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つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

和訳

2014年04月26日 | 書・ことば

 

 

わやく・・・

 

 

Googleで「わやく」を検索すると

  「次の検索結果を表示しています:和訳 」

と例のおせっかいが働き、「和訳」しかヒットしてこない。

 

 

まぁ、今回の 「心にうつりゆくよしなしごと」は、

  「和訳が如何に『わやく』か !!」

というテーマなので、それはそれで良いのだが・・・

 

 

「わやく」とは、

kotobank によれば、

 1 いたずらをすること。悪ふざけをすること。また,そのさま。

 2 筋が通らない・こと(さま)。無理。無茶。

 3 聞き分けがない・こと(さま)。腕白。

 

また、goo辞書 によれば、

 1 無理を言ったりしたりすること。また、そのさま。

 2 子供などが悪ふざけをすること。また、そのさま。わんぱく。やんちゃ。

 3 聞きわけのないこと。わがままなこと。また、そのさま。

として、鴎外や藤村からの引用を紹介している。

 (実は、てっきり当地の方言だとばかり思ってた・・・)

 

どちらも、〔「枉惑(おうわく)」の転〕となっているのだが、

「おうわく」が「わやく」に変わった? と少し抵抗があったので、

読み方抜きで漢字だけで「枉惑」を調べると、「三省堂 大辞林」で

「わわく」と出る。

 

なるほど。これなら、「わわく」が言いにくかったとか何とかの理由で、

「わやく」に転じた、というようなストーリーも理解できそうである。

 

 

「無理、筋が通らない」という意味合いの「わやく」について

書こうとしているのだが、前段が長くなったついでにもう1つ。

「わや」について。

 

「わや」とは道理に合わないこと、乱暴なこと、ダメ・台無しなこと、

無茶苦茶なことという意味の言葉だが、関西芸人がTVなどで頻繁に

使かったことで広く普及したため、わや=関西弁という認識が高いが、

もともとは北海道や、名古屋、関西など、さまざまなエリアで方言として

使われてきた言葉である、と日本語俗語辞書にある。

 

 

ん~、「わや」か「わやく」か、わからんようになってきてもうた・・・

「わやわや」とかもあるし・・・

 

 

Weblio 辞書>類語辞典「わやく」の類語を見ると、出るわ出るわ・・・

・・・馬鹿ばかしい・阿房臭い・目茶苦茶・不合理・荒唐・可笑しい・・・・

目茶目茶・とんちんかん・理不尽・阿呆くさい・・・・・ 筋違・めちゃめちゃ

 

 

今まで、ここ とか、ここ とか、ここ とか、ここ とかで、

何度も、「漢訳」の誤りや限界ということに言及してきたが、

「和訳」にも同じことが言える、ということである。

 

もっと突っ込めば、「和訳」そのものが「漢訳」を通してからの「訳」

という二重の段階を経た場合が多く、「漢訳」の段階で意味が変わり、

それを「和訳」する段階で また意味が変わった、ということも

あったりするので、和訳のほうがタチが悪い、とも言えよう。

 

たとえば、

クライミングを登山と「漢訳」し、やまに登ると「和訳」しても誤訳では

ないが、元々のクライミングが持っていた「苦労して登る」という

「苦労して」の部分が、漢訳の段階で既に失われている。

 

同じように、「漢訳の名」のところでも指摘していたマイクロソフトの

漢訳である「微軟」の「軟」に、「ソフトウエア」という意味が無くなって

しまっていることでも、漢訳の限界などを例示していたところである。

 

 

日本語が漢字という表意文字を使って表現されている以上、

漢字に振り回されることは仕方ない部分があるが、それでも、

何を言うてるのか、何が書いてあるのか、さっぱりわからない

「仏典」よりは、直接、日本語に訳されている「聖書」のほうが

親しみやすい、というか、わかりやすいことは事実だろう。

 

しかしながら、である。

 

世界は宗教で動いてる(光文社新書)を読み始めるとすぐに

和訳の限界というか、宗教の概念の壁にぶち当たることとなる。

 

 

 ・Godによって造られた人間はGodの「所有物」であり、

  Godは人間を自由にして良い、というのがキリスト教の考え

 ・近代的「所有権」の大事な性質は「絶対的」だということ

 ・所有とは、「使用」 「収益」 「処分」 が自由だということ

 ・所有権の行使については、誰に断ることも必要ないということ

 

これが、この本の1ページから2ページにかけて書いてある部分だ。

 

 

 

「所有権」については理解できるが、それをGodに当てはめるのは

どうにも理解できないのだが、どうも順序が逆のようなのである。

 

つまり、Godの人間にたいする「所有」の概念を、人間社会に適用

したのが「所有権」である、とのことだが、この時点でアタマの中は

既に「わやく」である。

 

繰り返すが、これは

「この本の1ページから2ページにかけて書いてある部分」

である。ん~、進めない・・・・。

 

それでも少し読み進めると、26ページには、「マタイによる福音書」の

一部について、日英の訳の紹介がある。

 

日本語

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。

御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

英語

Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name.

Thy kingdom come. Thy will be done in earth, as it is in heaven.

 

 

少し注釈すると、出典は「欽定訳聖書(KJV)」・・・

「ジェイムズ王訳」(King James Version)」であり、

「thy」は、「you」の古語の所有格「your」で、「なんじの,そなたの」の意、

「art」も古語で、2人称・単数の場合の現在形つまり「are」、

「Hallow」は、「神聖なものとしてあがめる」という意味であり、

カボチャのハロウィン(Halloween)とは直接の関係はない。

 

 

この部分で著者は、

「みこころが天に・・・」という部分の、「みこころ」とかは

英語版には書いてないし、そもそもGodに心がある、など

聞いたことがない、と断言する。

 

英語版に書いてないのではなく、和訳の段階で余分なものを

付け加えたわけだ。で、誤訳になってしまっている・・・と。

蛇足、ということである。(創世記にヘビとは・・・)

 

 

こういうのがたくさんあるので、聖書を読むときは英語版も手元に置き、

日本語版を読んでいて「ん?」と思ったときは、すぐに英語版を開いて

ダブルチェックすることをお勧めする、と著者は言うのだが・・・・

 

そこまでして読みたいとは思わないよ、で論破・・・。