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14-4 帝国のたて直し

2018-05-02 06:15:04 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

14 落日のローマ帝国

4 帝国のたて直し

 解体の危険にさらされたローマ帝国の本格的な再建に着手したのは、三世紀末のディオクレティアヌス帝であった。
 彼は一兵卒から身を起こし、先帝暗殺後の混乱をしずめて帝国を統一した。
 そして広大な領土を確実に治めるために、同郷のイリリア人マクシミアヌスを第二の正帝(アウグストゥス)とし、さらに二人の副帝(カエサル)をえらんで、帝国を四つに分けて治めた。
正帝はそれぞれ娘を副帝の妻にさせ、結びつきを固めた。
 こうして彼はガリアやブリタニアの反乱を鎮定し、ゲルマン人を撃退し、ガルシアにも勝利を得て、帝国の統一と威信を回復した。
 しかしそれはローマがアウグストゥスや五賢帝の時代の状態に復帰したことではなかった。
 再建された帝国の君主はもはやローマ第一の市民としての元首ではなく、専制君主であり、市民は臣民となり、皇帝の前ではペルシアふうにひざまずいて拝礼しなければならなかった。
 ディオクレティアヌスはまた軍団の兵員を増強し、属州には屯田(とんでん)辺境軍を配置し、別に騎兵を主力とした機動力のある野戦軍を編成した。
 行政組織も改め、全国を十二管区にわけ、それぞれに近衛長官に属する管区長官をおき、属州は細分されて総数百にもなり、イタリアもそのなかに編入された。
 ただローマ市だけは、これまでのように特別な地位が与えられた。
 属州には総督と軍司令官が併任され、ローマ古来の伝統を破って、文武の官職が分離された。
 このような官僚と軍隊を維持するために、税制も根本的に改められ、これまでの地祖と人頭税とを統合した体系にし、このため全国的に課税基準の評価が行なわれた。
 これによって中央政府の管区、属州、都市に対する課税の割り当てが容易になった。
 しかしけっきょくは末端の都市にしわよせがきて、徴税の未収額は、都市参事会が尻ぬぐいしなければならず、この点からも帝国の中流市民たる参事会員層の没落に拍車をかけた。
 帝はまた、三世紀のあいだに進行した悪性インフレを断ちきるために、幣制改革をおこなった。
 三〇一年には、最高公定価格令をだし、すべての生活必需物資はもとより、さまざまな職種の労働者の賃金や書記、弁護士、教師の報酬まで細かに定めた。
 違反者は死刑や追放に処することとしたが、そのため物資の供給は円滑でなくなり、闇取り引きはなくならず、物価の上昇を抑制することはできず、まもなくこの法令は有名無実となってしまった。
 ディオクレティアヌスはまた帝国の新体制の一環として、ローマ古来の宗教の復興をはかり、外来宗教を取り締まった。
 しかしキリスト教に対しては即位以来寛大で、信者の数は増大し、妃や皇女までも入信した。
 キリスト教の迫害は三世紀中ごろ、デキウス帝とそれにつづく元首のもとで約十年間、組織的におこなわれたが、二六〇年に即位したガリェヌス帝のとき以来、中止されたので、キリスト教は黙認された形で発展してきたのであった。
 ところがディオクレティアヌス帝の晩年に突然激しい迫害がはじめられた。
 それは副帝ガレリウスの策動によるものと伝えられているが、ユピテルを守護神としたディオクレティアヌス自身も迫害にふみきったことは疑いない。
 しかもそれはこれまでにない激しいものとなった。
 すなわち三〇三年の勅令によってキリスト教集会の禁止、教会堂などの破壊、聖書、祭器の引き渡し、キリスト者の官吏・軍人の免職などが告示された。
 やがてニコメディアの宮殿の火事がおこると、あのネロのときのように、キリスト者に放火の責任が帰せられ、信者は逮捕、拷問(ごうもん)されたり、異教の神殿に犠牲を捧げることを強要された。
 迫害の激しさに棄教(ききょう)した者もあったが、多くの信者は信仰を守りぬいた。
 その一例を次に記してみよう。
 あるとき、キリスト者を嘲った劇がディオクレティアヌスの面前でおこなわれた。
 俳優のひとりが、洗礼をうけるための白衣の扮装をしていた。彼は「重苦しくてたまらない」と叫んで、病気にでもなったように舞台に横臥し、「軽くしてくれ」という。
 すると、仲間のひとりが「どうして軽くしようか。大工のようにおまえを削ってやろうか」と尋ねる。
 「バカめ、おれはキリスト者になって、神様のもとに舞い上がりてえんだ」と白衣の男は答える。
 そこに偽(にせ)教師がやってきて、いろいろとキリスト教の用語を使いはじめる。
 ところがこの俳優は少年のころ、ガリアのキリスト者の家庭に育てられた。
 この劇で冗談にキリスト教の用語がせりふに使われ、観衆がどっと笑い興じているとき、彼はふと父母のことと、両親から教えられたことを思い出した。
 彼は思わず「キリストさまのお恵みをお与えください。もういちど生まれ変わらせていただきとうございます」と叫びだした。
 観衆はますます笑いこけたが、俳優は皇帝に向かっていった。
 「英明(えいめい)にまします陛下、またお笑いなされたお客様のかたがた、私の申すことをお信じください。キリストこそ主にましますのです」
 ディオクレティアヌスははじめてこの俳優が本気でいっているのが解った。
 そこで帝は激怒し処刑を命じた。やがて彼のからだは猛獣の爪で引き裂かれ、松明(たいまつ)で焼かれた。
 しかも彼は死のまぎわまで「私が知っている王のなかで、真に拝すべき王は、キリストさまのほかにはありません。キリストさまのためならば、何度でも生命(いのち)を捧げます」といいつづけて死んだ。
 このように大部分の信者は信仰を守りぬいた。
 もはや国家権力によっても根絶しがたい実力を、キリスト教は蓄積していたのであり、迫害も三〇五年には下火となった。
 この年、ディオクレティアヌス、マクシミアヌス両帝が退位し、ガレリウスとコンスタンティウス一世が正帝に昇格し、新たに副帝が二名任名されたが、これに不満な将軍たちも現われ、四分統治制は早くも崩れはじめた。
 このような情勢のもとで、コンタンティウス一世の子コンスタンティヌスも、父が死んだ三〇六年以来、帝位争いに加わった。
 キリスト教迫害は三一一年に、ガレリウス帝が臨終の床で迫害中止の勅令をだして終わった。
 この勅令によってキリスト者は国法にそむかないかぎり信仰を認められたが、同時に信者も皇帝や国家の繁栄を、キリスト教の神に祈願するようにと勧告された。


信者のすべきこと 聖書

2018-05-02 01:23:14 | 格言・みことば
私は、神のみ前で、また生きている人々と死んだ人々を裁かれるキリスト・イエズスのみ前で、その現れとみ国の為に、あなたに切に願う。みことばを宣教せよ。よい折があろうとなかろうと、繰り返し論じ、反駁し、とがめ、全ての知識と寛容をもって勧めよ。

ティモテオへの第二の手紙 4章1-2節

第7課 光栄生活・御受難と御死去(2)

2018-05-02 01:21:04 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第7課 光栄生活・御受難と御死去(2)

76
○それから御主は何をなさいましたか
△それから4日後の聖木曜日の夕方、御主はモーゼの律法にしたがい、使徒らと過越の子羊を食し、晩餐の終わりに聖体の秘跡を御定めになりました。

 すなわち、食卓の上にありました酵なしパン(たねなしパン)を取ってこれを祝し、
「汝ら取って食せよ、これ、我が体なり」
とおっしゃって、そのパンをさき、彼らにお与えになりました。
次に、杯(さかづき)をとって、これにブドウ酒を満たし、少しの水を加えて同じように聖別し、
「これは罪を許されるとて、多くの人のために流されるべき新約の我が血なり。汝ら皆これより飲め」
とおっしゃい、その杯を廻して一同に飲ませなさいました。

77
○御主が弟子たちにお与えになったのは、ただのパンとブドウ酒でしたか。
△御主が弟子たちにお与えになりましたのは、上述の御言葉によって、もう、パンとブドウ酒ではない、形こそ、色こそパンとブドウ酒であったが、実は御主の御体と御血とに変化していたのであります。

 続いて御主は、
「汝ら我が記念として、これを為せ」
と、弟子たちにおおせられました。
 このときより、カトリック教会の司教、及び司祭等は、主の仰せに従い、ミサ聖祭においてパンとブドウ酒とを聖別し、これをイエズス・キリスト様の御体と御血とに変化させて、信者に分配しているのであります。



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聖アタナシオ司教教会博士  St. Athanasius E . D.

2018-05-02 01:19:18 | 聖人伝
聖アタナシオ司教教会博士  St. Athanasius E . D.        記念日 5月2日



 堅信の秘跡を受けてキリストの兵士となった信者は、己の信仰の為、力を尽くして闘わねばならぬ。ただしこの世の兵士の如く武器を用いるのではない、各自の能力に応じて、或いは学問により、或いは祈りにより、或いは迫害の時にも信仰を宣言する事により闘うのである。聖アタナシオの如きはかかるキリストの兵士として、最も勇ましく、最も世にあらわれた一人であった。この聖人は293年、エジプトのアレクサンドリアに生まれた。両親はギリシャ人ながら聖教を奉じていたので、彼もキリスト教に従って育てられ、また学校教育も十分に授けられた。その上彼は青年の頃折々荒れ野に隠遁者達を訪ね、その立派な模範を見、有益な勧めを聞きなどした為、一層熱烈な信仰の念を養われたのであった。

 やがて彼はアレクサンドリア司教の秘書役に選ばれ、当時起こったアリオ派の異端に対し、共に憂いを分かつ身となった。その邪説をはじめたアリオは、これも同じアレクサンドリアにいて、救い主イエズスに関し、聖会の信仰と異なった事を教え、殊に、天主御父は永遠の御者であるが、天主の第二位なるイエズスは御父に創造された限りある者であるなどと説いたのである。それ故救世その他の点について彼が正統の教えと意見を異にするに至ったのも、また当然の成り行きであった。

 このアリオの異端はたちまち燎原の火の如く世間に広まった。これを見てはアレクサンドリアの司教たる者到底黙視する事が出来ない。彼は教敵と一戦を交える決意をなし、秘書アタナシオに協力を求めた。アタナシオは司教の意を体し、奮然起って活躍を始めた。そして間もなく異端との論争の総帥各になったのである。
 結局アリオの教えは326年、かの有名な二ケア公会議に於いて邪説であると決定、排撃されたが、それには何よりもこのアタナシオの奮闘があずかって力あった。されば彼が教敵から目の敵にされたのも不思議ではない、遂に彼等の二人は重臣に取り入ってコンスタンチノ大帝の心に、アタナシオに対する疑惑を抱かしむる事に成功した。
 328年、アレクサンドリアの司教が死去すると、アタナシオは衆人の一致推薦を受けてその後任となったが、教敵はその後も策動を休めず、破廉恥極まる虚偽讒謗や、あらゆる奸計を弄して彼を陥れるに努め、その結果大帝は非道にも何の取り調べも行わずして、彼を免職追放されたのである。
 国外に追われたアタナシオは、ドイツのトリールに行き、その地の司教マクシミノの許に身を寄せた。マクシミノは彼に同情して快く彼を庇護してくれた。その時二人の間に結ばれた友情は、終生変わることはなかった。
 彼の流惨の生活は9年にして終わりを告げた。というのは337年にコンスタンチノ大帝が崩ぜられ、その皇子コンスタンチオが即位されるや、彼をアレクサンドリアに召し還されたからである。しかし教敵はなおも執拗に彼を葬り去るべく暗躍を続け、二年の後アタナシオは又しても追放の刑に処せられたのである。
 その時異端側の会議ではいち早くアタナシオの免職を発表したが、教皇ユリオは彼を支持し、サルディスに於ける公会議側の集会で彼の免職など無根の旨を宣言した。しかし教敵は皇帝の権力に縋って無理無体に彼の免職と再び9年間の追放とを実現したのであった。
 再度彼が追放の刑を解かれてアレクサンドリアに帰る事を許されたのは、347年の事であった。彼はそれから約十年同市に活躍をほしいままにすることが出来た。が、その間にこれまで東方にのみ流布していた異端が、西方諸国にも歓迎され始めたので、アタナシオは必死になって之が防止に奮闘せねばならなかった。多くの司教、荒れ野の隠者、修道者、信者達は彼を支持した。
 アタナシオの書簡は至る所で読まれた。それは信者達には信仰をかためる助けになった。けれども教敵にはこの上もない腹立たしいものに相違なかった。というのは異端の次第に衰えるべき所以がそこに記してあったからである。教敵は遂にシリアノという大将に頼んで彼の殺害を企てるに至った。シリアノは手勢の兵を率いてアレクサンドリアの司教座聖堂に押し入った。しかしアタナシオは幸いにも九死に一生を得て荒れ野に逃れる事が出来たのである。
 荒れ野の隠者や修道者達は喜んで彼をかくまってくれた。彼はそこで多くの書物を著した。教敵は四方八方に探索の手を伸ばしたが、とうとう彼を発見する事が出来なかった。
 361年コンスタンチオ皇帝が崩じてユリアノ皇帝が後を襲うと、アタナシオを始め今まで流謫の憂き目を見ていた司教達一同に対し赦免の御沙汰あり、彼は又もアレクサンドリアに帰るや、会議を招集してもう一度アリオの教えの邪説なることを断定宣言した。その異端が勢力を失ったのは実にこの時かれである。
 ユリアノ皇帝はアリオ派に心を傾けて聖会を迫害した。されば先に自らアタナシオを召し還したにも拘わらず、彼の活動、殊に彼が聖会の為皇帝を諫めた事を一方ならず憤り、間もなく四度目の追放を仰せつけられた。アタナシオはまた荒れ野の隠修士の許に身を寄せた。何故なら敵は再び彼の生命を奪うべく捜索を始めていたからである。
 その頃のことであった。ある夕方彼が船に乗ってナイル川を下って行くと、彼を捜索中の兵士達の船が登ってきた。アタナシオの船の人々はひどく心配したが、当人は平気なもので、わざとすれすれの所を通らせた。そして兵士達が「お前達はアタナシオを見かけなかったか?」と尋ねると、彼は自分で澄まして答えた。
「ええ、見ました」
「遠くでか?」
「いいえ、近くでですよ、お急ぎなさい。」
そして彼等の船はそのまますれ違ったのである。
 その内にパンモンという修院長が吉報をもたらした。それは聖会の迫害者ユリアノ皇帝が、ペルシャで敵の矢に当たって363年6月26日に崩御あったというのである。之は事実であった。そして新たに帝位に昇ったのは公教を奉ずるヨヴィアノであった。彼はアタナシオを深く敬い、早速追放を解いたばかりか、絶えず彼を害せんとする教敵の魔手から保護してくれた。が、残念なことにこの皇帝は翌364年2月に崩じ、その後継者は公教信者であったものの、之は西方諸国を治め、東方を支配したのはその兄弟でアリオ教徒であるヴァレンスであったから翌年早くもアタナシオを始め、ヨヴィアノに召し還えされた多くの司教達は、またまた配所の月を眺めねばならぬ身となった。アタナシオにとっては実に之で五度目の追放である。
 しかし彼は今度は遠くへ行かず、アレクサンドリアの近くに侘び住まいをしている内に、四ヶ月経つと刑を赦され、天下晴れて同市に帰ることが出来た。終始変わらず彼を仰いでいた市の全信徒は、さながら凱旋将軍を迎える如く歓呼して出迎えた。そして教敵にこの聖司教を害されぬよう、警戒を怠らなかった。
 それからはアタナシオの上にも平和な月日が続いた。彼は艱難刻苦、聖会の為に奮闘し、遂に勝利を獲得した。かれは教会をよく治め、聖書、克己修道に関する書物を著した。彼の勢力は偉大なもので、時の教皇ダマソさえ彼の忠告を容れたという。功成り名遂げたアタナシオは373年5月2日の深夜帰天した。信者達は直ちに彼を聖人として崇め、聖会は彼に教会博士を贈った。

教訓

 天主の忠実な僕は、しばしば迫害されて大いに苦しまねばならぬことがある。五度も追放を受け、再三生命の危険に臨んだ聖アタナシオの如きはそのよい実例と言えよう。我等も苦難に逢う場合には、いたずらに懼れることなく、天主に硬い信頼を献げよう。天主を愛し奉る者には、何事も最善の結果の恵まれぬことはないのである。



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