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本読む子 必ず為す有り 2009.8.23 02:32

2009-10-27 | 産経新聞に見る:古典個展
 孫たちを連れて図書館へ行った。幼児の遊び場にキッズルームというのがある。そこの部屋で孫守と相なった。

 いろいろな子が遊んでいるのを観察したが、子どもは無邪気というのは大嘘(うそ)で、邪気の有るのが多い。壁を蹴(け)るは、ボールを知らぬ子に投げつけるは、他者が持っている玩具を奪うは、辺りかまわず奇声をあげるは…である。

 かと思うと、ブロックで美事(みごと)な造形を完成する子や、早くも集団のリーダー的才能を発揮する子や、椅子(いす)に座って一心に本を読んでいる子や…がいる。

 それはすでに大人の世界の縮図となっている。彼らそれぞれの人生のおおよその見取図でもある。

 もちろん、人生は自分で作ってゆくものなので、幼少期の性向が変わることはあるだろう。しかし、そう大きくは変わるまい。本を読む習慣のついた子は、きっと読書好きの人間となることであろう。

 ところが近ごろ、珍妙な説を立てる人がいる。それは、親の年収によって、子の学習水準が比例すると。それを具体的に言えば、東京大学の入学者の親の年収が高いではないか、そういうデータがあるぞ、とのこと。

 愚かな話である。親の年収は高いが、道楽(どら)息子、そこまででなくとも無能な三代目、などという例はいくらでもあるぞ。

 年収の問題ではないのだ。あくまでも環境-知的環境、道徳的環境といったものが大切なのである。その点を見ずに、やたらと物事を金銭に換算して見るしか能のない珍説先生が教育界で発言するのは百害あって…。

 たとい貧しくとも、子が本を読みたいといえば、それに応ずることはできるのだ。なにも親が本を買わずとも、公共図書館や学校図書館があるではないか。ちゃんと貸し出しをしているのである。

 昔はいざ知らず、現代における児童・生徒の親世代で、図書館の意味や機能を知らぬ者はいない。

 ならば、己の子にいくらでも読書をさせることができる物的条件があるのに子に読書の習慣をつけさせることができないのは、年収の問題ではなくて、親自身に問題があるということだ。

 本を読む子は、必ず〈為(な)す有る〉すなわち〈有為〉の人物となる。別に東大に進学しなければならない理由はない。それぞれの人生において、読書とともに生きる一級の歩みとなるではないか。

 五十年前当時の私たち学生はほとんどみな貧しかった。それでも、生活費を削ってでも本を買っては読んだ。学生の年収など吹けば飛ぶようなものであったにもかかわらず、腹を減らしながらも読書していた。

 そのころ、三人で喫茶店に入り、コーヒー一人前を注文したものだ。コップに水は三人分あるので、コーヒーに付いてきたミルクをコップに入れて薄いミルク水を作る。もう一つは砂糖水。つまり、コーヒー、ミルク水、砂糖水を作り、ジャンケンで配当。支払いはコーヒー一杯分を割り勘。それから数時間の文明批評や天下国家論。貧しいながらも、なにも苦痛ではなかった。

 『論語』里仁(りじん)篇に曰(いわ)く「士の道に志(こころざ)すや、悪衣悪食(貧しい服装・食事)を恥ずる者は、未(いま)だ〔同志として〕与(とも)に議するに足らず」と。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/education/090823/edc0908230234001-n1.htm

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