写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

Today Is ・・・

2013年12月15日 | 書・ことば

・・・the First Day of the rest of your life

 

Today is the first day of the rest of your life.

という、1960年代に アメリカで流行した格言が ある。

 今日という日は 残りの人生の 最初の日だよ。という意味。

rest には、「休憩」や「安静」というような意味とともに、OE(古期英語Outlook Express ではない・・・) では、「残り」とか、「その他」という意味がある。(古期の英語というくらいだから、こちらが本家か?)

残りの人生では、確かに今日という日は最初の日になるが、「だから何だってんだ? 残り少ない1日1日を大事に生きろ、っていう お説教なのか?」・・・と、これは年寄りのひがみだなぁ。

 

本来の意味は、

悔やんでみても仕方ない過去のことには こだわっていないで これからのことを前向きに考えていこうよ、ということ・・・らしい。

何か辛いことやイヤなことがあって、悩むことがあったとしても「今日が最初の日」なのだから、「新しくスタートできるんだ。」と考えたほうがいいよ、という意味、だそうな。

で、今の瞬間というのは、いつも  " Today " だということ。

 

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太陽光発電 のところで、「3匹100円の金魚のために、ン万円の水槽とか・・・」という感覚を、何か似た感じのことがどっかに書いてあったよなあ、と、何かの本で妙に納得していたような記憶があったなぁ・・と思ってたら、阿刀田 高 の「知的創造の作法」 P74~の「セレンディピティ」と関連させていたのだったと判明した。

 

(知的創造の作法(2013.11.20)

 

本来の「セレンディピティ」の意味とは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける「能力・才能」を指す言葉であり、一般的には、失敗してもそこから別の成功に結びつけたという、一種の「サクセスストーリー」として語られるエピソードが多い、とのこと。 田中耕一さんの大失敗 とか・・・)

なので、我が半生の事についてはサクセスストーリーでも才能でもないのだが、本来の目的とは全く別の成果を見つけてた、という部分だけは今までの人生全てが当てはまっているような気がしてならない。

だから、という訳ではないが、「セレンディピティ」という難しい用語があてはまるのではなく、どちらかと言えば、「怪我の功名」とか、「瓢箪から駒」、と言ったほうがふさわしいのかもしれない・・・・。

 

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阿刀田 高 は、作家では一番のお気に入りのひとりであり、40年前から、つまり氏が作家としてのデビュー直後の頃からよく読んできている。

本来は、短編小説家なのだろうが、購入してきた本のほとんどは小説ではなく、エッセイや、「○○を知っていますか?」シリーズ。

軽妙な要約で、古典とか、聖書とかをわかりやすく解説するのが得意なようで、その感覚が とても気に入っている。

最近の「知的創造の作法」の中では、いろんな「ダイジェスト」について解説や紹介をしているが、たとえば、

  旧約聖書はイスラエルの建国史、

  新約聖書はイエス・キリストの伝記、

  コーランは偉い親父の説教・・。

とまで 縮めたことも紹介している。お見事。(なぜ「偉い親父」なのかは、読んでみてください・・・)

 

40年間の蔵書はたぶん、数十冊にもなると思うが、初期のものをすこし紹介すると・・・。

 

(ユーモア×ウィット=?)1979.8.10刊 v.32

(帯を不自然な位置にかけたのは、その下にいかがわしい絵があるから・・・)

 

(ユーモア毒学センス)1984.12.15刊 v.12

 

(食後の毒薬)1987.5.5刊 v.1

 

 (・・・・どれも これも いかがわしいものばかり...)

 

以前、

荘厳な場 で、『千の風になって』は朗々と歌う曲ではなく、勘違いも甚だしくて違和感を感じざるを得ない、と書いたが、阿刀田 高の悼む力 ~ 逝ったあの人へ、生きる自分へでは、

  人間は必ず死ぬ。

  人間は死に向かって生きているのであり、

  人間にとって死ほど重大なテーマはない。

  しかし、思い出を残した人は まだ 死んでいない。

  死んだ人は、

  だれかがその人を思い出している限り 生きている。

  親しかった人の死に遭遇しても、いつまでも その人を

  思い出すことで、その人は生きていたときと同じように

  イメージできる。

という くだりがある。

 

(悼む力)

 

 

そうなのだ!・・・・これこそが、本来の「千の風」の主旨ではないのか?

 

荘厳な場 を書いたとき、最後の部分で、「千の風になって」の原詩を紹介していたが、その原詩の元とされる詩、つまり原詩の原詩というものがあり、その2つを比べると、趣もかなり違う。たぶん、意味も相当に異なっているのではないだろうか?

たとえば、「千の風になって」、の部分は、原詩では、

  I am a thousand winds that blow.

だが、原詩の原詩では、

  I am in a thousand winds that blow,

と、「in」が入っている。

「千の風になって」ではなく、「千の風の中にいるよ。」なのだ。

最後の部分も、原詩は、

  I am not there, I did not die.

だが、「原詩の原詩」では、

  I am not there. I do not die.

である。

死んでなんかいません。」ではない。「死ぬことはありません。」なのである。

 

原詩の原詩では、その直前に、

  I am in the flowers that bloom,

  I am in a quiet room.

  I am in the birds that sing,

  I am in each lovely thing.

という、「○○の中にいます。」が述べられ、そして、

  I do not die.(私は死にません。)なのである。

 

「私はあなたの中にいて、死なない・・・」

ン? これはイエス・キリストの教え、そのものではないか?

あるいは、「あなたの中の仏」という仏教の真髄ではないか?

 

と、いうわけで、以下、原詩の原詩の紹介。

  Do not stand at my grave and weep,

  I am not there, I do not sleep.

  I am in a thousand winds that blow,

  I am the softly falling snow.

  I am the gentle showers of rain,

  I am the fields of ripening grain.

  I am in the morning hush,

  I am in the graceful rush

  Of beautiful birds in circling flight,

  I am the starshine of the night.

  I am in the flowers that bloom,

  I am in a quiet room.

  I am in the birds that sing,

  I am in each lovely thing.

  Do not stand at my grave and cry,

  I am not there. I do not die.

 

・・・に しても、「I am 」の なんと多いこと !!

 

(後日、これについて、また述べてみたい。)