「天狗の中国四方山話」

~中国に関する耳寄りな話~

No.566 ★ 晩年の毛沢東、若い頃の無理と不養生がたたって身体はボロボロ、それでも若い女性を抱き続けた性へのあくなき執念

2024年08月16日 | 日記

【新連載】「あの人」の引き際――先人はそのとき何を思ったか(4)

JBpress (栗下 直也:著述業)

2024年8月15日

毛沢東(写真:Universal Images Group/アフロ)

 晩年をいかに過ごすかで人の評価は一変する。「晩節を汚したくない」と自戒しておきながらも、いつのまにか「老害」と呼ばれている人も少なくない。長寿命化の現代においては引き際がますます難しくなっている。経営者や政治家などの偉人たちはどのようにして、何を考え、身を引いたのか。人生100年時代のヒントを探る。第4回は中国の「建国の父」毛沢東を取り上げる。

文革時代、すでに身体はボロボロ

 毛沢東が「中国建国の父」とされていることに異論はないだろう。「資本家や地主を打倒して、平等を実現した」「質素倹約を徹底した偉人」といまだに個人崇拝の対象とされている。

 ただ、一方で、政治力には賛否が付きまとう。21世紀の今でも批判されるのが1958年に始まった農工業の増産運動「大躍進政策」だ。農業生産が激減、全国で大飢饉(ききん)が発生した。当時のナンバー2であった劉少奇はソ連大使に対して、大飢饉が終息する前に3000万人が餓死したと話しているが、この数字は少なく見積もった数で実際は4000万とも4500万ともいわれている。

 当然、党内の毛の権力基盤は弱まり、国家主席を継いだ劉少奇が権力を強めたが、毛沢東はそのまま消えなかった。きれいな引き際など全く頭になかったのだろう。影が薄くなった晩年に、個人崇拝の力を武器に起こした奇策があの「文化大革命」である。

 全国で文化財が破壊され、知識人も迫害された。劉や鄧小平など当時の権力の中枢が軒並み失脚した。死者数は1000万人ともいわれるが、詳細な実態は不明だ。

「毛沢東、大丈夫か」と突っ込みたくなるが、大丈夫なわけがない。毛は文化大革命が始まった65年に70歳を超えていた。まともな判断ができたかが気になるが、毛沢東の主治医で、その死去まで22年間付き添った李志綏は日本の複数のメディアの取材にかつて応じ、文革時には健康状態がボロボロだったことを語っている。

ふっくらした顔つき、実はむくみだった

「この当時、主席は大変な精力を費やし、ひどい不眠症におちいった。これがもとでカゼをひき、気管支をこじらせ、肺炎をひきおこした」(「毛主席、大事の前に病気がち 22年間主治医を務めた李博士語る」1989年08月14日 朝日新聞朝刊7面)

 毛は20代、30代で軍事指導者として不規則な生活を送らなければならなかったことから、若いころから、神経衰弱と不眠症に悩んでいた。24時間から36時間も眠れないということも時々あったが年々悪化していったという。

 文革以降の毛沢東の調子は悪化の一途をたどり、米国大統領のリチャード・ニクソンが72年2月に電撃訪中した際にはかなり健康を害していたようだ。

1960年ごろの陳毅(左)と毛沢東(写真:Heritage Image/アフロ)


「ニクソン米大統領(当時)の訪中を控えた72年の1月。結腸がんで死去した陳毅副首相兼外相の追悼式に、主席はパジャマの上にガウンを着用しただけで出席した。たちまちカゼと肺炎をおこし、心不全におちいってしまった。脚部、太もも、手、顔、腹部と体全体が異様にむくみ、あやうく命をおとすところだった」(同)

 毛沢東の状態を聞いていたニクソンは2月に訪中し、ふっくらしていた毛沢東をみて、安心したらしいが、実際はむくみがとれていないだけだった。

1972年2月、訪中したニクソン大統領と握手する毛沢東。ふっくらして健康そうに見えるが実は顔がむくんでいたのだという(写真:AP/アフロ)

男性機能の低下に怖れ

 それにしても「パジャマの上にガウンで葬式」ってすごいスタイルだが、毛の晩年はそれが普段着だった。毛は品行方正とも質素倹約とも程遠い生活をこのころは送っていた。毛のそうした素顔を明らかにしたのが、1994年に前述の主治医が書いた『毛沢東の私生活』(文春文庫)だ。

 当時の政治家は酒色を好んだが、毛沢東は「色」専門だった。同書には70歳をこえても、夜な夜な若い女性をベッドに連れ込んでいた様子が躊躇いもなく描かれている。毛沢東の私生活は清貧な生活とされ、国民は信じこんでいたのに、それとかけ離れた光景しか記されていない。

 一日の大半は屋内のプールサイドか、ベッドの中で過ごし、歯も磨かなかったし、風呂にも入らなかった。健康診断もひたすら拒否した。自身の健康で気にしているのは下半身事情のみ。インポテンツになることを極度に恐れた。

鹿の角のエキスが効くと信じて注射しまくっても、一向に「元気」にならず、癇癪を起こした。主治医の著者もほとほと困って偽薬を与えていたという。

毛沢東の4番目の妻となった江青。人気女優だったが、毛沢東との付き合いはじめたとき毛はまだ結婚しており、当初は不倫関係だった(写真:akg-images/アフロ)

 すさまじき、性への執念。英雄は色を好むのかもしれないが、単なる好色のわがままな老人としか描かれていないから悲しい。どう考えてもまともな政治判断ができるとは思えないが気のせいだろうか。

最後は満身創痍

 ニクソン訪中から7カ月後に中日国交正常化のため、日本の田中角栄首相、大平正芳外相らが訪中したころ(72年9月)には、言語系統の神経に障害が生じ、言葉が一段と不明瞭になり出していた。

 76年1月に盟友の周恩来が死去するがそのころはすでに後戻りできない状況で、慢性気管支炎、肺気腫、心臓病、じん不全、神経障害が体を大きく蝕んでいた。その後、76年5月、6月、そして8月下旬と3回、心臓発作を起こし、9月9日、ついに不帰の人となった。死因は気管支炎と肺炎から来る心不全だった。晩年は脳軟化症になり、「ボケ」たともささやかれていたが、意識は最後までしっかりしていたという。

 李志綏は臨終にも立ち会った。

「医師団の主治医として、最後の治療にあたった。『還有没有希望?』(まだ望みはあるか)というのが、主席の最後の言葉だった。私は『有弁法』(大丈夫です)と答えた。実際は、もう手のほどこしようはなかったのだが」(同)

 ちなみに、死後、毛の遺体を展示するため何年間も保存するよう命じられた。傷みがひどくなったときに交換できるロウ人形も作った。

北京の人民大会堂に安置され、党旗に包まれた毛沢東の遺体。防腐処理され、現在は天安門広場にある毛首席記念堂に安置されている(写真:中国通信/時事通信フォト)

 それにしても、健康状態を海外メディアに語るのみならず、暴露本まで発刊して大丈夫かと心配になる(中国では当然発売されていない。同書の記述は李志綏の記憶にもとづくもので、どこまで正確かは少し割り引く必要はあるかもしれない)。

 実際、中国の政府関係者からは「李志綏は主治医でもなんでもない」「あいつは小物で何もしらない」と反論があったが、本人はどこ吹く風だった。活動を自粛するどころか、「毛沢東について、もう一冊書く」と意気揚々だったが、『毛沢東の私生活』の刊行の3カ月後に自宅の浴室で死体で発見されている。

 栗下 直也(くりした・なおや)

 1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士課程前期課程修了。現在、著述業。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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