東洋経済オンライン (山田 周平 : 桜美林大学大学院特任教授 )
2024年3月5日
2月14日に亡くなった坂本幸雄氏は、エルピーダメモリの破綻後は中国企業に活動の場を求めた(写真:尾形文繁)
日本の半導体業界では珍しい「プロ経営者」だった坂本幸雄氏が2月14日に死去した。日本テキサス・インスツルメンツ(TI)副社長などを経て、エルピーダメモリ(現マイクロンメモリジャパン)を一時的とはいえメモリーの世界大手に導いた手腕は広く知られている。
2012年にエルピーダが経営破綻した後は表舞台から遠ざかったが、死去するまで中国の半導体メーカーで経営者としての復権を目指していた。
「日本企業が日本メディアの報道をうのみにして、中国との交流を避けるのはよくない」。坂本氏は2023年7月、深圳市昇維旭技術(スウェイシュア)最高戦略責任者(CSO)の肩書で、筆者が勤務する桜美林大学で講演した。同社はメモリーの一種であるDRAMへの参入を目指す中国の国有企業で、坂本氏は2022年6月に入社していた。
坂本氏は取材や講演で持論を述べるのが好きだったが、スウェイシュアへの入社以降は控えていた。中国のハイテク産業を警戒する日本の世論を意識していたようだ。しかし、前職の記者時代から20年以上の交流がある筆者が依頼すると、「学生さんが相手なら」と快諾してもらった。
結局は当日、メディア批判を含めて以前と変わらぬ毒舌ぶりを発揮し、筆者は苦笑してしまった。キャンパス前でタクシーに乗る姿を見送ったのが最後になるとは思いもしなかった。
「負け犬のままでは終われない」
坂本氏がエルピーダを離れた後、中国企業に活動の場を求めたことは本人が時折、取材に応じて明らかにしていた。ただし、それは顧問や社外取締役としての側面支援というレベルではない。
本人は常々、「負け犬のままでは終われない」と語り、あくまで現役の経営者として復権することを真剣に考え、実行していた。近年は休日には剣道に打ち込んでいたが、これも経営者として戦える健康づくりが大きな目的だった。
坂本氏は「日本TIの社長になれなかったのは大きな挫折だった」と回顧しており、順調に出世していればエルピーダの社長を引き受けなかった可能性が高い。エルピーダが健在で、DRAMの世界シェアでサムスン電子など韓国勢を再逆転する目標を達成していれば、坂本氏は引退していたかもしれない。
2013年7月、エルピーダはアメリカのマイクロン・テクノロジーに買収された。発表会見後に報道陣に囲まれる坂本氏(写真:梅谷秀司)
本人にとっては、エルピーダの破綻は経営者として負けであり、リベンジの場を中国企業に求めたのだろう。
坂本氏は2002年のエルピーダ移籍の直前まで聯華電子(UMC)の日本子会社の社長を務め、移籍後は力晶半導体(パワーチップ)と提携するなど台湾メーカーと縁が深かった。
中国政治の変化に翻弄される
中国とのパイプを築いたのは2008年以降だ。かつての「坂本番」記者で、現在は中華圏の企業動向の研究を専門とする筆者は、坂本氏と中国の関係には4つの段階があったと分析している。
1つ目はエルピーダが2008年8月に発表した江蘇省蘇州市でのDRAM工場の建設だ。市政府系の投資会社との合弁事業だったが、直後に起きたリーマン・ショックでDRAM市況が急速に悪化し、市政府側の翻意で白紙になった。
2つ目は安徽省合肥市のDRAMプロジェクトだ。坂本氏が設立したサイノキングテクノロジー社が開発・生産技術を担当し、市政府側が集めた資金で工場を建設する青写真を描いた。2016年には記者会見まで準備したが、旗振り役だった市長が習近平指導部による反腐敗運動で失脚し、立ち消えとなった。
3つ目は2019年11月、国有半導体メーカーの紫光集団の高級副総裁に就いたことだ。重慶市でのDRAM工場建設の責任者に指名され、JR川崎駅前のビルでは日本・台湾のDRAM技術者が100人規模で働けるオフィスも整備していた。紫光はその後、資金繰りが悪化し、2022年1月に法的整理に追い込まれたが、坂本氏も直前の2021年末に離職を余儀なくされていた。
李克強首相との会見にも同席
最も復権に近づいたのは紫光時代だろう。コロナ禍で日中間の往来が困難な時期だったが、紫光の趙偉国董事長(当時)に急に北京に呼ばれ、李克強首相(同)との会見に同席したことがあったという。中国は半導体経営のプロが少なく、坂本氏の手腕に期待したようだ。
しかし、その後は政治の風向きが変わったためか、紫光に公的な救済の手が伸びることはなく、趙氏は2022年7月に汚職の疑いで身柄を拘束されてしまった。
坂本氏の中国ビジネスは、共産党・政府との距離感という「チャイナリスク」への挑戦の連続だったと総括できるのではないか。リーマンやコロナという不運もあって、いずれも成功したとは言いがたい。筆者は坂本氏が紫光を離職した後、そうした見方を本人に直接ぶつけ、「山田さんは俺が中国でいつも失敗していると言いたいの」と怒られた記憶がある。
坂本氏を紫光にスカウトし、その剛腕ぶりから「中国の飢えた虎」の異名をとった趙氏についても多くを語ろうとしなかった。しかし、中国の半導体メーカー全般の技術水準など、個人や個社を特定しない問いには答えてもらえた。例えば、中国の半導体産業は現在、米制裁のため最先端のEUV(極紫外線)露光装置を輸入できず、IC(集積回路)の微細化が行き詰まると指摘されている。
答えは「現在の技術の延長線上にいる限り、中国のIC微細化にはいずれ限界が来る」だった。坂本氏は中国企業における自らの役割について、いつか起こる可能性のある技術のパラダイムシフトに対応できるよう、経営基盤を固めることだと考えていたようだ。こうした坂本氏の見立ては、筆者が中国の半導体産業を観察するうえで非常に参考になった。
坂本氏はスウェイシュアでも同じ思いで仕事をしていたらしい。筆者が2023年5月、講演依頼のメールを送ると、「今はベルギーにいるので帰国後に調整しましょう」との返事があった。
半導体でベルギーといえば、IC製造技術の世界的な研究機関imec(アイメック)が頭に浮かぶ。米中ハイテク摩擦や企業秘密に直結しそうなのであえて確認しなかったが、スウェイシュアでも使える技術を探りに行ったのではないか。
帰国した坂本氏からは「この年になると17時間のフライトは疲れますよね」とのメールが入った。坂本氏はかねて海外出張もエコノミークラスで往復し、経費を少しでも節約することを経営者としての信念としていた。ベルギー往復もエコノミーの乗り継ぎだった可能性がある。当時75歳の身体には大きな負担だっただろう。
日本にとって中国ハイテクの台頭は安全保障上のリスクでもあり、中国企業に協力する人を「裏切り者」扱いする向きがあるのも理解できる。しかし、坂本氏は個人の損得ではなく、経営者としてのプライドを賭けて中国に身を投じていた。筆者には責めることができなかった。意見交換できる日が二度と来ないのは残念で仕方がない。心からご冥福をお祈りする。
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