ちょっと資料室行ってきます

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2010中川昭一カレンダー発売!!

2010-01-23 | 中川-英霊追悼-昭一
まさかカレンダーが発売になるとは!!
しかも今日この日に発表ってwww
中川事務所GJGJ!!!!

こりゃ買いでしょう!!

一部1,000円

受け渡し方法
①来所受け取り
②郵送
1本 310円
2本 390円
3本~5本 440円
6本~10本 550円

申込書、サンプル等詳しくは下記ホームページへ!!

中川昭一公式サイト
http://www.nakagawa-shoichi.jp/mynews/detail/20100123_500.html

中川後援会が解散 十勝保守層の中核 総会 2009.11.29 13:52

2009-12-04 | 中川-英霊追悼-昭一
後継問題出ず

 故中川昭一元財務・金融相の十勝連合後援会(有塚利宣会長)は28日午後2時、帯広市内のとかち館で定例総会を開き、解散を決めた。帯広連合後援会(岩野洋一会長)も近く総会を開いて解散する見通し。本人の死去に伴い26年間続いた後援会活動を終えるもので、父・中川一郎氏(故人)の時代から受け継がれた十勝の保守層の中核がなくなることも意味する。


総会開始前、集まった後援会の役員へあいさつに回る中川郁子さん(中央。後ろは右から有塚会長、帯広連合後援会の岩野洋一会長、高【異体字】橋猛文幹事長)

 総会は非公開で開かれ、常任理事や町村の後援会長、中川氏の郁子夫人らが出席。有塚会長ら全役員13人が退任した。連合後援会を構成する町村部の後援会、資金管理団体、青年部など約120ある組織も解散する方向となった。

 資金の精算や中川氏の資料整理などが残り、近く届け出る別の政治団体に機能を集約し、残務処理を進める。高橋猛文幹事長を中心に団体の代表者や会計責任者を決める。残務処理は1年程度かかる見通しで、帯広市東3南13の後援会事務所は人員を縮小して当面維持し、中川氏の記念品などを展示する計画だ。

 町村後援会などの中には、解散後も任意の親睦(しんぼく)団体として組織を残す動きがある。高橋氏は「後援会活動はなくなってしまったが『連絡網は残してほしい』『きずなは解かない』との意見があった」と語り、連絡態勢は維持する考えを示した。

 注目が集まる中川氏の後継問題について、総会では「一切出なかった」(高橋氏)としている。総会終了後、郁子夫人は報道陣の取材に応じ、「(出席者から)ご縁が切れてしまうのはさみしいとの声をいただいた。きずなを薄めないようにしていきたい」と話し、身内から後継を求める声が出たかとの問いには「それはないです」と答えた。

 十勝連合後援会は、中川氏が初出馬・初当選した1983年に発足。主要閣僚、自民党政調会長など党の要職を務め、10月3日に急逝した中川氏の政治活動を支えた。(安田義教)

※高橋猛文幹事長の高の字は異体字です。

十勝毎日新聞 2009.11.29 13:52
http://www.tokachi.co.jp/news/200911/20091129-0003471.php
中川昭一氏に関する記事一覧
http://www.tokachi.co.jp/news/nakagawa.php

『まじめ・繊細、甘さも』 2009.10.7

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
 4日に自宅でなくなっていたのが見つかった中川昭一元財務相は、保守派の論客としてのこわもての印象とは裏腹に、繊細で心優しい一面ももっていた。ただ、その繊細さには影がつきまとい、本人は決して多くを語らなかったが、亡き父、中川一郎元農水相のことを常に意識していた。

 「もうやめてもいいと思ったし、オヤジの(自殺の)ことも頭をかすめたけれど、家族が支えてくれている」

 2月のG7(主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議)。終了後、もうろう状態で記者会見し、財務相兼金融相の辞任に追い込まれた直後のことだ。地元・帯広の地盤は崩れ、初の落選の危機を実感した際に、こうこぼしていた。

 酒癖の悪さばかりが報道されたが、実は酒量は少ない。ビールやウイスキーは口にせず、ここ1~2年は、ごく薄めにつくった焼酎のソーダ割り2杯程度に自重していた。

 むしろ家族が一番心配していたのは、薬の飲み過ぎだった。ストレスや持病の腰痛、睡眠不足を紛らわそうと何種類もの薬を医師の処方以上に飲んでしまう。アルコールが抜け切らずに飲んだことがもうろう会見につながった。体調管理のまずさ、薬に頼ってしまった甘さが原因だった。

 出張先でも常にぶ厚いファイルを自分で持ち、赤ペンを引いていた。財務相在任中は夜明け前に起きて欧米経済の最新状況の報告を聞いていた。まじめに取り組んでいたのに、肝心要のところで失敗した。ストレスと重圧から薬で逃げようとする姿勢を何とか改められなかったものか。

 G7への出発前夜、「(就任直後の)ガイトナー(米財務長官)に会うのが楽しみだ」と意気揚々に出かけだ時は、元気だった。経済危機にはとりわけ思い入れが強かっただけに、宿題だった麻生政権を窮地に追い込んでしまったのは無念だったろう。

 実際、自らの落選より、政権交代を誘発させたことに心を痛めていた。汚染が進む水問題、世界貿易機関(WTO)交渉の先行き、拉致問題…。まだまだ取り組みたいことがあると語っていた。

 どんなに政治談議が盛り上がっても、最後は家族の話が大好きだった。「楽しみだ」と顔をほころばせていた長女の結婚も見届けられず、心残りだったに違いない。

2009.10.7 朝日新聞朝刊

「まだ信じられない」 故中川昭一氏四十九日法要 2009.11.21

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
後援会幹部ら十勝からも参列

 【東京】10月3日に急逝した故中川昭一元財務・金融相(享年56)の四十九日法要が21日正午、世田谷区の自宅で営まれ、十勝からも後援会幹部らゆかりの人たちが参列した。

 四十九日に当たり郁子夫人は「(夫の死は)まだ信じられない気持ち。56年間、特に26年間の政治生活で、たくさんの人に支えてもらったと、49日の間に改めて感謝の気持ちが募った。主人を大切にしてくださった人が家族を支え、何とかここまでこれた」と話した。

 法要には親族のほか、親しい関係者など50人以上が集まった。十勝連合後援会の有塚利宣会長は「亡くなった後、その政治活動が改めて全国で評価された。それがせめてもの慰め」と言葉少な。岩野洋一帯広連合後援会会長は「中川さんのいない十勝の経済は今ひとつ元気がない」と故人の存在の大きさを語った。

 叔父の中川義雄参院議員は「まだすっきりしない」と悔しさをにじませ、平沼赳夫衆院議員も無言のまま会場に入った。このほかボビー・バレンタイン前千葉ロッテマリーンズ監督らが弔問に訪れ、政財界のみならず文化、スポーツ界との幅広い交友関係を伺わせた。

 四十九日を終えて後援会は、今月末に会合を開く予定。後援会組織の縮小などの動きが本格化するとみられる。
(安田義教、池谷智仁)

十勝毎日新聞 2009年11月21日 14時07分
http://www.tokachi.co.jp/news/200911/20091121-0003387.php

中川氏に最後の別れ 告別式 政財界から参列 2009.10.09

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
「国民を守ることの本質を行動で体現された」

 【東京】故中川昭一元財務・金融相(享年56)の告別式が9日午前11時、都内港区元麻布の善福寺でしめやかに営まれた。保守の論客として存在感を示し、財務相、農水相、経産相、自民党政調会長など要職を歴任した中川氏の功績をしのび、数千人の政財界著名人、十勝関係者らが冥福を祈った。

 中川家と自民党の合同葬儀。葬儀委員長は谷垣禎一同党総裁、喪主は郁子夫人が務めた。

 谷垣総裁が「真の保守政治家として高い志を持ち、必ずや再起を図ると信じていただけに、突然の不幸に言葉が見つからない。北朝鮮の拉致問題への取り組みは忘れることのできない大きな足跡。先生ほど、国民を守ることの本質を行動で体現された政治家を私は知らない」と弔辞を述べた。

 中川氏が所属していた志帥会(伊吹派)の伊吹文明衆院議員は「日本、自民党にとって大きな損失。保守主義は、人間の作り上げた良き伝統的規範や自己抑制、矜持(きょうじ)に期待する政治思想。あなたの政治的無念を晴らすためにも、自民党は正しい保守のあり方を体系的に理解し、保守政党として国民の信頼を取り戻す努力を誓う」と追悼。

 友人代表の安倍晋三元首相は「昭一さんは常にリーダーだった。自虐的な歴史観を正し、子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てる教育に変えたい一心で教科書問題にも取り組んだ。困難な問題に立ち向かい、世の中を変えていく戦う政治家の姿を学んだ。最愛の奥様と夢だったエジプト旅行に来週出発すると聞いていた。郁子さんは昭一さんとの幸せな日々を胸に、中川家を守っていくと思う」と涙ながらに語った。

 郁子夫人は「56年の生涯で大切にしていただき感謝している−と、主人の声が聞こえる気がする。26年間務めさせていただいた国会、自民党、父の代からお世話になった北海道の選挙区の繁栄を祈っていると思います。ここ数年、日本が危ないと繰り返し言っていた。国を愛する心を気持ちの中心に据え、お世話になった皆様にご恩返ししていきたい」と謝辞を述べた。

 8日午後6時からは同寺で通夜が執り行われた。16日には帯広市内の北海道ホテルで偲(しの)ぶ会が開かれ、十勝関係者が最後の別れを告げる。
(池谷智仁)

法名「青邦院釋昭尊」
 故中川氏の法名は「青邦院釋昭尊」。郁子夫人と長女が「清い政治を貫いた」との意味を込めて命名、鎌倉の高僧の承諾を受けた。

陛下から「祭粢料」
 故中川氏の告別式会場に9日、天皇陛下の香典に当たる「祭粢料(さいしりょう)」が届いた

 天皇陛下の勅使が同日午前9時半に訪れ、郁子夫人ら遺族と対面。祭粢料は祭壇に飾られた。

十勝毎日新聞 2009年10月09日 14時25分
http://www.tokachi.co.jp/news/200910/20091009-0002982.php

大勢の支えに「感謝」 故中川氏 郁子夫人語る 2009.10.18

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
 急逝した中川昭一元財務・金融相(享年56)の郁子夫人(50)が18日午前11時、十勝毎日新聞社を訪れた。16日に帯広市内で終えた「哀惜の会」に対して、郁子夫人は「大変立派な会を開いていただき感謝しています」と述べた。後継問題については語らなかった。

 長女で会社員の真理子さん(25)、後援会の高橋猛文幹事長が同行した。

 帯広市内の北海道ホテルで開かれた哀惜の会には、道内外の国会議員、知事、市町村長ら政財界、文化・スポーツ界、一般の支援者ら約4000人が参列。郁子夫人は「こんなに大勢の人に支えていただいたのだと、子供たちと一緒に改めて感謝しました。皆様方には長い間、ありがとうございました」と語った。

 東京の葬儀(8、9日)にも触れ、「一般の人が詰めかけ、最後まで主人に『ありがとうございました』というコールが続いていた。皆さんに愛して、大切にしていただいた」と感謝した。

 生前の中川氏について、「私にとって本当に男らしい男でした。同じ方向を見て歩いて来られたのはありがたいこと」と振り返った。中川氏は都内で9月26日、郁子夫人が代表を務めるNPO法人などが主催団体に入る環境フォーラムで講演。今後の活動について夫婦間で会話したことを明かし、「環境問題について盛り上がって話をした。これから応援してくれるということでうれしかった」と話した。

 今後は中川氏が残した多数の資料の整理、東京、十勝でのあいさつ回りをする予定。「膨大な資料は役人や大学の先生から、貴重な歴史に残っていく資料で、細かいメモでも絶対に捨てないでと言われている」と述べた。

 四十九日法要が終わる11月下旬には再び来勝し、「主人が今回の選挙のお礼をまだ終えていなかったので(私が)続けてごあいさつに回りたい」と強調。一部で取りざたされる後継問題については、「とにかく四十九日まで。哀惜の会まで頑張ろうとやってきた」と語らなかった。
(安田義教)

※高橋猛文幹事長の高の字は異体字です。

十勝毎日新聞 2009年10月18日 13時56分
http://www.tokachi.co.jp/news/200910/20091018-0003053.php

中川昭一氏「哀惜の会」謝辞 中川郁子さん

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
主人と家族四人で十勝に帰ってまいりました。

東京では台風に見舞われた通夜、しかし告別式は台風一過の晴天に恵まれました。

思えば主人と出会って三十余年、ずっと台風の中を手を引かれていたようでした。

が、実は台風というのは多くの雨を降らし肥沃な大地を作ります。

中川には私たち家族によい土地を残してくれたことを感謝します。

(中略)

新たな再挑戦をしようとしていた矢先の死でした。

それだけに返す返すも残念です。


※中途半端な文面ですいません。女性セブン11月5日号からの抜粋です。どうせなら全部載せてくれよ…。
※でもこの女性セブンの記事、ワタクシ的にかなり良かったと思っています。最後の数行を除いて…。