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つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

犀の角(さいのつの)

2014年07月19日 | 書・ことば

 

 

・・・ただ独り歩め

 

 

 

若い頃、月給の半分と言えば大袈裟だが、

毎月数万円は本代に使っていた。まぁ半分も血肉となって

いないことは自信をもって(涙) 言えるのだが・・・・。

 

 

「本屋の前を通ると、中から『買ってくれ~』という声が

聞こえるような気がするんだよ。」というのが散財の言い訳だった。

 

 

今回もまた、流しそうめんが竹の継ぎ目でストンと落ちて

次の竹の中を流れていくように、いくつかの折々に、数冊の

書籍や いくつかのサイトとの出会いという機会に恵まれたが、

振り返ってみると、それらのWebから、『読めば~?』という

声に誘われたような気がしないでもない。

 

 

たぶん、今回のきっかけとなったと思われるのは、

佐々木 閑(しずか)著科学するブツダ 犀の角たち

 

 

 

 

感想・レビューにも書かれているが、これは期待以上の内容

 

物理学、進化論、数学等、西洋で発展してきた科学が、如何に

「神」という超越者を排除してきたか、せざるを得なかったかを

解説した前半は、科学に造詣の深い著者ならでは、という考察が

満載であり、後半の「仏教の歴史」についても、おぼろげながら

感じていた、現在の仏教というものが初期のものとは全く別物で

ある、と喝破する。ただ、それでも存在価値を否定することはない。

 

(もう少しだけ詳しく紹介したサイトは ここ

 

 

 

それにしても、「犀の角」って何だ?

 

「アフリカの角」と呼ばれるのは下図だけど・・・。

 

 

「犀の角」とは、動物のサイ(インドサイ)の角のことで、転じて

「独り歩む修行者」のことをいう。

 

中村 元(後述)によれば、「犀の角が一つしかないように、求道者は

他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、

自分の確信にしたがって暮らすようにせよ、の意である」とのこと。

 

実際、インドサイは、発情期以外は単独で生きる

 

アフリカにいるクロサイシロサイ は2本の角を持つが、インドサイは

ユニコーンである。

 

 

サイの角を見ていて、何かに似ていると思ったら、どうも、インドの国を

逆さまにしたときの図とそっくりだった・・・。

 

 

 

【ブッダのことば】スッタニパータ(中村 元訳)に見るように、

第1章第3節「犀の角」では、「犀の角のようにただ独り歩め」と、

連続して40回のリフレインがある。

 

その前の、第1節「蛇」では、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るような

ものである」というリフレインが17回続く。

 

文章での印象は、「しつっこい」 「譬えに無理がある」というようなもの

かもしれないが、それでも、朗読を聞いてみると、現代の日本語で

あっても、印象が文章とは大きく異なっていることを実感できる。

寂静山禅定院 朗読  ブッダのことば

 

12分半の長さだが、割と苦もなく聞いていることができる・・・

 

 

釈迦の時代、「教え」というものは、文字による「経典」ではなく、

口伝が基本だった。

 

当然、語呂がいいように、歌曲のように伝えられただろう。

レフレインは、印象を強める方法の1つでもあったのだろう。

 

 

そう言えば、コーラン(クルアーン)」とは「詠唱されるもの」と

いう意味であり、実際、その詠唱は歌そのものである。

 

コーランは独特の旋律で詠唱されるので、覚えるためには

それを音読(というより曲と歌詞を覚える感覚)する必要があった。

 

また、コーランはアラビア語以外の翻訳は認められなかった

 

他言語の国々では、理解するための注釈としての翻訳はあっても、

それらはコーランではない、と峻別された。

 

 

このあたりは、安易に漢訳された大乗仏教との大きな違いだろう。

(訳することの危うさは次回に述べてみたい。)

 

 

中村 元(はじめ)は、仏教・インド哲学の巨匠であり、が中心だった

それまでの仏教研究をインドの古代思想にまでさかのぼり、

初めて原始仏典現代語に翻訳した。

 

 

 

 

不遜にも、以前、釈迦と世尊 の中で、

 漢字による訳を通さず(つまり中国という風土に染まることなく)

 直接、現代語に訳された仏教の原典というものなら、是非、

 読んでみたい、

などと書いていたが、振り返ってみると、

単に無知をさらけ出していただけ、のようなものであった。

 

 

恥じ入ると同時に、

もう少し、この「犀の角」について、感じるところを続けてみたい。

 

(つづく)