カトリック情報 Catholics in Japan

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アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、6

2016-10-31 02:50:19 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、6

 信者たちが、こっそりと集まって、ミサにあずかり、告白をし、ご聖体のなかに、いつくしみあふれるイエズスをいただいているそのときでした、このはなれ島の小さなバラック建ての聖堂のなかに、いきなり土足でふみこんできたものがいます。やりや、かたなや、あらなわを持った役人たちです。

 息つくひまもありません。たちまち、6名がしばりあげられてしまいました。

 そのなかの3人は、長崎に連行されると、奉行所の白州のうえに、ひきすえられ、ただちに尋問がはじまります。

役人「なぜ日本にきたのか?」」

宣教師「わたしたちが日本にきたのは、ただ、人類の救いキリストを日本人に知らせるためだけです」

役人「おまえたちは、禁令が出ているのを知らないのか?来てはならぬ。来るものは、ようしゃなく死刑にすると、かたく申しわたしておいたはずだぞ」

宣教師「おことばをかえすようですが、わたしたちは人間の命令よりも、神の命令に従います。神のおん子キリストが、地のはてまで行って、救いの道である福音をすべての人にのべよと、お命じになったのです」

******

 キリストは、天におのぼりになるとき、はっきりと宣言されました、「わたしには、天と地とのいっさいの権力があたえられている。だから、あなたたちは、すべての国にでしをつくりにいき、父と子と聖霊のみ名によって洗礼をさずけ、わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えよ。わたしは、世のおわりまであなたたちとともにいる」(マタイによる福音書26・18-20)と。したがって、キリストのこの命令の実現をさまたげるなら、いかなる権力者いえども、神の権利にそむく大犯罪を犯すことになる。

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、7

2016-10-31 02:47:46 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、7

 「へっへっへ!」とつぜん笑いだしたものがありました。

 「そんなばかなことがあるものか、もうちょっとりこうになりたいなら、そんなインチキのフィデス(=信仰)はすてたほうがよいぞ、でないと、いまにひどい目にあうからな」

 おや、ラテン語で話しかけたぞ?ミゲル神父さまは、きっと顔をあげて声の主をみました。ごうもんに負けて信仰をすてたトマス・アラキという神父です。ミゲル神父さまは、かれをま正面から射るようにみつめて、いいかえしました。

 「そのラテン語は正しい。だが、あなたが今いったのは、あくまのことばだ」

 うらぎりものは、はずかしげに顔をあからめて、目を伏せました。

◆ 水ぜめのごうもん

 3人は、あらあらしくひきたおされ、十重二十重となわをかけられました。役人は、かれらの口をこじあけ、大きなじょうごをさしこむと、ようしゃなく水を注ぎこんだのです。

「ぷうー こほん こほん……」

 せくやら むせるやら、もう息ができません。まっさおになって、気を失いかけているのをみると、こんなに、らく死なせてなるものかとばかりに、水をやめ、水でふくれたお腹のうえに板をのせました。

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、8

2016-10-31 02:46:42 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、8

 このうえに重い石をのせ、はては、役人たちまでその上に立って、どんどん足ぶみするのです。行き場のない水がからだじゅうから吹き出すこんな恐ろしい光景は、役人にはおもしろいあそびですが、3人の苦しみは、想像することもできないほどです。

*

 もういいかげん まいっただろうと役人のひとりが、ぎせい者の耳に口をつけていいました、「すてるといいな、早くすてないと、もっともっとひどくなるぞ」

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 まっさおな顔が急にいきいきしてきました。ぱっとみひらいたその目はあかるくすんで、かがやくばかりです。とつぜんトマス神父さまとミゲル神父さまが、くちびるをふるわせて歌いはじめました、

「神をたたえよ、すべての民よ、神の賛美を声高らかに。ああ、ロザリオの聖母よ、われらを助けたまえ」

*

「なんとがんこなやつらだ」とあきれた奉行は、「えんりょするな、もっともっと苦しめろ」と命じました。

 おや、3人のなかのひとりが手をあげています。塩塚神父さまです、手をあげるのは〃もうがまんできません”という合図になっていました。それをみた奉行は喜びました。

 でも、まだごうもんをやめません。今度は、秘密をさぐるためのごうもんです。

*

 夕方、半死半生の3人がまた牢にもどされました。でももうまえのように明るい気もちになれません。なぜなら、ひとりかころんだ(つまり、信仰をすてた)のですから。”ああ、わたしたちが、この人を通れてきたばかりに、とんでもないひどいことになった”と考えると、あとのふたりは、胸がはりさけそうです。でも、まだ時間が残されています。

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、9

2016-10-31 02:46:10 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、9

 ふたりは、あえぐ息をはずませて、改心と勇気をよびかけました。

 「ねえ、ヴィセンテ神父さま、どうぞキリストさまのみことばを思いだしてください、”人びとの前にわたしをいなむ人を、わたしもいなむ”とおおせられたではありませんか。あなたは、キリストにいなまれたら、どんなことになるかよくご存知のはずです、魂のほろびですよ。

 せっかく、ここまで耐えてきたというのに、なぜ失望されるのです?あと、ほんの少しがんばれば、すばらしい天の宝が待っているのですよ、どうぞ、十字架上のイエズスを考えてください」

 「ああ、イエズスよ、罪びとのわたしをおゆるしください。あわれなこのしもべにお力をお与えください」塩塚神父さまは、ミゲル神父さまのそばにすりよって、ひざまずき、胸をうちました。心からのくいあらためが行なわれる、苦しみのなかにも感激的な、心あたたまるいっしゅんです!

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、10

2016-10-31 02:45:30 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、10

 その後いく日かして、捕えられたあの3人も、長崎におくられてきました。アントニオ神父さまと、京都出身のラザロ、それに、フィリッピン人のルイスです。



 3人とも、”絶対に信仰をすてない”といったために、あのいまわしい水ぜめのごうもんがはじまりました。なんとあくま的なやりかたでしょう。かれら役人は、殺して殉教者をつくるより、ころばして(=信仰をすてさせて)自分たち悪人の仲間をつくりたかったのです。



 さいしょに水のごうもんをうけたのは、アントニオ神父さまとラザロでした。

 アントニオ神父さまのからだは、水ぶくれで、もうはちきれんばかりになりました。

 こうして、やっと口からあのじょうごがはずされると神父さまは、自由になったくちびるを動かして、もう賛美歌をうたいだします。



 しかし、ラザロのほうは、手をあげています。

「そうれみろ、がまんできないだろ、もうここへんで信仰をすてたほうが利口だぞ」と奉行が勝ちほこったようにいいました。でも、奉行はことばを終えることができませんでした。

「とりけし!とりけし!信仰は、ぜったいにすてません!」ラザロの大きな声がひびきました。

「こやつ、役人をなぶるのか!」かんかんに怒った奉行は、もっと、もっとひどくかれを苦しめるようにと命じたのです。



 つぎは、フィリッピン人のルイスの番です。

「わたしは宣教帥ではありません。ただ身の危険を感じるところがあって、追っ手をのがれるために日本にわたりました」とかれはいいました。役人は、ほっとしました。

「では、キリシタンでもないな」

「いいえ、キリスト信者です。わたしの国フィリッピンには、妻と、3人の子どもが待っています」とルイス。

「じゃ、会いたいだろ、妻子もひきとってやって、いっしょにくらせるようにしてやってもよいのだぞ、ただそのためには、信仰をすてねばならん」