ちょっと資料室行ってきます

自分好みの情報をおくためだけのブログです

小沢氏 オバマ政権誕生に「黒人を選んでまで」 差別発言か 2010.1.28 00:24

2010-01-28 | 産経新聞に見る:古典個展
 民主党の小沢一郎幹事長は27日夜、那覇市内のホテルで開かれた同党の喜納(きな)昌吉参院議員(比例代表)のパーティーで、政権交代した各国の例を紹介した際、オバマ米大統領にふれ、「米国はオバマさんという黒人を選んでまで、世の中を変えよう、国を変えようと、国民は選択した」と述べた。

 黒人奴隷の歴史を持つ米国で、初の黒人大統領が誕生した意義の大きさを強調したものとみられるが、黒人に対する差別的な意味合いを含んだ「失言」とも受け取られかねず波紋を呼びそうだ。

 小沢氏は昨年11月も、和歌山県の高野山金剛峰寺を訪ねた際、キリスト教について「排他的で独善的だ」と述べ、日本キリスト教連合会の抗議を受けたこともある。小沢氏はこのとき、イスラム教についても「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べていた。

 また、小沢氏は27日の会合で、「私は保守の代表とみられていたが、最近は右翼からは『小沢一郎は左翼だ』と非難され、左翼からは『右翼だ』と非難される。両方から非難されるのは中道を行っているからだ」と語った。

産経新聞 2010.1.28 00:24 
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100128/stt1001280024001-n1.htm

※痴呆発症?

中国人ビザの年収要件撤廃を=スポーツ観光は強化-観光庁長官 2010.01.27 19:57

2010-01-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 観光庁の溝畑宏長官は27日の定例記者会見で、訪日中国人の個人向け観光ビザについて、今夏までに年収要件の撤廃を目指す考えを明らかにした。溝畑長官は「何らかの経済要件は必要だが、25万元(の年収要件)については撤廃してもらうよう関係省庁に働き掛ける」と述べた。25万元は日本円で約330万円。
 また、国内外からの観光客増加を目指し、プロ野球やサッカーJリーグなどとの連携を強化する方針も表明。球場で観光案内を、ホテルで試合予定の情報を提供するなどして、スポーツ観戦と現地旅行との相乗効果を狙う。日本ハム、ソフトバンク両球団とは3月のプロ野球開幕を見据えて具体策を相談しているという。

時事通信 2010.01.27 19:57
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010012700967

※ありえない。マジありえない。入国後行方不明者続出必至。どんだけ売国奴なんだよ。

【参政権】 「(センター試験の外国人参政権容認)問題ない」「学習指導要領に基づいている」

2010-01-22 | 産経新聞に見る:古典個展
1 :憂哀φ ★:2010/01/22(金) 12:53:47 ID:???
センター試験の外国人参政権「容認」 川端文科相「問題ない」

川端達夫文部科学相は22日午前の衆院予算委員会で、16日に実施された大学入試センター
試験の現代社会の問題の中で、最高裁が外国人参政権を憲法上問題ないと容認する立場で
あるかのように判断させる記述があったことについて、「特段問題があるとは思わない」と述べた。
自民党の小池百合子元防衛相の質問に答えた。

川端氏は理由として「試験問題は専門的見地から作成している。文科省の学習指導要領に
基づいている限り専門的判断を尊重するべきだ」と説明した。

問題は日本の参政権に関する記述として「適当でないもの」を4つの選択肢の中から選ばせる
もの。「最高裁判所は外国人のうちの永住者等に対して地方選挙の選挙権を法律で付与する
ことは憲法上禁止されていないとしている」との記述は「誤りではない」ことになっている。

最高裁は平成7年2月、「参政権は国民主権に由来し、憲法上日本国籍を有する国民に限られる」
とする従来の判例を維持。上告を棄却して原告側の敗訴が確定していた。ただ、判決の傍論で
「法律で、地方自治体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、
憲法上禁止されているものではない」と記述した。

ソース:産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100122/plc1001221224010-n1.htm

関連スレ
【国内】 センター試験に「外国人参政権容認」?の設問…在日韓国人らが起こした訴訟の最高裁判決、傍論取り上げる[01/17]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1263830566/

※川端達夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%81%94%E5%A4%AB
http://www.yomiuri.co.jp/election2005/profile_kaihyou/photo/ya25001001.jpg



2 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 12:54:21 ID:yqKnvZBd
(;´∀`)…うわぁ…

ねーよ!


4 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 12:55:31 ID:N1gmV+6t
>川端氏は理由として「試験問題は専門的見地から作成している。文科省の学習指導要領に
>基づいている限り専門的判断を尊重するべきだ」と説明した。

指導要綱で「違憲合憲の判断」まで踏み込んでるのか?
その方がおかしいのだが・・・・・・。


17 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 13:04:54 ID:COpAshyG
こいつらに任せておいたら三年ぐらいで日本消えるな。
民団の選挙権? ばか言え。
後ろに居るのは中国だろ。
多量に移民を連れてきて、そいつらに選挙権を与えて、一丁上がりだ。


23 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 13:10:01 ID:jk8bPoe3
>>17
その通り。そして今の日本で活動している連中が朝鮮人。

「日本の不幸は支那と朝鮮だ」


29 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 13:13:13 ID:g3dvXOJA
党内から批判する人がでないところが
宗教団体みたいだよね。民主党。

だまされた感じ


42 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 13:30:30 ID:LgAKMpUo
キャバクラ大臣


50 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 13:35:46 ID:m5Jd3Ffa
知り合いの在日韓国人は「俺達は外国人じゃない」とよく主張します。
でも外国人地方参政権の話になると外国人になるんですね。


66 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 13:47:14 ID:FF7YYMHk
日本国民不在の民主ですね


142 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/22(金) 14:12:45 ID:sc4VE+P6
そもそも、提訴内容に存在しないこととか判決に関係のないことは判断しない・書かないというのを基本原則にしていたのが日本の裁判所だというのに・・・・・

礼を学ばざれば立つなし 2009.12.27 02:46

2009-12-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 ある日、バスに乗った。老人のくせとして、空席があればさっとそこへ行って座る。そのとたん、右側に座った女性が「お父さん」と話しかけてきた。

 なんと、わが娘ではないか。気がつかなんだ。頭にあったのは空席のことばかりだったため、人の顔なんか見てますかいな。

 人間、そういうものだろう。いまの問題に対して、良くいえば熱中、悪くいえばそのことだけの関心ということだろう。

 このこと、政治家にもあてはまる。近ごろの政治がらみのニュースをテレビで見ていると、多くの政治家はさしあたりのことにしか関心がなく、その根本というか、基盤というか、そういうものに対して思いをいたしていないように見受ける。最近のその最たるものは、習近平・中国副主席をめぐる無礼な問題である。

 報道によれば、小沢一郎民主党幹事長らが、ごり押しして陛下の接見予定表に習某を割り込ませたのみならず、天皇は内閣のいうことを聞けといわんばかりの不敬発言をした。すなわち天皇の国事行為は日本国憲法に従い、内閣の助言と承認とに基づくのだとうそぶいた。

 ここに小沢某の決定的誤りがある。天皇についてなるほど憲法はいろいろと記している。しかしそれは、法的なことにすぎない。

 われわれ日本人は、法にあるからといって天皇を戴(いただ)いているわけではない。わが国の長い歴史的経緯の中で、一貫して皇室を国の中心的存在として認めてきた。そのことを追認して法的表現にしただけのことなのである。すなわち皇室に対して国民が敬愛し、尊崇してきた事実があればこそ、それを法が追認しているのである。法があって皇室が存在するのではない。

 だから、法(つまり内閣)が陛下に指図するのは本末転倒なのである。そのことを鳩山由紀夫内閣・与党は分かっていない。

 当然、天皇は一般国民と異なる性格を有する。その典型は、天皇の行為が〈無〉すなわち〈私が無い〉ことである。われわれ一般人は〈有〉すなわち〈私有〉の世界に生きてあさましい競争をしている。

 陛下が外国の要人と接見されるとき、相手が大国であろうと小国であろうと、区別・差別をされないのは、〈無私〉だからである。この〈無私〉-〈無〉が天皇・皇室の本質なのである。キングごときとは異なる。

 そういう根本、日本国の基盤が分かっていないのが鳩山内閣・与党である。それが無礼な態度となって表れたことがあった。

 すなわち鳩山内閣が成立し皇居で閣僚の認証式が行われたときのテレビ中継で分かった。

 室外から室内に入り、陛下の前に進むとき、意外と菅直人・副総理は正しく摺足(すりあし)でお美事(みごと)であったが、原口一博・総務相はずかずかと大またで大きく手を振って進み、モーニングの裾(すそ)が翻(ひるがえ)っていた。鳩山首相に至っては、陛下と対面し敬礼したあと、陛下がまだ玉顔(ぎょくがん)を元の位置に戻されない前に、もう右手の認証書受け取りに顔を向けていた。非礼、無礼極まりない。なにがいい育ちか。

 『論語』季氏篇に曰(いわ)く、「礼を学ばざれば、以て〔人間として世に〕立つなし」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091227/plc0912270247000-n1.htm

「ムダ削減」看板に詐りあり 2009.10.25 02:39

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 毎日、ムダを削れの話である。 今年度補正予算の見直しということで、政府と与党の民主党とが正義の味方、白馬の騎士気取りでムダを削れとわめいている。

 しかし、この白馬の騎士、はや落馬気味である。と言うのは、ムダを削れという話が、いつのまにか3兆円を削れという話に変わってきたからである。

 ムダの総計が3兆円というのなら、その3兆円には意味がある。ところが、そうではなくて、ひたすら3兆円という目標額の話になってくると、数字合わせのための削減となり、ムダを削るという大義名分の中身がすかすかになりつつある。これ、落馬の前兆。

 だいたい、ムダを削れというそのムダの意味、喧(やかま)しく言えば、ムダの概念とは何か、と民主党に問いたい。

 彼らがムダの代表に挙げたのは官僚の天下り先への政府の出資ということであった。その出資をなくせば、たちどころに何兆円もの節約ができると断言していた。

 しかし、そんな話はいつのまにか消し飛んでしまい、今はもっぱら事業の削減という話となり、なにがなんでも削減の数字、数字の世界となってしまっている。

 そこで、例えば文部科学省が出してきたムダ削減候補を知り、ああやっぱりと思った。すなわち、文科省は研究費700億円の減額を言っている。

 会社も同じこと、減らすと言えば広告費。学校だったら図書費。文科省なら研究費。相場は決まっている。広告費・図書費・研究費等は、例えば1割をカットしても目に見える実害がないからだ。

 とすると、ムダの削減ということではなくて、単に事業費用の縮小ということではないのか。

 もし研究費を減額するのがムダの削減と言うのであれば、ムダと言う以上、研究費そのものが、ムダという〈概念〉の中に入るということであろう。

 それならば、思いきってムダという名の研究費のすべてをカットして零(ゼロ)にすべきである。にもかかわらず一部減額で通るのならば、文科省はムダ削減をしたのではなくて、事業の縮小をしただけのことである。おそらく他省庁の〈ムダの削減〉なるものの中身も単なる〈事業の縮小〉ということだろう。

 つまり、〈ムダの削減〉なるものの看板に詐(いつわ)りありということだ。のみならず、〈事業の縮小〉なのであるから、金銭は世の中に回らず、内需拡大など夢。これでは白馬の騎士どころか白旗の騎士、いや落馬の騎士か。

 そもそもムダとは何なのか。札束を焼いてしまうのはムダの限りであるが、事業として回る札束はなんらかの形で生きているのであってムダなものはない。研究費も同様なのだ。なるほど例えば考古学で穴掘りすることなどはムダと言えばムダ。しかし、そういう一見したところのムダを通じて、壮大な日本人の精神性が形成されてゆくのだ。「無用の用」(『荘子』外物篇)という知恵を理解できない民主党政権ではある。

 政治儀礼上の供え物(羊)をムダとして廃止しようとした弟子に孔子はこう言った。お前は羊がむだとするが「我はその礼(が崩れるの)を愛(おし)(惜)む」(『論語』八●(はちいつ)篇)と。

 (かじ のぶゆき)

●=にんべんに八の下に月
 
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091025/stt0910250239000-n1.htm

伝統保守派に耳傾け 2009.9.27 03:34

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 「国破れて山河在(あ)り、城(しろ)春にして草木深し」-杜甫(とほ)の詩「春望(しゅんぼう)」である。

 小学生の孫に、こうした漢詩や漢文をテレビ電話を使って暗誦(あんしょう)させている。意外とよく覚える。

 もっとも、難しい話ばかりだと向こうが逃げていってしまうので、なじみやすいことばも教える。例えば鈴木基久氏が考案したリズム漢字。小学校各学年ごとにその学年で履修する漢字を覚えやすい句に作っている。以下、一年生用。

 四月入学一年生

 手足目耳赤十字

 草竹九本千六円

 大小左右糸(いと)上下…

 漢詩漢文の名句は、大人にとって実感となる。総選挙に大敗した自民党王国において、それは一入(ひとしお)であろう。秋とはいえ、まさに「国破れて山河在り、城春にして草木深し」。

 その大敗因は自民党自体にあるとは言うものの、マスコミとりわけ朝日・毎日等新聞やテレビの自民党攻撃はすさまじかった。一方、なんでも民主党を褒(ほ)めそやしていた。今でもそうだ。麻生前首相がホテルのバーを使って贅沢(ぜいたく)していると非難したが、鳩山首相に対しては、その衣服や装身具がどのブランドものなどと紹介してはしゃいでいる。頭がおかしいんじゃないか。

 杜甫の「春望」は、その戦乱をこう描いている。「烽火三月(ほうかさんげつ)に連なり」と。

 「烽火」とは、敵軍が進んでくるのを急報する狼煙(のろし)の火煙のことであり、それが三カ月も続いたと表現している。長い期間という意味。

 自民党にとっては、この「烽火」は「ほうか」でも、「砲火」だっただろう。マスコミのすさまじい艦砲射撃であった。反撃していたのは、わずかに産経新聞だけではなかったか。

 いや、「砲火」だけであったならば、正規戦として応戦もできただろうが、そうではなかった。有ること無いこと、自民党のよろしくない噂(うわさ)話をあれこれと垂れ流していた。ゲリラ戦みたいに。それは、「ほうか」は「ほうか」でも「放火」と言っていい。

 これが何カ月も続いたわけであるから、こたえただろう。しかしそこにとどまっていることはできない。それこそ責任政党として再建しなくてはならない。

 その場合、砲火・放火した連中の悪意ある批判よりも、自民党を支える伝統保守派の人々の声に素直に耳を傾けるべきである。

 世に言う「無党派」など気にすることはない。無党派層とは無責任派ということで、この派のふわふわした俗論(年金額を増やせ、消費税を上げるな…)を満足させるには、彼らが「無党派」党でも作るほかあるまいのう。

 自民党は、私もその一員である伝統保守派の中から生まれたのである。いわば、伝統保守派の人々こそ自民党の母胎、故郷、家族であることを、自民党は明確に意識することだ。

 この伝統保守派の声、それは自民党への手紙ではないか。その手紙のありがたさをまず知るべきである。杜甫は「烽火三月に連なり」のあと、こう言い切っているではないか。「家書(家からの手紙)万金(ばんきん)に抵(あた)る(相当する)」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090927/acd0909270334000-n1.htm

本読む子 必ず為す有り 2009.8.23 02:32

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 孫たちを連れて図書館へ行った。幼児の遊び場にキッズルームというのがある。そこの部屋で孫守と相なった。

 いろいろな子が遊んでいるのを観察したが、子どもは無邪気というのは大嘘(うそ)で、邪気の有るのが多い。壁を蹴(け)るは、ボールを知らぬ子に投げつけるは、他者が持っている玩具を奪うは、辺りかまわず奇声をあげるは…である。

 かと思うと、ブロックで美事(みごと)な造形を完成する子や、早くも集団のリーダー的才能を発揮する子や、椅子(いす)に座って一心に本を読んでいる子や…がいる。

 それはすでに大人の世界の縮図となっている。彼らそれぞれの人生のおおよその見取図でもある。

 もちろん、人生は自分で作ってゆくものなので、幼少期の性向が変わることはあるだろう。しかし、そう大きくは変わるまい。本を読む習慣のついた子は、きっと読書好きの人間となることであろう。

 ところが近ごろ、珍妙な説を立てる人がいる。それは、親の年収によって、子の学習水準が比例すると。それを具体的に言えば、東京大学の入学者の親の年収が高いではないか、そういうデータがあるぞ、とのこと。

 愚かな話である。親の年収は高いが、道楽(どら)息子、そこまででなくとも無能な三代目、などという例はいくらでもあるぞ。

 年収の問題ではないのだ。あくまでも環境-知的環境、道徳的環境といったものが大切なのである。その点を見ずに、やたらと物事を金銭に換算して見るしか能のない珍説先生が教育界で発言するのは百害あって…。

 たとい貧しくとも、子が本を読みたいといえば、それに応ずることはできるのだ。なにも親が本を買わずとも、公共図書館や学校図書館があるではないか。ちゃんと貸し出しをしているのである。

 昔はいざ知らず、現代における児童・生徒の親世代で、図書館の意味や機能を知らぬ者はいない。

 ならば、己の子にいくらでも読書をさせることができる物的条件があるのに子に読書の習慣をつけさせることができないのは、年収の問題ではなくて、親自身に問題があるということだ。

 本を読む子は、必ず〈為(な)す有る〉すなわち〈有為〉の人物となる。別に東大に進学しなければならない理由はない。それぞれの人生において、読書とともに生きる一級の歩みとなるではないか。

 五十年前当時の私たち学生はほとんどみな貧しかった。それでも、生活費を削ってでも本を買っては読んだ。学生の年収など吹けば飛ぶようなものであったにもかかわらず、腹を減らしながらも読書していた。

 そのころ、三人で喫茶店に入り、コーヒー一人前を注文したものだ。コップに水は三人分あるので、コーヒーに付いてきたミルクをコップに入れて薄いミルク水を作る。もう一つは砂糖水。つまり、コーヒー、ミルク水、砂糖水を作り、ジャンケンで配当。支払いはコーヒー一杯分を割り勘。それから数時間の文明批評や天下国家論。貧しいながらも、なにも苦痛ではなかった。

 『論語』里仁(りじん)篇に曰(いわ)く「士の道に志(こころざ)すや、悪衣悪食(貧しい服装・食事)を恥ずる者は、未(いま)だ〔同志として〕与(とも)に議するに足らず」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/education/090823/edc0908230234001-n1.htm

自民党よ、保守本流を叫べ 2009.7.26 02:33

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 暑い。とは言うものの、やはり正装で外出のときがある。

 そこでワイシャツ(関西ではカッターシャツ)を準備となるが、これが一騒動。クリーニングに出したものは、畳んで透明ビニールの袋に入っているので、長袖か半袖か分からない。クリーニング屋はそれが見分けられるような表示を付けろ、と文句を言いながら、いつもここで勝負、「長(ちょう)か半か」。

 ま、この種(て)のばくちなら天下泰平であるが、国政選挙でどちらか二つに一つを選べ、自民か民主かというのは、ちょっと乱暴な話ではあるまいか。

 と言うのは、民主党などという政党は、旧社会党が薄化粧いや厚化粧して化けて出てきたようなもので、自民党に対峙(たいじ)できるだけの器ではない。そういう疑似社会主義政党を選ぶくらいだったら、共産党を選ぶほうが筋が通っている。共産党、がんばれ。

 本来は、大きくは保守伝統かその破壊か、つまりは自民か共産かという選択なのである。

 とすれば、自民党は今こそ保守本流の立場をしっかりと世に示すべきではないのか。

 近ごろ、マニフェスト、マニフェストとうるさいが、政策のこまごましたものを示したところで、国民の大半はだれも読みやせん。立候補者も自分の名を連呼するだけのこと。国民が求めているのは、ただ一つ。それは、〈心が落ち着く希望〉なのである。

 首相よ、マニフェストよりも〈希望〉を語られよ。それを聞くと、人間は明るくなる。明るくなると、元気が出る。

 それも三点でいい。〈人・物・心〉についてだ。例えば人について。日本の唯一の資源は人材ではないか。とすれば、首相は文部科学相を兼任すると宣言することだ。首相みずからが教育・文化・研究・学問振興の指揮を執ることを示せば、国民は敬意を表する。

 次は物。ちまちまとした経済政策ではなくて、日本ひいては世界のエネルギー革命のために、海力(海流)発電を国家として開発することを宣言せよ。安価でエコで豊富な海力発電によって電動車を主流とすれば、CO2は大幅に削減、石油は燃やさず化学工業用資源として残してゆく。原子力発電は不要。無限の新電力で日本の全産業は強くなる。さらに海力発電を全世界に請け負ってゆけば、日本の経済問題の大半は解決できる。

 最後は心。今の日本人は落ち着きを失い、がさつになっている。それを安定させるためには、先人の心に帰ろう。それは祖先祭祀(さいし)である。われわれは、祖先を敬愛し祭祀することによって心を落ち着かせてきた。祖先祭祀は儒教の根本であるが、日本仏教はそれを取り入れ先祖供養と称した。来月のお盆はその最大儀式である。

 拙宅では、お盆に限らず、毎朝お仏壇の前でお勤めをするが、かつてはそれがふつうであった。この祖先祭祀(先祖供養)を大切にしようと首相は説くことだ。

 相続において祭祀・祭具を承(う)け継(つ)ぐ者が決まらないときは「家庭裁判所がこれを定める」(民法897条)とある。国家が人々の祖先祭祀を保証しているではないか。自信を持て。

 自民党は「群居(ぐんきょ)すること終日(しゅうじつ)、言(げん) 義(ぎ)に及(およ)ばず。好(この)んで小慧(しょうけい)(小細工)を行(おこ)なう」(『論語』衛霊公篇)と笑われないようにすることだ。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090726/stt0907260236001-n1.htm

動物愛護の浅知恵 2009.6.28 02:53

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 5月中旬、和歌山県田辺市は内ノ浦湾に、マッコウクジラが迷いこんできたというニュースが伝えられた。

 クジラといえば、同県の太地(たいじ)町は江戸時代にクジラ漁で有名。そこのくじら博物館長は「シャチなど外敵に追われたか、エサを求めて深入りしすぎたことなどが考えられる」と話したという(毎日新聞)。その後、漁業組合の人が「湾から追い出すには音を立てて騒がしくするのがいい」などと語っているテレビ画面もあった。

 要するに湾に迷いこんできたものの、自力で脱出できないでいるので〈かわいそう〉だから、大海に帰るのを人間が手伝おうという〈ヒューマニズム〉いや〈ゲイ(鯨)マニズム〉に溢(あふ)れた、やさしい気持ちという美談めいたニュース。

 しかし、これはどうやらピント外れのようである。

 校名・芳名ともに残念ながら忘失して申しわけないが、某高専の某先生による研究報告(おそらく同高専の『紀要』)をたまたま読んだことがあり、記憶に残っているが、そこにこうあった。

 クジラは魚類ではなくて、哺乳(ほにゅう)類であり、構造的には人間に近い。その人間に中耳炎があるのと同じように、クジラも中耳炎を発症する。すると耳が聞こえにくくなるため、集団から脱落し、方向はまったく見当がつかなくなる。

 こうなると苦しくなる。集団の中におればこそ、エサ(それも大量の)にありつけるのだが、一頭しかも方向感覚を失ったとなると、エサに不自由する上、それこそサメなどに襲撃されよう。

 そうした苦しみに耐えかねた中耳炎クジラは、己の大きな体を休ませるための場所を求める。砂浜、浅い海、荒波のない湾、そういうところに横たわり、本能としてみずから静かに死を待つという。一種の自殺である。

 この論述は、実に説得力があり、そういう視点で見るべきではなかろうか。

 江戸時代、太地地域ではクジラがよく捕れたというが、元気なクジラを当時の網や手槍(てやり)ぐらいの道具でそう簡単に仕留(しと)めることはできまい。おそらく、中耳炎クジラなどが主たる獲物ではなかったであろうか。かつてクジラは大繁殖していたので、当然、中耳炎クジラの発生も多く、江戸時代のクジラ漁はそうした偶然性に助けられていたのではなかろうか。

 とすれば、内ノ浦湾に迷いこんだクジラに対しては、捕らえて安楽死を与えることが苦しみから救ってやることになるのである。

 それを漁業組合員がドンガラドンガラやかましい音を立て、耳の病に苦しむクジラにわざわざ強い刺激音を与えてさらに苦しませ、そして外海に追い出して、飢えと外敵との苦しみをもっと与える。これがヒューマニズムとやらの人間の浅知恵による慈悲ということなのか。

 クジラに限らず、ときどきイルカとかラッコとか、異地域に住む動物が日本に漂着して話題となるが、彼らは属している群(むれ)から、なにかの原因で脱落し苦しんでいると推定すべきである。それをアイドル風、ペット風に見て、今日はどこにいたのいないのと行方を騒ぐのは真の動物愛護ではない。時には死を与うべきである。『論語』顔淵(がんえん)篇に曰(いわ)く「死生(しせい) 命あり」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090628/acd0906280254002-n1.htm

「漢検」に受検の価値なし 2009.4.26 03:44

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 近ごろ楽しませてくれたヒットニュースは、漢検問題であろう。

 漢字能力検定協会とやらが何十億円という収益をあげ、それを本来ならば公益的な事業に還元しなければならないのに、なんと幹部が私腹を肥やした疑いがあると伝えられている。

 では、なぜ同協会が公益的でなくてはならないのかと言うと、財団法人であり、優遇されているからである。例えば、預貯金すると、その利子は非課税だ。われわれ庶民は預貯金しても、低金利なのでそれこそスズメの涙ほどの利子しかつかない上に、利子に課税されて引かれている。

 となれば、同協会が財団法人の名に隠れて、私腹を肥やすなんてとんでもないことではないか。

 というわけで、やじ馬にとって漢検の悪事ニュースは楽しませてくれているが、真の問題点は、彼らのゼニカネよりも、もっと他のところにある。

 それは、漢検の出題問題の内容とはどういうものであり、また受検するだけの値打ちがあるのかどうかという点である。

 結論から先に言おう。ほとんど意味のない出題である。もちろん受検するだけの価値はない。

 私は中国学の専門家であり、漢字問題についても一家言を有している。その立場からの発言だ。

 漢検の問題のほとんどは、漢字の知識テストにすぎない。知っているかどうかを問うだけのことである。テレビのクイズ番組と同じで、典型的な知識尊重だけであって、応用とか、それを通じてものごとを考える力を測るとかといった、真の国語力養成につながる出題ではない。


 だからちょっと応用がかかるとすぐ転んでしまう。漢検ファンに質問しよう。よろしいか。例えば、次のことばの□に最も適当な漢字を補え。「北□四九」。できるかな?

 正解は「本」。なぜなら、北海道・本州・四国・九州よ。これ、慶応の小学校入試の過去問。

 去年だったか、首相は漢字が読めないと言って、多くのメディア関係の者がさんざん悪口を言っていた。しかし、その人たちの99・99%は次の語を誤読している。例えば「稟議書」。よくこれを「リンギショ」と読んでいるが、正しくは「ヒンギショ」。「稟」には2種類の音があり、「倉庫」の意味で使うときは「リン」、「申し上げる」のそれは「ヒン」と読む。だから、リンギショと読むと倉庫について議論しようということになるではないか。漢検合格者の多くも、おそらくリンリンリンと読んでいることであろう。

 さらに言えば、出題の花形である四字漢字熟語など、知っているというだけでは意味がない。漢字や成績の意味の理解から一歩進めて、文章を読むということが大切なのだ。漢字の知識の端くれをあれこれたくさん覚えるよりも、一行でもいい、いい文を読む、古典の漢詩漢文を読むということに価値があるのである。

 例えば「巧□令色」とあると、漢検受検者は反射的に「言」と補うことであろう。しかしそれだけでは意味がない。巧言令色(こうげんれいしょく)だと「鮮(すく)なし仁(じん)」となるぞという『論語』学而(がくじ)篇の主張を理解することが大切。それがなかったから漢検幹部どもは文字通り「巧言令色、鮮なし仁」となってしまったではないか。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/090426/med0904260346000-n1.htm

教員は幼稚園に学べ 2009.3.29 03:19

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 幼稚園児の孫の卒園式に出席した。ジジ馬鹿丸出しである。

 式典が進行し、ハイライトの在園児送辞、卒園児答辞となる。もういけません。眼頭が熱くなってきました。そして終盤に、園児全員の斉唱がはじまった。スクリーンにさまざまな情景が次々と映るなか、「思い出のアルバム」の歌声が流れる。

 この唱歌、私は大好きである。「いつのことだか、思いだしてごらん。あんなこと、こんなこと、あったでしょう」にはじまり、「春のことです…夏のことです…」と歌い継ぎ、最後に心を揺さぶる名句が現れる。「もうすぐ、みんなは1年生」-涙があふれた。彼らの希望に輝く門出を祝わずにおれようか。

 幼稚園には教育の原点がある。いや、人生の原点があると言っていい。この子たちは、これから人生を自分の力で切り開いてゆくことになるが、それを大きく受け止めて協力するのが、われわれ大人の役目である。

 全国の新小学校1年生の中から、天下の大秀才が、他者の幸福のために生きる逸材が、高い志を抱いた教養人が登場することであろう。頼もしいかぎりである。

 それに比べて、教員にはお粗末なのがいる。例えば大阪の門真市立第三中学校の教員ども。昨年の同校卒業式において、国旗に対して起立表敬をせず、国歌も唱和しなかった。理由は自分の良心に反するからだと。彼らの扇動があったのだろう。生徒も起立しなかった。1人をのぞいて。

 彼らの愚劣な行為の中で、たった1人で起立した生徒はお美事(みごと)。

 そして今年、なんと教員も生徒も全員が起立したと伝えられている。

 おかしいではないか。去年、起立しなかった教員は処分を受けたとのことであるが、それが怖くて今年は起立したのか。己の良心に反するから起立しなかったと言うのであるのならば、今年も起立すべきではない。

 なぜなら、良心は法律よりも上だからである。たとい処分を何度受けようとも、信念を持って良心に従って生きるべきである。

 ところが処分が怖くて起立したと言うのならば、その良心など口先だけの吹けば飛ぶような代物である。

 大学の教員にもおかしなのがいる。例えば浅井基文なる者が毎日新聞3月10日付「新聞時評」にこう書いている。「特に毎日、朝日は、他の全国紙に比べ公正性、中立性が高いとみられている」と。

 思わず嗤(わら)ってしまった。毎日、朝日といえば、左翼的であることは周知の事実。それを「公正性、中立性が高い」とは、見識のかけらもない。こういうのをチンドン屋と言う。

 学校の種類を問わず、この種(て)の教員はいくらでもいる。教員として劣化しているわけである。彼らは教育を職業とする以上、研修させる必要がある。

 では、何を研修させればよいかといえば、教育のこころ、教育の原点であろう。人の子を教えるのなら、人間や社会や世界をまともに見ることができるように研修させねばなるまい。その研修の場としては幼稚園が最善。そこには教育のこころや原点すなわち教育の根本がある。『論語』学而(がくじ)篇に曰(いわ)く「本(もと)立(た)ちて道(みち)生(しょう)ず」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/education/090329/edc0903290319000-n1.htm

腹七分目が健康的 2009.2.1 02:55

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 老人になると、なに一ついいことがないように世間は言う。

 けれども、よいことがないでもない。例えば時間。残り少ない人生とは言うものの、現実はひまを持てあましている。

 で、なんとなくテレビをよく見る。そして気づいたことが二つ。天気予報と食事ものとがやたらと多いことだ。

 天気予報は朝から晩までしている。日本人が骨の髄(ずい)まで農耕民族感覚であり、天候が気になるからであろうか。それも雨の降る確率までパーセント表示。

 けれども頼りない。「明日は雨」と予報していたのに晴になったりする。

 しかし、すみませんの一言もなく、しゃあしゃあと「今日の晴は明日も続くでしょう」と娘気象予報士は言う。虫も殺さぬ顔をして。その点、オッサン気象予報士はちょっと言いわけをする。

 もう一つの食事もの-料理、食べ歩き、健康メニュー、特産の紹介と、これがまた多い。わけても、グルメ(美食)番組が旅行とセットでよく作られている。人気があるのだろう。しかし、それでいいんですかねぇ。

 仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)説によると、解脱(げだつ)して仏となった者以外、すなわち圧倒的大多数のわれわれ凡俗は、来世、六道(ろくどう)(6つのコース)のどこかに生まれる。

 六道はランキングであり、生前の行為の善し悪(あ)しによって査定される。死後も偏差値の世界よ。

 人間道(人間界)は上から2番目、地獄道は最下位の6番目。

 さて5番目に餓鬼道がある。ここに墜(お)ちると、食べものを口元に持ってきて食べようとすると、ぽっと火がついて食べることができない。すなわち人間の最大欲望である食欲が満たされず、飢えの苦しみが続く。これが餓鬼道。

 このコースに墜ちる者は、実は生前に分かっているのである。すなわち美食する者、もっともっと食べたいと思う者、腹いっぱいを幸せとする者…。こういう人間どもなのだ。

 と言うことは、テレビの食事番組なんてのは、餓鬼道に墜ちる予行演習みたいなもの。テレビ局も罪作りな御苦労な話である。

 いや、テレビ番組だけではない。今や日本中が食べものの話ばかりである。

 しかもメディアは、不景気が深刻化し、肉やパンが十分に食べられなくなると騒いでいる。

 こういう騒ぎ、私には分からない。肉がなければ魚があるじゃないの。パンがなければ米にもどればいいじゃないの。ネギや小松菜などなどは、自宅のベランダで相当に多く採れるではないか。

 だいたいが、腹いっぱい食べずに腹八分目、いや七分目が健康的なのである。

 先日、「リストラされて生活できない」という人の姿がテレビ取材されていた。生活-食べてゆくのが大変と訴えているその男性はなんとタバコを吸っていた。

 タバコなどやめるべきだろう。食べてゆけないのなら。やはりどこか考えかた、人生への取り組みかたが甘いように思えた。〈腹いっぱいの、暖かい家屋の人生〉が欲しいのなら、その設計をすべきであっただろう。『論語』学而篇に曰く「君子は食に飽(あ)くるを求むること無く、居(お)る(住居)に安き(安楽)を求むること無し」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/090201/sty0902010257001-n1.htm

すんなり進まぬ近畿州議論 2009.1.3 02:45

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 謹賀新年。

 いよいよ今年は道州制の議論が浮上してくる。しかし、近畿州だけはすんなりと話が進まず、もめることであろう。

 と言うのは、原案による道州の分けかたを見ると、近畿州以外、中心都市のトップはすぐ分かる。例えば、東北州は仙台、と。

 これに反して、近畿州は京・阪・神と並んでいて、どこがトップと決めきれない。

 例えば、女性代表自慢。京都と言えば舞妓(まいこ)・芸妓(げいこ)。神戸ならば広く考えて宝塚スター、タカラジェンヌだ。大阪はどやねん。そんなもん、決まってる。だれや。天童よしみや。負けてられるかい。なんなら大阪のオバチャンもおるで。

 3都それぞれが自信を持っているだけに、行政・経済・文化・大学とどれを取っても互いに譲らないであろう。

 明治維新以後、近代工業の発展によって、工場を多く作っていった大阪市が指導的地位を得たことは言うまでもない。

 しかし、この60年、政治が経済に深くかかわるようになってからは、大阪市に置いていた本社を東京に移す会社が激増した。

 その結果、大阪市の経済的地盤沈下はいちじるしい。この経済の減速は当然、文化に反映される。

 ところが、京都市は元気なのである。俗に「京都企業」と言われるが、独自の技術の特性を発揮し、それぞれがその分野のリーダーとなっている。もちろん、本社は京都市に置いていて、東京や大阪がなんやと、でーんと構えている。

 この京都の商法は大阪商法と異なる。例えば、せんべい屋。京都の老舗のせんべい屋は、1日に五百枚だけせんべいを焼く。ファンがいるので必ず売り切れ、その日は閉店。それ以上は焼かない。だから、景気が良かろうと悪かろうと関係なく、しぶとく生き残れる。ミヤコ千年の知恵である。

 ところが、大阪は五百枚売れたら、次の日は六百枚焼く。そして七百枚、八百枚…と拡大していって、最後はアウト。中国人と同じ商法である。

 神戸は、端(はな)からハイカラ趣味。京都の古風と好対照。

 「阪神間」と言うけれども、実は大阪は抜きで西宮・芦屋・神戸・宝塚を指しての阪神間のことである。それが神戸の姿。

 その一帯は、収入も地位も高い人がそれこそ数多く集まっているので、なんとなく雰囲気が違う。ちょっとした喫茶店に入っても、コーヒー代はいい値段。

 わが大阪は、古風もハイカラもない。それに昔を大切にしない。西鶴の墓はきちんと守られているが、近松門左衛門の墓はビルの片隅に辛うじて残るだけ。

 いったい今の大阪市は何をウリにできるのであろうか。けれども江戸時代以来のプライドだけは続いている。となると、京・阪・神3者の話し合いなど、まず無理。

 そういうことが目に見えている以上、京・阪・神3市は州から独立し、それぞれ個別独立する特別市という制度を求め、その線の単立で行くほかあるまい。そして近畿州の中心トップは奈良市ということになるだろう。

 『論語』述而篇に曰(いわ)く、「己(おのれ) 立たんと欲すれば、〔先に〕人を立つ。己 達せんと欲すれば、〔先に〕人を達す」と。

 (かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090103/lcl0901030245001-n1.htm

「知識」より「知恵」の生活 2008.12.28 02:52

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 歳末である。日本人の習慣で御用納(ごようおさ)めは掃除。

 街頭ではビルの前の道路を女子社員が箒(ほうき)で掃除している。

 それ見てすぐ分かった。このお嬢さん、多分、家では箒で掃除したことなんかないことが。

 もっとも、近ごろは電気掃除機だから、本人に罪はない。

 この女子社員、箒を力まかせに掃くものだから、枯れ葉をうまく寄せられないでいる。それだめ。

 老人の私が子どものころ、「ほうきほさき、つえてもと」と習ったものだ。

 箒は穂先きに力を入れて掃き寄せるのがコツ。お嬢さんのように箒の穂の腰のところを曲げて強く掃いてはだめという教えである。

 確かに、箒は穂先きで軽くさっさっと掃けば、よく掃き寄せられる。濡(ぬ)れ落ち葉だって掃き寄せられるのである。

 或(あ)る戦闘的女性評論家は、定年退職後の男性を濡れ落ち葉に喩(たと)え、奥さんにべったりくっついていてだめだと評したが、あの女性評論家、多分、箒なんて持ったことないのだろう。

 そうそう、「つえてもと」とは「杖手元(つえてもと)」のこと。箒を使うときの知恵の逆で、杖のときは、持つ手元をしっかりと握(にぎ)れという知恵だ。杖は先端よりも把(と)っ手のほうが大事。

 こういう知恵は子どものころ、なんとなく親や大人から学んだが、国語の時間でも学んだ。小学校教科書に、自然科学者の寺田寅彦(とらひこ)の文章が出ていて、そこから「きもとたけうら」という知恵を教えられ、今も覚えている。

 昔は、木や竹を割ることが家事の一つであった。木は薪(たきぎ)に、竹は細工物(さいくもの)に使っていたからである。

 木は適当な長さに切ってから立てて、斧(おの)で割るが、そのときの立てかたにおいて、木の根元側のほう(形で分かる)を上にする。するとパンと割れる。

 竹のときは、その逆で、竹の先端側のほう(「うら」あるいは「うれ」と言う)を上にする。バリッと割れる。それが「竹を割ったような気性(きしょう)」という形容となったのだろう。

 このような生活体験的知恵は、機械化の進むなかで、急速に消えていっている。もちろんそれに替(か)わる知恵は出てくる。例えば、パソコンを使うときの裏技(うらわざ)などというものがそれに当たるのかもしれない。

 しかし、それは知恵と言うよりも知識であろう。知恵の場合、まずことばにリズムがあり、覚えやすく、歌うような感じで心をつかむ。

 「ほうきほさき、つえてもと」-どことなく語呂(ごろ)もいい。「きもとたけうら」もそうだ。また中身も対照的。

 学校制度が普及する以前、人々はまず実務に入った。実務の世界は経験・知恵がものを言う。そのような生活を経てから学問・知識を求めても遅くない。

 ところが、今は知識の勉強ばかりするため、頭でっかちになる。しかもそれで一人前になったつもりとなるから、知恵はからきしない頼りない卒業生の山。

 今日の小学校から大学に至るまで、まずは合宿や生活体験、農作業や林業の手伝い…といったことを教育課程の中に据えなくては、空(から)学問に終わる。『論語』学而篇に曰(いわ)く「行(おこ)ないて余力(よりょく)あらば、則(すなわ)ち以(もっ)て文(学問)を学べ」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/education/081228/edc0812280253000-n1.htm

「理数振興」国語教育が近道 2008.10.26 03:07

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 行きつけの店なら、その店の名を覚えるのは当たり前。

 けれども、通りすがりの場合だと、店の名など、ほとんど覚えていない。

 それだけに、店の命名には苦心していることだろう。

 大阪には、そういう店がある。たとえば「盗作料理」-この看板を堂々と張り出している。

 近ごろ、芸術家気分で、創作料理などと気取っている手合いがいるが、たかが、めし屋ではないか。それならと、堂々の「盗作料理」。いいね。

 定食屋にもいいのがある。「宮本むなし」-いいなあ。

 めしや酒のパンチ力より、ことばのパンチ力のほうがはるかに人の心を捉(とら)える。

 と書いているところへニュース。なんと、ノーベル賞に3人と。翌日にはまた1人。御同慶の至りである。

 早速、メディアに論評が出た。その多くは、最近の子供の数学・理科離れが、このノーベル物理学賞・化学賞の受賞で歯止めがかかるのではないか、と。

 それ、大嘘(うそ)。よくもまあそんなこじつけが言えるものである。高度の物理学や化学が分かるのは、才能があるごく少数の者だけ。この真理は昔も今も変わらぬ。圧倒的大多数の理数ぼんくら(もちろん私も含めて)は、理数なんて端(はな)から興味なし。と言うよりも、分からないのである。

 受賞者の南部氏の「…破れの理論」とあると、破れなのだから、その対称として「…繕(つくろ)いの理論」もあるのかなあ、という程度。どうして理数振興となるのよ。

 ここ、ここが肝腎(かんじん)。理数といえども、義務教育程度のものなら、これはしっかりと理解できなくてはならない。もちろん、それすらも理解できない者はいるが、義務教育レベルなら、なんとか理解が可能である。

 ところが、それが学校教育できちんとなされていないので、理数離れが起きているのだ。ノーベル物理・化学賞の受賞者レベルとは、ほとんど関係のないところでの事情なのである。

 政府は、ノーベル賞受賞者を30人、いや50人に増やしたいと言っている。御苦労な話である。

 それも大切だが、義務教育内で、理数をしっかりと理解させることのほうが、もっと大切ではないのか。そういうしっかりした基盤がなくては、ノーベル賞級という天下の大秀才は現れない。

 さらに言えば、義務教育内の理数を理解させ、また、水準を上げようと思えば、実は国語力を高めることが第一なのである。

 義務教育のレベルの理数は、理数の才能がなくとも、国語力があればこなせる。小学校の算数の文章問題など、ほとんど国語問題ではないか。この国語力のない者は、理数が分からず、理数離れするのである。

 理数振興を図ろうとするならば、実は国語振興が近道なのである。ことばのパンチ力が理数を楽しく分からせるのだ。

 しかも、この国語教育は、単なる知識教育ではない。国語を通じて人格も高めるという最高の教科でもある。そういう人間教育を担う国語教育を疎(おろそ)かにしては、ノーベル賞もないものだ。『論語』に曰く「徳有る者は、必ず言(げん)(いい言葉)有り」(憲問篇)と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/education/081026/edc0810260308001-n1.htm