウスの策動によるものと伝えられているが、ユピテルを守護神としたディオクレティアヌス自身も迫害にふみきったことは疑いない。
しかもそれはこれまでにない激しいものとなった。
すなわち三〇三年の勅令によってキリスト教集会の禁止、教会堂などの破壊、聖書、祭器の引き渡し、キリスト者の官吏・軍人の免職などが告示された。
やがてニコメディアの宮殿の火事がおこると、あのネロのときのように、キリスト者に放火の責任が帰せられ、信者は逮捕、拷問(ごうもん)されたり、異教の神殿に犠牲を捧げることを強要された。
迫害の激しさに棄教(ききょう)した者もあったが、多くの信者は信仰を守りぬいた。
その一例を次に記してみよう。
あるとき、キリスト者を嘲った劇がディオクレティアヌスの面前でおこなわれた。
俳優のひとりが、洗礼をうけるための白衣の扮装をしていた。彼は「重苦しくてたまらない」と叫んで、病気にでもなったように舞台に横臥し、「軽くしてくれ」という。
すると、仲間のひとりが「どうして軽くしようか。大工のようにおまえを削ってやろうか」と尋ねる。
「バカめ、おれはキリスト者になって、神様のもとに舞い上がりてえんだ」と白衣の男は答える。
そこに偽(にせ)教師がやってきて、いろいろとキリスト教の用語を使いはじめる。
ところがこの俳優は少年のころ、ガリアのキリスト者の家庭に育てられた。
この劇で冗談にキリスト教の用語がせりふに使われ、観衆がどっと笑い興じているとき、彼はふと父母のことと、両親から教えられたことを思い出した。
彼は思わず「キリストさまのお恵みをお与えください。もういちど生まれ変わらせていただきとうございます」と叫びだした。
観衆はますます笑いこけたが、俳優は皇帝に向かっていった。
「英明(えいめい)にまします陛下、またお笑いなされたお客様のかたがた、私の申すことをお信じください。キリストこそ主にましますのです」
ディオクレティアヌスははじめてこの俳優が本気でいっているのが解った。
そこで帝は激怒し処刑を命じた。やがて彼のからだは猛獣の爪で引き裂かれ、松明(たいまつ)で焼かれた。
しかも彼は死のまぎわまで「私が知っている王のなかで、真に拝すべき王は、キリストさまのほかにはありません。キリストさまのためならば、何度でも生命(いのち)を捧げます」といいつづけて死んだ。
このように大部分の信者は信仰を守りぬいた。
もはや国家権力によっても根絶しがたい実力を、キリスト教は蓄積していたのであり、迫害も三〇五年には下火となった。
この年、ディオクレティアヌス、マクシミアヌス両帝が退位し、ガレリウスとコンスタンティウス一世が正帝に昇格し、新たに副帝が二名任名されたが、これに不満な将軍たちも現われ、四分統治制は早くも崩れはじめた。
このような情勢のもとで、コンタンティウス一世の子コンスタンティヌスも、父が死んだ三〇六年以来、帝位争いに加わった。
キリスト教迫害は三一一年に、ガレリウス帝が臨終の床で迫害中止の勅令をだして終わった。
この勅令によってキリスト者は国法にそむかないかぎり信仰を認められたが、同時に信者も皇帝や国家の繁栄を、キリスト教の神に祈願するようにと勧告された。
14 落日のローマ帝国
4 帝国のたて直し
解体の危険にさらされたローマ帝国の本格的な再建に着手したのは、三世紀末のディオクレティアヌス帝であった。
彼は一兵卒から身を起こし、先帝暗殺後の混乱をしずめて帝国を統一した。
そして広大な領土を確実に治めるために、同郷のイリリア人マクシミアヌスを第二の正帝(アウグストゥス)とし、さらに二人の副帝(カエサル)をえらんで、帝国を四つに分けて治めた。
正帝はそれぞれ娘を副帝の妻にさせ、結びつきを固めた。
こうして彼はガリアやブリタニアの反乱を鎮定し、ゲルマン人を撃退し、ガルシアにも勝利を得て、帝国の統一と威信を回復した。
しかしそれはローマがアウグストゥスや五賢帝の時代の状態に復帰したことではなかった。
再建された帝国の君主はもはやローマ第一の市民としての元首ではなく、専制君主であり、市民は臣民となり、皇帝の前ではペルシアふうにひざまずいて拝礼しなければならなかった。
ディオクレティアヌスはまた軍団の兵員を増強し、属州には屯田(とんでん)辺境軍を配置し、別に騎兵を主力とした機動力のある野戦軍を編成した。
行政組織も改め、全国を十二管区にわけ、それぞれに近衛長官に属する管区長官をおき、属州は細分されて総数百にもなり、イタリアもそのなかに編入された。
ただローマ市だけは、これまでのように特別な地位が与えられた。
属州には総督と軍司令官が併任され、ローマ古来の伝統を破って、文武の官職が分離された。
このような官僚と軍隊を維持するために、税制も根本的に改められ、これまでの地祖と人頭税とを統合した体系にし、このため全国的に課税基準の評価が行なわれた。
これによって中央政府の管区、属州、都市に対する課税の割り当てが容易になった。
しかしけっきょくは末端の都市にしわよせがきて、徴税の未収額は、都市参事会が尻ぬぐいしなければならず、この点からも帝国の中流市民たる参事会員層の没落に拍車をかけた。
帝はまた、三世紀のあいだに進行した悪性インフレを断ちきるために、幣制改革をおこなった。
三〇一年には、最高公定価格令をだし、すべての生活必需物資はもとより、さまざまな職種の労働者の賃金や書記、弁護士、教師の報酬まで細かに定めた。
違反者は死刑や追放に処することとしたが、そのため物資の供給は円滑でなくなり、闇取り引きはなくならず、物価の上昇を抑制することはできず、まもなくこの法令は有名無実となってしまった。
ディオクレティアヌスはまた帝国の新体制の一環として、ローマ古来の宗教の復興をはかり、外来宗教を取り締まった。
しかしキリスト教に対しては即位以来寛大で、信者の数は増大し、妃や皇女までも入信した。
キリスト教の迫害は三世紀中ごろ、デキウス帝とそれにつづく元首のもとで約十年間、組織的におこなわれたが、二六〇年に即位したガリェヌス帝のとき以来、中止されたので、キリスト教は黙認された形で発展してきたのであった。
ところがディオクレティアヌス帝の晩年に突然激しい迫害がはじめられた。
それは副帝ガレリウスの策動によるものと伝えられているが、ユピテルを守護神としたディオクレティアヌス自身も迫害にふみきったことは疑いない。
しかもそれはこれまでにない激しいものとなった。
すなわち三〇三年の勅令によってキリスト教集会の禁止、教会堂などの破壊、聖書、祭器の引き渡し、キリスト者の官吏・軍人の免職などが告示された。
やがてニコメディアの宮殿の火事がおこると、あのネロのときのように、キリスト者に放火の責任が帰せられ、信者は逮捕、拷問(ごうもん)されたり、異教の神殿に犠牲を捧げることを強要された。
迫害の激しさに棄教(ききょう)した者もあったが、多くの信者は信仰を守りぬいた。
その一例を次に記してみよう。
あるとき、キリスト者を嘲った劇がディオクレティアヌスの面前でおこなわれた。
俳優のひとりが、洗礼をうけるための白衣の扮装をしていた。彼は「重苦しくてたまらない」と叫んで、病気にでもなったように舞台に横臥し、「軽くしてくれ」という。
すると、仲間のひとりが「どうして軽くしようか。大工のようにおまえを削ってやろうか」と尋ねる。
「バカめ、おれはキリスト者になって、神様のもとに舞い上がりてえんだ」と白衣の男は答える。
そこに偽(にせ)教師がやってきて、いろいろとキリスト教の用語を使いはじめる。
ところがこの俳優は少年のころ、ガリアのキリスト者の家庭に育てられた。
この劇で冗談にキリスト教の用語がせりふに使われ、観衆がどっと笑い興じているとき、彼はふと父母のことと、両親から教えられたことを思い出した。
彼は思わず「キリストさまのお恵みをお与えください。もういちど生まれ変わらせていただきとうございます」と叫びだした。
観衆はますます笑いこけたが、俳優は皇帝に向かっていった。
「英明(えいめい)にまします陛下、またお笑いなされたお客様のかたがた、私の申すことをお信じください。キリストこそ主にましますのです」
ディオクレティアヌスははじめてこの俳優が本気でいっているのが解った。
そこで帝は激怒し処刑を命じた。やがて彼のからだは猛獣の爪で引き裂かれ、松明(たいまつ)で焼かれた。
しかも彼は死のまぎわまで「私が知っている王のなかで、真に拝すべき王は、キリストさまのほかにはありません。キリストさまのためならば、何度でも生命(いのち)を捧げます」といいつづけて死んだ。
このように大部分の信者は信仰を守りぬいた。
もはや国家権力によっても根絶しがたい実力を、キリスト教は蓄積していたのであり、迫害も三〇五年には下火となった。
この年、ディオクレティアヌス、マクシミアヌス両帝が退位し、ガレリウスとコンスタンティウス一世が正帝に昇格し、新たに副帝が二名任名されたが、これに不満な将軍たちも現われ、四分統治制は早くも崩れはじめた。
このような情勢のもとで、コンタンティウス一世の子コンスタンティヌスも、父が死んだ三〇六年以来、帝位争いに加わった。
キリスト教迫害は三一一年に、ガレリウス帝が臨終の床で迫害中止の勅令をだして終わった。
この勅令によってキリスト者は国法にそむかないかぎり信仰を認められたが、同時に信者も皇帝や国家の繁栄を、キリスト教の神に祈願するようにと勧告された。