☆ 台風から遠く離れていても遊泳禁止❗;
「土用波」に注意❗;
2019/ 8/9 16:16 ; NHKニュース&スポーツ;
お盆を前に、この週末から、
帰省ラッシュも始まり、
海のレジャーが、 特に盛んになる、
時期を迎えていますが、ことしの海は、
台風による、 影響が出ています。
このうちで、 宮崎県では、
沿岸から、 遠く離れた、 台風の、
9号と10号の影響で、 来週の初めにかけて、
高波に注意が必要で、 遊泳が禁止になる、
海水浴場も出ています。
9日の宮崎県内は、晴れ間も出て、
風も、おだやかですが、 青島海水浴場、
などの、 宮崎市内の3つの海水浴場は、
いずれも、 高波のために、
遊泳が禁止になっています。
気象台によりますと、 東シナ海にある、
大型で、 非常に強い台風な、 9号の影響で、
宮崎県内の沿岸は、 波の高さが、
3メートルから、 4メートルと、 高く、
波浪注意報が発表されています。
はるか沖合にある台風から、 うねりとして、
沿岸に伝わってくる、こうした波は、
『 土用波 』 、 と、 呼ばれます。
『 土用波 』、は、
沖合では、 なだらかに見えますが、
海岸の付近で、 急に高くなる、
のが、 特徴です。
宮崎市では、 8日に、ヨットが転覆し、
乗っていた、 80代の男性が死ぬ、
事故も起きています。
気象台によりますと、 小笠原の近海にある、
大型で、非常に強い台風、な、 10号が、
来週の初めにかけて、北上する、 予想で、
宮崎県内は、 10日からの、
3連休にかけても、 「 土用波 」 、
の、 影響が続く、
と、みられています。
海のレジャーには、 十分に注意し、
安全かどうかを慎重に判断してください。
☆ シナ朝鮮人ら、の、
日本への出入りを禁止すべし❗ ;
豚コレラ、アジアから侵入=
イノシシ 、を介し広がる- 農水省中間報告
2019/ 8/8 ; 時事通信社 ;
家畜への伝染病な、 「 豚 コレラ 」 、
が、 まん延している問題で、
農林水産省は、 8日に、
専門家らで構成する疫学調査チームが、
まとめた、 中間報告を公表した。
報告は、 アジア地域から、
ウイルスが侵入した、
と、結論付けた。
ウイルスは、 野生のイノシシを介し、
養豚場に広がった事例が、大半を占めた。
昨年ほ、 9月 ~ 今年の、 6月に、
岐阜、愛知両県などで確認された、
計して、 28例の、
ウイルスの遺伝子型を調査。
感染した豚から検出された、ウイルスは、
その全てが、 中国で流行している、
型と一致した。
豚コレラ発生のきっかけとなったのが、
アジア地域から、 違法に持ち込まれた、
と、 みられる、
ウイルス入りの肉製品。
不適切に廃棄された、 肉製品を、
野生のイノシシ、が、食べて感染した、
ことにより、まん延した、
可能性が高い❗ 、 とした。
☆ 反日性のある、 アメリカの幹部ら、
と、 シナの幹部ら、とによる、
反日性のある、 密約 ❗、 の存在を、
アメリカ側の当事者が、 暴露❗;
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151111-00081432-diamond-soci
米国を代表する超大物の、
パンダ・ハガー
≒ パンダを抱く人
≒ 『 シナ親派員 』 、だった、
マイケル・ピルズベリーの、最新作の、
【 China 2049 秘密裏に遂行される
『 世界覇権 100年戦略 】 、だ。
この本から、
米中関係の変遷を読み解いて行く。
彼は、今は、 ハドソン研究所の、
中国戦略センターの所長で、
米国防総省の顧問も務めている。
米国の政策に、大きな影響力を持つ、
外交問題評議会、と、国際戦略研究所、
への、 『 面葉 メンバ 』
≒ メンバー 、 でもある。
ピルズベリーは、 24歳の時から、
米国のスパイとして働いてきた
( 40p ) 。
米国の、 「 対中 政策 」 、 に、
40年以上も、深く関わってきた彼は、
驚くべき裏話らを多く披露している。
米中関係が、 劇的に改善されたのは、
1970年代の始めで、 アメリカは、
冷戦のライバルの、ソ連に対抗する為に、
中国と組む。
主導したのは、 ニクソン大統領と、
キッシンジャー大統領補佐官、
と、いわれ、 特に、キッシンジャーは、
「 米中関係を劇的に改善させた功績 」、
により、
「 リアリズム外交の神様 」、
と、評価されている。 :
ピルズベリーは、 20代の半ばだったが、 「 米中和解 」、 に大きく貢献した。
ニック、と、 キッシンジャー、 は、
1969年に、
「 中国と和解した時に、
ソ連との関係が過度に悪化するのでは 」、 と、恐れていた。
彼は、 ソ連人から情報を得、
「 米中が和解しても、ソ連は、
米ソでの緊張を緩和する、
動きを止めない 」 、
事を伝えた人だった。 :
Yahoo❗ ニュース /
ダイヤモンド・オンライン
11月11日 ( 水 ) ; 8時に配信。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20151121/dms1511211000003-n1.htm ギルバート氏:
海外の報道を見ていて、残念だったのは、 複数の有名メディアらが、
IS
≒ 『 過激派 イスラム国 』 、
による、自爆テロを、
「 カミカゼ 」 、と表現した事だ。
大東亜戦争における、
日本軍の神風特別攻撃隊は、 あくまでも、
( 国際法の規定の通りに、合法に ) 、
交戦中の敵軍の空母や戦艦、
などを標的にした。
( 非合法に ) 、 何の関係もない、
一般の市民を狙った、卑怯で、
卑劣な自爆テロとは、完全に性質が違う。
西洋人らの多くが、
日本を理解していない、 証拠、
とも、いえる報道に接し、
今回のテロ事件は、 二重の意味で、
悲しかった。 :
:
@ キリスト教文化圏の人々の一般の、
異質な文明系らへの知的関心性は、
確かに、低い❗ 。
そして、 その、 知的関心性の低さ、は、
知的創造性の低さ、と、重なっている :
@ 一般の市民を虐殺する、
鬼畜米英と戦ったのが、神風特攻隊やし、 立場は、 逆やろ http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/46956654.html
マッカーサー元帥:
「 沖縄では、 大部分が、
特攻機から成る、日本軍の攻撃で、
アメリカ側は、 艦船の沈没が、 36隻に、 破壊が、368隻に、
飛行機の8百機の喪失の害をだした。
これらの数字は、 南太平洋艦隊が、
メルボルンから東京までの間にだした、
米側の損害の総計を超えている 。 :
■ ニミッツ海軍元帥:
「 我が海軍がこうむった損害は、
戦争中の、どの海域よりも、
遥かに大きかった。
沈没が、 30隻、 損傷が、 3百隻以上、
9千人以上が、死に、 行方不明か、
負傷した。 この大損害は、 主として、
日本の航空攻撃、 特に、
特攻による物だった 」。
:
■ 第5艦隊司令官の、スプルーアンス大将: 「 敵軍の自殺航空攻撃の技量と効果に、
艦艇の喪失と被害の割合が、
極めて高いので、
今後の攻撃を阻止するべく、
利用が可能な、あらゆる、
手段を採用すべきだ。
第20航空軍を含む、投入可能な、
全航空機をもって、 九州と沖縄の、
飛行場らへ、実施可能な、
あらゆる攻撃を加える様に、
意見を具申する 」。
@ 日本の場合は、 アメリカは、
日本の本土への侵攻と、
国家としての無条件での降伏、
への、 要求、 とを撤回して、
ポツダム条件を提示し、 :
日本は、 有条件で、降伏をしました。
占領の直後に、 米国は、
『 日本は、無条件降伏をした 』 、
と、宣伝し、 降伏条件に違反して、
A級戦犯を設定する、裁判を行いましたが
≒ C級は、不起訴 、
中国とソ連による悪行らを知るに従い、
日本への、侵略国家との認定を、
事実上、撤回し、
従来の、戦争を終結する方式の通りに、
対日講和会議を行い、
日本との講和条約を結ぶ手続きを経て、
日本は、 国際復帰をしたのです。
日本が、 枢軸国らの中で、 唯一に、
国家無条件降伏を免れたのは、
玉砕や特攻らに加えて、
アジアの各地を含め、 特に、
沖縄戦で、 バアちゃんが、
手榴弾を持って、突入してきたり、 :
カアちゃんが、包丁を握って、
日 本兵と共に突入してきたり、
女子供が、日本兵を助け、
共に戦い、自決したからです。 :
特定日本人らは、
軍の無条件降伏では無く、
国家の無条件降伏、と、
日本国民らへ思い込ませる、
悪宣伝を成し続け、
『 無謀な戦争で、 無駄死にした人々 』、 にして置きたいのでしょうが、
これらな、多くの犠牲者の方々の、
貴い行為らが、
アメリカによる、日本への、
国家、としての、 無条件での、
降伏の要求を撤回させ得たのです❗ :
:
■ 第3艦隊司令長官のハルゼー大将:
「 神風攻撃は、 日本海軍の敗戦、
にも関わらず、
大変に、 面倒な物になった 」 。
:
■ ウェアマイスター海軍中尉:
「 神風は、 アメリカ艦隊ら、
への、 撃滅には、成功しなかったが、
多大な損害を与えた。
在来の戦法では、とても、
こんな成果を上げ得なかったろう。
日本の飛行機に関する数字が正しいなら、
日本が失った飛行機の、 12 % 、 で、
アメリカ側の損傷艦艇の、 約 77 % 、 に、 アメリカ海軍の死傷者中の、
約 8割をやっつけた事になる。
すばらしい戦果、 と、 いえよう。
神風の特攻があった為に、
多くの米高速空母らが張り付けになった、
事も、 大きな成果らの一つだ。
√ もし、神風攻撃らがなかったら、
これらの空母らは、 自由に、
日本の本土の、 基地や工場らを、
破壊し得た筈だ 」 。
:
■ 第38任務部隊司令官のミッチャー中将: 「 神風特攻らを阻止するには、
空母機動部隊群の増強が必要で、
海兵隊の戦闘機隊を、
空母に搭載すべきだ 」 。 :
:
■ マックガン大尉:
護衛空母の、「サン・ガモン」の、
乗組パイロット:
炎上中の特攻機を海中に投棄する、
作業を手伝った、 マックガン氏は、
ずっと後になって、
日本軍パイロットを讃え、
「 わが艦の飛行甲板を突き抜けた、
あの男は、 私より立派だ。
私には、 あんな事はできなかったろう 」、 と語った。 :
■ ボールドウィンズ氏:
アメリカの従軍記者:
「 4月の末になっても、
菊水特攻隊の作戦は、
衰えを観せなかった。
この恐るべき死闘は、
なお、2ヶ月間も続くのだ。
・・4月以降になると、
これ程の艦船らの沈没に、
損傷の危険は、二度と無かった。
5,6月の両月を通じて、
沖縄での戦いは、 徐々に、
爆弾対艦艇の戦闘から、
人対人の、
意志と耐久力の試練に変わっていた。
毎日が、絶え間ない警報の連続だった。
ぶっつづけに、40日間も、
毎日毎日、空襲があった。
その後に、やっと、悪天候のお蔭で、
短期間ながら、ほっと一息を入れられた。 ぐっすり眠る。 これが、
だれもの、憧れになり、 夢となった。
頭は、照準器の上に、いつしか垂れ、
神経は、すりきれ、 誰もが、
怒りっぽくなっていた。
艦長らの眼は、真っ赤になり、
恐ろしい程、面やつれした 」。 :
■ アルバート・カフ氏: UP通信社:
「 神風特攻隊は、確かに、
大きな損害を米軍に与えた。
神風のパイロット達が、
勇敢な人達だった事には、疑いがない。
アメリカ兵らが、 “神風”を恐れ、
怖がった事は、否定できない。
実際、恐慌が起こりかけていた 」 :
■ アンドレ・マルロー仏文化相:
「 日本は、戦に敗れはしたが、
その代わりに、何物にも替え難い、
物を得た。 それは、 世界の、
どんな国も真似のできない特別攻撃隊だ。
権勢欲とか、名誉欲などは、
かけらもなかった。 祖国を憂える、
尊い情熱があるだけだった。
代償を求めない純粋な行為、 そこには、
真の偉大さがあり、 逆上と紙一重の、
ファナチズムとは、根本的に、異質だ。
人間は、 いつでも、偉大さ、への、
志向性を失っては、ならないのだ 」。 :
https://www.facebook.com/JapanToday/posts/1171746319519360
「 フランス・パリで起きた、
テロの惨劇って、「 神風 」 、
と呼ぶべきものなのかな? 」:
テロ事件を受け、自爆テロを、
Kamikaze 、と、表現する、
欧米のメディアが、複数が、あった。
海外の論弁群 :
☆ 呼ぶべきじゃないな。 神風は、
両陣営が、共に、死傷者は、
軍人だったから。 元々、これは、
モンゴル軍による侵攻をを撃退した嵐、 という意味と、
アメリカ海軍に特攻した行為らを指す、
言葉だ。
パリでのテロ事件の死傷者は、
罪のない一般市民だった :
☆ 日本軍は、主に、
軍隊や政府を標的にしてたが、
ISIS 、 は、民間人らばかりを狙って、
軍や政府を狙わない物な。
☆ 違うな。 宗教の為にやった、
訳じゃないから。 日本人達は、
故郷、友、家族を守る為にやったんだ。
奇抜な作戦ではあるが、
宗教による物ではない。 :
☆ カミカゼは、
軍人らを相手になされた行為らだ。
戦争への抑止力であり、
戦争の手段だった。
フランスの連中は、
民間人を相手にした行為だから、
リトルボーイか、ファットマン
≒ 広島や長崎で、国際法に違反して、
非戦闘員の民間人らを殺した、
原子爆弾らへの名 、で、いいよ。
痴愚にふさわしい。
☆ 呼ぶとしたら、
( 原爆を運んだ飛行機の名の ) 、
エノラ・ゲイ 、 とか、 そんな言葉だ。
大勢の民間人らを殺した。
☆ 自爆テロ、と、 カミカゼには、
違いがある。 神風パイロットらや、
多くの日本軍兵士らには、
厳格な名誉の規範があった。
ISIS 、 には、決して理解できない物だ。
テロには、何の誇りもないから、違うね。 カミカゼは、 選択の余地のない、
最終手段だった。
☆ 日本は、 総兵力の、
2割 、を失った段階で、
地面を、 数 メートル 、 を、
えぐるのが、 精々な、
原子爆弾らを落とされて、
降伏してしまう、 という、
不思議な降伏を成してしまってある、
が、
地下に連絡網らを成し、
日本軍の将兵らからの軍事訓練を、
宛てられ得てもいた、
ベトナム 、は、
アメリカ軍を撃退し得てあり、
より、 きちんと、
地下に避難網らを成し、
日本へ上陸する、 敵軍の、
外国人らへ対しては、
自らの側の人々へ、 疫賃 ヤクチン
≒ ワクチン 、らを投与しつつ、
伝染病ら、を、宛て成して、
敵の本拠地の者らへまで、
病らが波及し得るようにもし、
あくまでも、 日本の、 より、深くに、
連携網らを茂り深め得てゆくように、
すべきだった。
日本人たちの足元の地下に、
避難網らが必要である事は、
今もって、 変わりが、無く、
より、 早くから、
作り拡げられるべき、 地下の避難網ら、
が、 単なる、 一時的な、
間に合わせの、 防空壕 、 らに、
労力らを割かれるばかりで、
より、 本格的であるべき物として、
こしらえ出されなかった事は、
極めて、惜しい事だ❗。
石油を差し止められて、
戦艦ら、を、より、 動かせなくなっても、
よいように、
日本を要塞化する度合いを深める、
事を、 第一に、成して、
海外で、 敗退し始めたならば、
できる限り、 海外で戦う、
日本人たちを本国へ呼び戻して、
日本に籠城し続ける為の、
状況らを作る事に当たらせ、
その家族員らと共に、 働き合い、
助け合って行けるようにすべきだった。
政府機関の誰彼が、 降伏しても、
武装の解除に応じずに、
武装したままで、 敵らへ相対し続ける、
べき事を、 皆で、 申し合わせて置くべき、
でもあった。
☆ フランスのメディアは、常に、
自爆テロを、カミカゼと表現するので、
本当に、悩ましい :
☆ なぜ、 合法な戦争行為と、
無法な、テロ行為を比べる :
☆ テロ犯は、日本人じゃないし、
神風は、日本独自の物だ。
テロ事件は、テロ事件のままで、いい :
☆ 日本の良いパイロットらが、
戦争時に、いなくなっていた。
並技術のパイロットらもいた。 が、
その多くも、任務から、ほとんどが、
帰って来れなかった。
パイロットらの死亡率が多すぎる為に、
現場のパイロットらが、まず、
言い始めた事を受けて
≒ 海軍の将校らの中には、
若者に、 そんな、凄惨な死を求める位なら、
降伏すべきだ、 という意味の事を言明して、
反対した人も居たが 、
より、 効果的である、
自爆攻撃を行う作戦を成す様になった。 :
☆ イギリス: アメリカ側の戦略は、
出来る限り、日本の民間人らを殺していた。
日本の戦略は、
アメリカ戦艦らと戦う事が多く、
出来る限り、 兵らと戦っていた。
神風は、 アメリカの作戦より、
遥かに男らしい、 立派な行為だった。 :
@ 仲間らが、戦果を上げ得ない状態で、
戦死だけしてしまう状況にあって、
現場の航空士らから、
自らの死を無駄にしない為に、と、
確実に、戦果を得る方法としての、
自爆攻撃を成す為の、
装備や段取りをして貰える様に、
求める声が上がり、
大西瀧治郎中将は、 航空士らが、
戦果を得ずに、戦死してゆくがままにするか、 彼らの言う通りに、確実に、
戦果を得られる段取りをするか、への、
決断を迫られた。
終戦の翌日の、 1945年である、
昭和20年、の、 8月16日、の、
午前2時45分に、 中将は、自刃し、
腹を、十文字にかき切り、 返す刀で、
首と胸を刺しながら、 なお、
数時間は、生きていた。
従者が、 軍医を呼んだが、
「 生きる様には、してくれるな 」 、
と、頼んだ。
駆けつけた部下には、
「 介錯 不要 」 、と言った。
「 できるだけ永く苦しんで死ぬのだ 」。
その遺書には、 そう書いてあった。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140629/trd14062911410004-n1.htm
☆ ・・選抜で、「 望 」、 としながら、
前線の実施部隊に派遣されなかった、
事を疑問に感じていたが、
特攻隊として、 前線に配属されたのは、
「 熱望 」、 と答えた者だった事を、
戦後に知った。 実際に、 特攻隊として、 南の空に散った同期生は、 いずれも、
「 熱望 」 、と、答えていた。
20人がいた、同じ班で、
「 熱望 」、と書いた、3人は、
出撃したが、 3人とも、
飛行機の故障などで、生還した。
大多数が、「 望 」、 と回答した中で、
否 、と回答した人は、
その理由を将校から聞かれ、
「 故郷の村で、
唯一の大学卒業生なので、
生きて帰りたい 」、 と伝え、
容認され、罰を受ける事は、なかった。
:
@ 特攻を断った人々の中に、
芙蓉部隊を率いた、美濃部正氏がいるが、 :
1945年2月17日の出撃で、 美濃部氏は、
部下に特攻を指示し、
別れの盃を交わしてもいる。
本土に来襲する、
アメリカの機動部隊に対して用意された、
「 未明に索敵機が、空母を発見したら、 位置を通報した後に、 飛行甲板に、
体当たりして、発艦を不能とし、
その攻撃力を奪う。
その後の夜明け時に、
索敵機の知らせた地点へ到着した、
第2波以降が、通常攻撃を反復する 」、
戦法だった。 :
鞭杲則少尉の記憶では、
「 空母を見つけたら、
飛行甲板に滑り込め 」、 との命令で、
搭載機への破壊や、 突入による火災で、
位置を知らせる、戦法だった。
どちらにしろ、必死の特攻を前提とした、
戦法だったが、 この時には、
敵が見つからなかった為に、
特攻は、無かった。
特攻部隊で、 消耗があり、
同じ彗星装備の芙蓉部隊が、
第2御盾特別攻撃隊の名で、
特攻への配置になる、 との、
噂が流れたが、 美濃部氏は、
「 うちの隊から、特攻は出さない。
夜間作戦が出来る人が、少ないので、
後がなくなる 」、と、否定しても居り、
司令部の参謀が、
「 必死尽忠の士の進撃を、
何者が、 是をさえぎるか、
第一線の少壮士官が、何を言う 」、
と、叱責した時には、 美濃部氏は、
指揮官や幕僚が、自ら、
突入しようとしない事と、
√ 彼らが、ろくに、
空中戦を経験していない事を非難し、
「 現場の兵士は、
誰も、死を恐れていません。
ただ、指揮官には、死に場所に相応しい、 戦果を与える義務があります。
練習機で特攻しても、 十重二十重と、
待ち受ける、グラマンに撃墜され、
戦果をあげる事が出来ない事は、
明白です。
白菊や練習機による、
特攻を推進なさるなら、
ここにいらっしゃる方々が、
それに乗って、
攻撃してみるといいでしょう。
私が、零戦一機で、全部、
撃ち落として見せます 」 、と言った。
この反対論を述べた行為は、
軍法会議に掛けられて、 美濃部氏が、
死刑に処せられる事も、
在り得る行為だった。
:
美濃部氏は、1944年の5月24日に、
302空に着任し、 零戦・月光装備の、
第二飛行機隊長に任命された。
小園安名司令の理解が得られ、
美濃部氏は、
夜襲部隊の再建へ取り掛かった。
その攻撃方法は、 索敵隊による、
敵艦隊への発見の後に、攻撃隊である、
銃撃隊や、爆撃隊が発進し、
敵空母から、艦載機らが発進する前に、
奇襲する、構想による物だった。
7月4日、5日に、 硫黄島へ来襲した、
アメリカの機動部隊を攻撃すべく、
基地から出たが、 空振りに終わり、
悪天候のせいで、 損害も出した。
1944年の7月10日に、
153空戦闘901飛行隊長になり、
9月から、フィリピン方面に進出し、
敵機動部隊に攻撃を始めた。
戦果が上がらないまま、損害が続出し、
パイロットらも、当初の1/3になるまで、
消耗した。
フィリピンで、特攻が開始された際には、 夜襲を説いて、 特攻に参加しない事を、
大西瀧治郎中将から容認された。 :
この話し合いの際に、
「 生還率ゼロの命令をだす権利は、
指揮官と言えども、 持っていない 」、
「 この世で、 罪人以外は、
自らの命を、他人に命じられて失う事は、 おかしい 」 、
と、 大西中将に語り、 やがて、彼は、
「 こんな、むごい戦争があるか 」、
と、 声を荒らげて応じた、 という。
1945年の3月5日に、
131空飛行長になった。
第5航空艦隊司令長官の宇垣中将は、
『 戦藻録 』; 1945年7月29日の項に、
美濃部氏について、
「 活躍は、目覚しきもの 」 、
と、記述している。
√ 戦争の末期に、 美濃部氏は、
人種差別性を露わにしていた、
アメリカの白人ら等による、
日本国民ら、への、
強姦と虐殺の限りが尽くされる事が、
それまでの、 国際法に、全く違反した、
民間人らや民間船ら、への、
アメリカ軍の将兵らによる攻撃らと、
占領地域らでの、非戦闘員への、
強姦と騙し討ち、 等の累積からも、
合理的に予想し得た、 決号作戦
≒ 本土決戦 、に備えて、
特攻による、最終出撃に加わる、
24機分の編成表を作り上げた。 :
搭乗割には、主立った士官に、准士官や、 夜襲に熟練した、下士官と、
兵搭乗員らの名を書きこみ、
空中指揮は、
美濃部氏自らがとる事にした。
この特攻は、 「 敵は、 上陸前に、
必ず、機動部隊の猛攻を加えてくる。
まず、 爆装の索敵攻撃隊を出して、
敵艦隊を捕捉する。 その通報を受けて、 やはり、爆装の攻撃隊が発進し、
爆弾を、海面でスキップさせて、
敵艦の舷側にぶつける、
肉薄の反跳爆撃を敢行した後に、
全弾を撃ち尽くして、艦艇へ突入する。
空母がいて、 甲板上に、
飛行機らが並んでいれば、
滑りこんで、 誘爆で破壊する 」。
「 基地に残った地上員らからも、
決死隊を選択し、穴を掘って、
爆弾と共に入る。
敵の陸上部隊が迫ってきたら、
残った施設らに火を放ち、
敵を安心させて、 呼び込めた所で、
穴の中の決死隊が、 各自、
爆弾の信管を叩いて大爆発を起こし、
戦車や、歩兵らをまきぞえにする。
その他の大多数の若い隊員らは、
基地を離れて、一般市民にまぎれこみ、
自分で運命を切り開いていく 」、
作戦だった。 :
1945年の8月15日に、戦が終わった。
美濃部氏をはじめ、 芙蓉部隊は、
終戦に納得しなかったが、
艦隊司令部で、 美濃部氏は、
井上成美大将になだめられ、
部下を説得する様に言われた。
彼は、 基地に帰ると、 隊員らへ、
部隊は、陛下の物だ、と説得し、
「 詔勅が出た以上、 私に、
部隊の指揮を取る資格は、ない。
納得できなければ、 私を斬ってから、
出撃せよ 」、と、言って、おさめた。
その後で、 美濃部氏は、
「 日本もまた、 いつか、
復興する事もあるかもしれない。
その時はまた、ここで会おう 」、
と、訓示し、 隊員たちへ、
部隊の飛行機を用いて、
復員する事を許可した。
√ この、飛行機による復員行為の件で、
美濃部氏は、後に、
国際法への違反の嫌疑を掛けられたが、
「 全ての武装を撤去した上での、
復員であった 」 、 と、 釈明し、
不問となっている。 :
@ 戦闘力を民間に残し、
アメリカ人らが、無茶をやり出したら、
少しでも反撃し得る物と、
技術知識的な手掛かりらを、
日本人側に保持させたかった、
無意識的な思い、 等も、
あったのではないかな。
:
√ 戦後は、しばらく、
農業に従事していたが、 1953年に、
航空自衛隊に入る。
西空防衛部長、をやり、
空幕運用課長、になり、
統幕学校教育課長、を務め、
第12飛行教育団の司令になった。
1966年の7月16日に、 輸送航空団司令、
兼、 美保基地司令、になった。
1969年の4月1日に、 航空自衛隊の、
幹部候補生学校長になり、
幹候校への襲撃を企てた、
新左翼の過激派学生団と対峙したが、
幹候校にいる、警務隊員や、
基地警備隊が飼っていた警備犬と、
放水銃の展示による威嚇のみで、
退散させ、
事件の発生を未然に抑止している。
1970年の6月30日に、体調不良で、
依願退職し、空将で退官した。
退職後は、 日本電装学園長、となる。 1997年に病没 :
@ 美濃部氏は、 特攻について、
「 戦後、よく、
特攻戦法を批判する人がいるが、
それは、 戦いの勝ち負けを度外視した、
戦後の迎合的統率理念にすぎない。
当時の軍籍に身を置いた者にとって、
負けてよい戦法は、論外だ。
不可能を可能とすべき代案なき限り、
特攻も又、やむをえない、
と、今でも思う。 戦いの厳しさは、
ヒューマニズムで批判できる程、
生易しい物ではない 」、
と、語っている。 :
:
@ 1944年の十月の末に、
第2航空艦隊で行われた、
第2神風特別攻撃隊、への、
志願者の募集の際に、
岩本徹三氏は、
「 我々、戦闘機乗りは、 どこまでも、
戦い抜き、 敵を一機でも、多く、
叩き落としていくのが、任務だ。
一度きりの体当たりで、死んでたまるか。 俺は、否だ 」 、と言って、
志願しなかった。
特攻に関して、 彼は、
「 この戦法が、全軍に伝わると、
我が軍の士気は、目に見えて、
衰えてきた。 神ならぬ身、
生きる道あってこそ、
兵の士気は、 上がる。
命ある限り戦ってこそ、
戦闘機乗りです、
「 こうまでして、
下り坂の戦争をやる必要があるのか?、
勝算のない上層部の、
やぶれかぶれの最後のあがき、
としか、思えなかった 」、
と、回想している。 :
その回想録にある。
近接護衛戦闘機として、
数十機の特攻機の突入を目の当たりにし、
数刻前まで、共に存在していた、
人々が消えた事に、
「 髪の毛が逆立つ思いであった 」、
「 せめて、彼らの最後と、その戦果を、
詳細に見届けておこうと、 私は、
何時までも、上空を旋回していた 」。
戦争末期の飛行機の搭乗員らについて、
「 訓練しては、前線に送り、
一作戦で全滅させて、 又もや、
訓練の繰り返しだ。
実戦に役立つ戦力に達するには、程遠い。 しかし、 前線では、
搭乗員が不足しているのだ 」 、
と、 述べている。
1944年の11月1日に、
海軍少尉になり、 その月に、
第252海軍航空隊の、
戦闘311飛行隊に属した。
1945年の、 昭和20年、の、
3月の末に、
203空戦闘303飛行隊に属する前の、
その年の、2月16日に、
関東地区迎撃戦に参加し、
沖縄戦を始めた、
アメリカ軍の上陸地点を最初に確認した、
夜間の、単機での、 強行偵察をなした。
@ 「 岩本少尉は、 救命胴衣の背面に、
通常は、所属部隊と、姓名に、
官職とを書く所を、 「 零戦虎徹 」
≒ 「 虎徹 」、 の二文字は、
新選組の局長の近藤勇氏の佩刀、
としても、 有名な刀の、
長曾彌虎徹興里になぞらえた物 、
「 天下の浪人 」 、等と大書していた。
この「天下の浪人虎徹」の文字は、
よく目立ち、 名を聞かずとも、
岩本少尉のだと、すぐ判った。
岩本少尉の普段は、
田舎のじいさんの様な格好をしていたが、 一旦、車輪をしまって飛び上がれば、
向かう所に、敵なしで、
大抵、撃墜して帰ってきた 」。
・・岩本氏の活躍は、 郷里の益田にも、
報道映画を通して知られ、 彼が搭乗した、
ゼロ戦のプロペラが、
益田小学校に展示された。
この頃に、 ニュース映画を見て、
「 益田の岩本さん 」、 を知った、
ある女学生が、 戦後に、彼と、
お見合いで知り合い、岩本夫人となった。
当時のラバウルは、 マッカーサーの、
南西太平洋方面軍の、フィリピン、
への、 進路にあり、 アメリカ陸海軍が、
圧倒的な戦力で、重点的に、
攻撃を集中していた。
岩本氏は、1943年12月4日に、
ラバウルで邀撃後に、多くの、
日本軍戦闘機らを撃墜した、
アメリカ軍機らの、基地、 への、
帰還の時を狙って、 待ち伏せ攻撃で、
彼らを撃墜し、 「 送り狼 」 、
と、 呼ばれる戦法を成し行った。
岩本氏は、 「 敵が来る時は、
退いて、敵の引き際に落とす。
つまり、上空で待機してて、
離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜する。
すでに、里心のついた敵は、
反撃の意思がないから、楽に落とせる。
1回の空戦で、5機まで、
落とした事がある 」。
西沢氏は、 「 岩本さん、そりゃ、
ずるいよ。 私らが、一生懸命、
ぐるぐる回りながらやっているのを、
見物してるなんて
≒ 岩本氏は、
1943年の11月に、
ラバウルに着任し、 西沢氏は、
43年10月に、内地へ帰還しているので、
実際に、 ラバウルで、
そういう場面があった訳ではない ) 。
途中で帰る奴なんか、被弾したか、
臆病風に吹かれた奴でしょう。
それでは、( 他機との )、
協同撃墜じゃないですか 」、と言った。
「 でも、俺が落とさなくちゃ、
奴ら、基地まで帰るだろ? 、
しかし、 いつも、 こうしてばかりも、
いられない。 敵が多すぎて、
勝ち目の無い時は、 目を瞑 ツム って、
真正面から、機銃を撃ちっぱなしにして、
操縦桿をぐりぐり回しながら、
突っ込んで、 離脱する時もあるよ 」 、
と言った、 という。 :
この夜から、 一ヶ月も経たない内に、
西沢氏は、輸送機に便乗して、
移動している最中に、
ミンドロ島のそばで殺され、
尾関氏は、ルソン島の上空で、戦死し、
斎藤氏は、負傷し、 長田氏は、
翌年に、沖縄の沖で、戦死した。
岩本氏は、 「 我々には、伊達に、
特務の2字がついているんじゃない。
日露戦争の杉野兵曹長の昔から、
兵学校出の士官にもできない、
下士官にもできない事をするのが、
我々、特准だ。 がんばろうぜ❗ 」。
この時に、謹慎中の角田を励ました。
岩本氏に指導を受けた後輩の印象では、 「 西沢広義飛曹長は、長身で、
目つきが鋭くて、眉も太い、
精悍な顔つきから、 成る程、 あれが、
撃墜数、 百50機の撃墜王だと感じた。
小柄で、優しい風貌の岩本少尉には、
どこに、その様な力があるのか、
と、 感じた 」 、
と、 述懐している。
「土用波」に注意❗;
2019/ 8/9 16:16 ; NHKニュース&スポーツ;
お盆を前に、この週末から、
帰省ラッシュも始まり、
海のレジャーが、 特に盛んになる、
時期を迎えていますが、ことしの海は、
台風による、 影響が出ています。
このうちで、 宮崎県では、
沿岸から、 遠く離れた、 台風の、
9号と10号の影響で、 来週の初めにかけて、
高波に注意が必要で、 遊泳が禁止になる、
海水浴場も出ています。
9日の宮崎県内は、晴れ間も出て、
風も、おだやかですが、 青島海水浴場、
などの、 宮崎市内の3つの海水浴場は、
いずれも、 高波のために、
遊泳が禁止になっています。
気象台によりますと、 東シナ海にある、
大型で、 非常に強い台風な、 9号の影響で、
宮崎県内の沿岸は、 波の高さが、
3メートルから、 4メートルと、 高く、
波浪注意報が発表されています。
はるか沖合にある台風から、 うねりとして、
沿岸に伝わってくる、こうした波は、
『 土用波 』 、 と、 呼ばれます。
『 土用波 』、は、
沖合では、 なだらかに見えますが、
海岸の付近で、 急に高くなる、
のが、 特徴です。
宮崎市では、 8日に、ヨットが転覆し、
乗っていた、 80代の男性が死ぬ、
事故も起きています。
気象台によりますと、 小笠原の近海にある、
大型で、非常に強い台風、な、 10号が、
来週の初めにかけて、北上する、 予想で、
宮崎県内は、 10日からの、
3連休にかけても、 「 土用波 」 、
の、 影響が続く、
と、みられています。
海のレジャーには、 十分に注意し、
安全かどうかを慎重に判断してください。
☆ シナ朝鮮人ら、の、
日本への出入りを禁止すべし❗ ;
豚コレラ、アジアから侵入=
イノシシ 、を介し広がる- 農水省中間報告
2019/ 8/8 ; 時事通信社 ;
家畜への伝染病な、 「 豚 コレラ 」 、
が、 まん延している問題で、
農林水産省は、 8日に、
専門家らで構成する疫学調査チームが、
まとめた、 中間報告を公表した。
報告は、 アジア地域から、
ウイルスが侵入した、
と、結論付けた。
ウイルスは、 野生のイノシシを介し、
養豚場に広がった事例が、大半を占めた。
昨年ほ、 9月 ~ 今年の、 6月に、
岐阜、愛知両県などで確認された、
計して、 28例の、
ウイルスの遺伝子型を調査。
感染した豚から検出された、ウイルスは、
その全てが、 中国で流行している、
型と一致した。
豚コレラ発生のきっかけとなったのが、
アジア地域から、 違法に持ち込まれた、
と、 みられる、
ウイルス入りの肉製品。
不適切に廃棄された、 肉製品を、
野生のイノシシ、が、食べて感染した、
ことにより、まん延した、
可能性が高い❗ 、 とした。
☆ 反日性のある、 アメリカの幹部ら、
と、 シナの幹部ら、とによる、
反日性のある、 密約 ❗、 の存在を、
アメリカ側の当事者が、 暴露❗;
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151111-00081432-diamond-soci
米国を代表する超大物の、
パンダ・ハガー
≒ パンダを抱く人
≒ 『 シナ親派員 』 、だった、
マイケル・ピルズベリーの、最新作の、
【 China 2049 秘密裏に遂行される
『 世界覇権 100年戦略 】 、だ。
この本から、
米中関係の変遷を読み解いて行く。
彼は、今は、 ハドソン研究所の、
中国戦略センターの所長で、
米国防総省の顧問も務めている。
米国の政策に、大きな影響力を持つ、
外交問題評議会、と、国際戦略研究所、
への、 『 面葉 メンバ 』
≒ メンバー 、 でもある。
ピルズベリーは、 24歳の時から、
米国のスパイとして働いてきた
( 40p ) 。
米国の、 「 対中 政策 」 、 に、
40年以上も、深く関わってきた彼は、
驚くべき裏話らを多く披露している。
米中関係が、 劇的に改善されたのは、
1970年代の始めで、 アメリカは、
冷戦のライバルの、ソ連に対抗する為に、
中国と組む。
主導したのは、 ニクソン大統領と、
キッシンジャー大統領補佐官、
と、いわれ、 特に、キッシンジャーは、
「 米中関係を劇的に改善させた功績 」、
により、
「 リアリズム外交の神様 」、
と、評価されている。 :
ピルズベリーは、 20代の半ばだったが、 「 米中和解 」、 に大きく貢献した。
ニック、と、 キッシンジャー、 は、
1969年に、
「 中国と和解した時に、
ソ連との関係が過度に悪化するのでは 」、 と、恐れていた。
彼は、 ソ連人から情報を得、
「 米中が和解しても、ソ連は、
米ソでの緊張を緩和する、
動きを止めない 」 、
事を伝えた人だった。 :
Yahoo❗ ニュース /
ダイヤモンド・オンライン
11月11日 ( 水 ) ; 8時に配信。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20151121/dms1511211000003-n1.htm ギルバート氏:
海外の報道を見ていて、残念だったのは、 複数の有名メディアらが、
IS
≒ 『 過激派 イスラム国 』 、
による、自爆テロを、
「 カミカゼ 」 、と表現した事だ。
大東亜戦争における、
日本軍の神風特別攻撃隊は、 あくまでも、
( 国際法の規定の通りに、合法に ) 、
交戦中の敵軍の空母や戦艦、
などを標的にした。
( 非合法に ) 、 何の関係もない、
一般の市民を狙った、卑怯で、
卑劣な自爆テロとは、完全に性質が違う。
西洋人らの多くが、
日本を理解していない、 証拠、
とも、いえる報道に接し、
今回のテロ事件は、 二重の意味で、
悲しかった。 :
:
@ キリスト教文化圏の人々の一般の、
異質な文明系らへの知的関心性は、
確かに、低い❗ 。
そして、 その、 知的関心性の低さ、は、
知的創造性の低さ、と、重なっている :
@ 一般の市民を虐殺する、
鬼畜米英と戦ったのが、神風特攻隊やし、 立場は、 逆やろ http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/46956654.html
マッカーサー元帥:
「 沖縄では、 大部分が、
特攻機から成る、日本軍の攻撃で、
アメリカ側は、 艦船の沈没が、 36隻に、 破壊が、368隻に、
飛行機の8百機の喪失の害をだした。
これらの数字は、 南太平洋艦隊が、
メルボルンから東京までの間にだした、
米側の損害の総計を超えている 。 :
■ ニミッツ海軍元帥:
「 我が海軍がこうむった損害は、
戦争中の、どの海域よりも、
遥かに大きかった。
沈没が、 30隻、 損傷が、 3百隻以上、
9千人以上が、死に、 行方不明か、
負傷した。 この大損害は、 主として、
日本の航空攻撃、 特に、
特攻による物だった 」。
:
■ 第5艦隊司令官の、スプルーアンス大将: 「 敵軍の自殺航空攻撃の技量と効果に、
艦艇の喪失と被害の割合が、
極めて高いので、
今後の攻撃を阻止するべく、
利用が可能な、あらゆる、
手段を採用すべきだ。
第20航空軍を含む、投入可能な、
全航空機をもって、 九州と沖縄の、
飛行場らへ、実施可能な、
あらゆる攻撃を加える様に、
意見を具申する 」。
@ 日本の場合は、 アメリカは、
日本の本土への侵攻と、
国家としての無条件での降伏、
への、 要求、 とを撤回して、
ポツダム条件を提示し、 :
日本は、 有条件で、降伏をしました。
占領の直後に、 米国は、
『 日本は、無条件降伏をした 』 、
と、宣伝し、 降伏条件に違反して、
A級戦犯を設定する、裁判を行いましたが
≒ C級は、不起訴 、
中国とソ連による悪行らを知るに従い、
日本への、侵略国家との認定を、
事実上、撤回し、
従来の、戦争を終結する方式の通りに、
対日講和会議を行い、
日本との講和条約を結ぶ手続きを経て、
日本は、 国際復帰をしたのです。
日本が、 枢軸国らの中で、 唯一に、
国家無条件降伏を免れたのは、
玉砕や特攻らに加えて、
アジアの各地を含め、 特に、
沖縄戦で、 バアちゃんが、
手榴弾を持って、突入してきたり、 :
カアちゃんが、包丁を握って、
日 本兵と共に突入してきたり、
女子供が、日本兵を助け、
共に戦い、自決したからです。 :
特定日本人らは、
軍の無条件降伏では無く、
国家の無条件降伏、と、
日本国民らへ思い込ませる、
悪宣伝を成し続け、
『 無謀な戦争で、 無駄死にした人々 』、 にして置きたいのでしょうが、
これらな、多くの犠牲者の方々の、
貴い行為らが、
アメリカによる、日本への、
国家、としての、 無条件での、
降伏の要求を撤回させ得たのです❗ :
:
■ 第3艦隊司令長官のハルゼー大将:
「 神風攻撃は、 日本海軍の敗戦、
にも関わらず、
大変に、 面倒な物になった 」 。
:
■ ウェアマイスター海軍中尉:
「 神風は、 アメリカ艦隊ら、
への、 撃滅には、成功しなかったが、
多大な損害を与えた。
在来の戦法では、とても、
こんな成果を上げ得なかったろう。
日本の飛行機に関する数字が正しいなら、
日本が失った飛行機の、 12 % 、 で、
アメリカ側の損傷艦艇の、 約 77 % 、 に、 アメリカ海軍の死傷者中の、
約 8割をやっつけた事になる。
すばらしい戦果、 と、 いえよう。
神風の特攻があった為に、
多くの米高速空母らが張り付けになった、
事も、 大きな成果らの一つだ。
√ もし、神風攻撃らがなかったら、
これらの空母らは、 自由に、
日本の本土の、 基地や工場らを、
破壊し得た筈だ 」 。
:
■ 第38任務部隊司令官のミッチャー中将: 「 神風特攻らを阻止するには、
空母機動部隊群の増強が必要で、
海兵隊の戦闘機隊を、
空母に搭載すべきだ 」 。 :
:
■ マックガン大尉:
護衛空母の、「サン・ガモン」の、
乗組パイロット:
炎上中の特攻機を海中に投棄する、
作業を手伝った、 マックガン氏は、
ずっと後になって、
日本軍パイロットを讃え、
「 わが艦の飛行甲板を突き抜けた、
あの男は、 私より立派だ。
私には、 あんな事はできなかったろう 」、 と語った。 :
■ ボールドウィンズ氏:
アメリカの従軍記者:
「 4月の末になっても、
菊水特攻隊の作戦は、
衰えを観せなかった。
この恐るべき死闘は、
なお、2ヶ月間も続くのだ。
・・4月以降になると、
これ程の艦船らの沈没に、
損傷の危険は、二度と無かった。
5,6月の両月を通じて、
沖縄での戦いは、 徐々に、
爆弾対艦艇の戦闘から、
人対人の、
意志と耐久力の試練に変わっていた。
毎日が、絶え間ない警報の連続だった。
ぶっつづけに、40日間も、
毎日毎日、空襲があった。
その後に、やっと、悪天候のお蔭で、
短期間ながら、ほっと一息を入れられた。 ぐっすり眠る。 これが、
だれもの、憧れになり、 夢となった。
頭は、照準器の上に、いつしか垂れ、
神経は、すりきれ、 誰もが、
怒りっぽくなっていた。
艦長らの眼は、真っ赤になり、
恐ろしい程、面やつれした 」。 :
■ アルバート・カフ氏: UP通信社:
「 神風特攻隊は、確かに、
大きな損害を米軍に与えた。
神風のパイロット達が、
勇敢な人達だった事には、疑いがない。
アメリカ兵らが、 “神風”を恐れ、
怖がった事は、否定できない。
実際、恐慌が起こりかけていた 」 :
■ アンドレ・マルロー仏文化相:
「 日本は、戦に敗れはしたが、
その代わりに、何物にも替え難い、
物を得た。 それは、 世界の、
どんな国も真似のできない特別攻撃隊だ。
権勢欲とか、名誉欲などは、
かけらもなかった。 祖国を憂える、
尊い情熱があるだけだった。
代償を求めない純粋な行為、 そこには、
真の偉大さがあり、 逆上と紙一重の、
ファナチズムとは、根本的に、異質だ。
人間は、 いつでも、偉大さ、への、
志向性を失っては、ならないのだ 」。 :
https://www.facebook.com/JapanToday/posts/1171746319519360
「 フランス・パリで起きた、
テロの惨劇って、「 神風 」 、
と呼ぶべきものなのかな? 」:
テロ事件を受け、自爆テロを、
Kamikaze 、と、表現する、
欧米のメディアが、複数が、あった。
海外の論弁群 :
☆ 呼ぶべきじゃないな。 神風は、
両陣営が、共に、死傷者は、
軍人だったから。 元々、これは、
モンゴル軍による侵攻をを撃退した嵐、 という意味と、
アメリカ海軍に特攻した行為らを指す、
言葉だ。
パリでのテロ事件の死傷者は、
罪のない一般市民だった :
☆ 日本軍は、主に、
軍隊や政府を標的にしてたが、
ISIS 、 は、民間人らばかりを狙って、
軍や政府を狙わない物な。
☆ 違うな。 宗教の為にやった、
訳じゃないから。 日本人達は、
故郷、友、家族を守る為にやったんだ。
奇抜な作戦ではあるが、
宗教による物ではない。 :
☆ カミカゼは、
軍人らを相手になされた行為らだ。
戦争への抑止力であり、
戦争の手段だった。
フランスの連中は、
民間人を相手にした行為だから、
リトルボーイか、ファットマン
≒ 広島や長崎で、国際法に違反して、
非戦闘員の民間人らを殺した、
原子爆弾らへの名 、で、いいよ。
痴愚にふさわしい。
☆ 呼ぶとしたら、
( 原爆を運んだ飛行機の名の ) 、
エノラ・ゲイ 、 とか、 そんな言葉だ。
大勢の民間人らを殺した。
☆ 自爆テロ、と、 カミカゼには、
違いがある。 神風パイロットらや、
多くの日本軍兵士らには、
厳格な名誉の規範があった。
ISIS 、 には、決して理解できない物だ。
テロには、何の誇りもないから、違うね。 カミカゼは、 選択の余地のない、
最終手段だった。
☆ 日本は、 総兵力の、
2割 、を失った段階で、
地面を、 数 メートル 、 を、
えぐるのが、 精々な、
原子爆弾らを落とされて、
降伏してしまう、 という、
不思議な降伏を成してしまってある、
が、
地下に連絡網らを成し、
日本軍の将兵らからの軍事訓練を、
宛てられ得てもいた、
ベトナム 、は、
アメリカ軍を撃退し得てあり、
より、 きちんと、
地下に避難網らを成し、
日本へ上陸する、 敵軍の、
外国人らへ対しては、
自らの側の人々へ、 疫賃 ヤクチン
≒ ワクチン 、らを投与しつつ、
伝染病ら、を、宛て成して、
敵の本拠地の者らへまで、
病らが波及し得るようにもし、
あくまでも、 日本の、 より、深くに、
連携網らを茂り深め得てゆくように、
すべきだった。
日本人たちの足元の地下に、
避難網らが必要である事は、
今もって、 変わりが、無く、
より、 早くから、
作り拡げられるべき、 地下の避難網ら、
が、 単なる、 一時的な、
間に合わせの、 防空壕 、 らに、
労力らを割かれるばかりで、
より、 本格的であるべき物として、
こしらえ出されなかった事は、
極めて、惜しい事だ❗。
石油を差し止められて、
戦艦ら、を、より、 動かせなくなっても、
よいように、
日本を要塞化する度合いを深める、
事を、 第一に、成して、
海外で、 敗退し始めたならば、
できる限り、 海外で戦う、
日本人たちを本国へ呼び戻して、
日本に籠城し続ける為の、
状況らを作る事に当たらせ、
その家族員らと共に、 働き合い、
助け合って行けるようにすべきだった。
政府機関の誰彼が、 降伏しても、
武装の解除に応じずに、
武装したままで、 敵らへ相対し続ける、
べき事を、 皆で、 申し合わせて置くべき、
でもあった。
☆ フランスのメディアは、常に、
自爆テロを、カミカゼと表現するので、
本当に、悩ましい :
☆ なぜ、 合法な戦争行為と、
無法な、テロ行為を比べる :
☆ テロ犯は、日本人じゃないし、
神風は、日本独自の物だ。
テロ事件は、テロ事件のままで、いい :
☆ 日本の良いパイロットらが、
戦争時に、いなくなっていた。
並技術のパイロットらもいた。 が、
その多くも、任務から、ほとんどが、
帰って来れなかった。
パイロットらの死亡率が多すぎる為に、
現場のパイロットらが、まず、
言い始めた事を受けて
≒ 海軍の将校らの中には、
若者に、 そんな、凄惨な死を求める位なら、
降伏すべきだ、 という意味の事を言明して、
反対した人も居たが 、
より、 効果的である、
自爆攻撃を行う作戦を成す様になった。 :
☆ イギリス: アメリカ側の戦略は、
出来る限り、日本の民間人らを殺していた。
日本の戦略は、
アメリカ戦艦らと戦う事が多く、
出来る限り、 兵らと戦っていた。
神風は、 アメリカの作戦より、
遥かに男らしい、 立派な行為だった。 :
@ 仲間らが、戦果を上げ得ない状態で、
戦死だけしてしまう状況にあって、
現場の航空士らから、
自らの死を無駄にしない為に、と、
確実に、戦果を得る方法としての、
自爆攻撃を成す為の、
装備や段取りをして貰える様に、
求める声が上がり、
大西瀧治郎中将は、 航空士らが、
戦果を得ずに、戦死してゆくがままにするか、 彼らの言う通りに、確実に、
戦果を得られる段取りをするか、への、
決断を迫られた。
終戦の翌日の、 1945年である、
昭和20年、の、 8月16日、の、
午前2時45分に、 中将は、自刃し、
腹を、十文字にかき切り、 返す刀で、
首と胸を刺しながら、 なお、
数時間は、生きていた。
従者が、 軍医を呼んだが、
「 生きる様には、してくれるな 」 、
と、頼んだ。
駆けつけた部下には、
「 介錯 不要 」 、と言った。
「 できるだけ永く苦しんで死ぬのだ 」。
その遺書には、 そう書いてあった。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140629/trd14062911410004-n1.htm
☆ ・・選抜で、「 望 」、 としながら、
前線の実施部隊に派遣されなかった、
事を疑問に感じていたが、
特攻隊として、 前線に配属されたのは、
「 熱望 」、 と答えた者だった事を、
戦後に知った。 実際に、 特攻隊として、 南の空に散った同期生は、 いずれも、
「 熱望 」 、と、答えていた。
20人がいた、同じ班で、
「 熱望 」、と書いた、3人は、
出撃したが、 3人とも、
飛行機の故障などで、生還した。
大多数が、「 望 」、 と回答した中で、
否 、と回答した人は、
その理由を将校から聞かれ、
「 故郷の村で、
唯一の大学卒業生なので、
生きて帰りたい 」、 と伝え、
容認され、罰を受ける事は、なかった。
:
@ 特攻を断った人々の中に、
芙蓉部隊を率いた、美濃部正氏がいるが、 :
1945年2月17日の出撃で、 美濃部氏は、
部下に特攻を指示し、
別れの盃を交わしてもいる。
本土に来襲する、
アメリカの機動部隊に対して用意された、
「 未明に索敵機が、空母を発見したら、 位置を通報した後に、 飛行甲板に、
体当たりして、発艦を不能とし、
その攻撃力を奪う。
その後の夜明け時に、
索敵機の知らせた地点へ到着した、
第2波以降が、通常攻撃を反復する 」、
戦法だった。 :
鞭杲則少尉の記憶では、
「 空母を見つけたら、
飛行甲板に滑り込め 」、 との命令で、
搭載機への破壊や、 突入による火災で、
位置を知らせる、戦法だった。
どちらにしろ、必死の特攻を前提とした、
戦法だったが、 この時には、
敵が見つからなかった為に、
特攻は、無かった。
特攻部隊で、 消耗があり、
同じ彗星装備の芙蓉部隊が、
第2御盾特別攻撃隊の名で、
特攻への配置になる、 との、
噂が流れたが、 美濃部氏は、
「 うちの隊から、特攻は出さない。
夜間作戦が出来る人が、少ないので、
後がなくなる 」、と、否定しても居り、
司令部の参謀が、
「 必死尽忠の士の進撃を、
何者が、 是をさえぎるか、
第一線の少壮士官が、何を言う 」、
と、叱責した時には、 美濃部氏は、
指揮官や幕僚が、自ら、
突入しようとしない事と、
√ 彼らが、ろくに、
空中戦を経験していない事を非難し、
「 現場の兵士は、
誰も、死を恐れていません。
ただ、指揮官には、死に場所に相応しい、 戦果を与える義務があります。
練習機で特攻しても、 十重二十重と、
待ち受ける、グラマンに撃墜され、
戦果をあげる事が出来ない事は、
明白です。
白菊や練習機による、
特攻を推進なさるなら、
ここにいらっしゃる方々が、
それに乗って、
攻撃してみるといいでしょう。
私が、零戦一機で、全部、
撃ち落として見せます 」 、と言った。
この反対論を述べた行為は、
軍法会議に掛けられて、 美濃部氏が、
死刑に処せられる事も、
在り得る行為だった。
:
美濃部氏は、1944年の5月24日に、
302空に着任し、 零戦・月光装備の、
第二飛行機隊長に任命された。
小園安名司令の理解が得られ、
美濃部氏は、
夜襲部隊の再建へ取り掛かった。
その攻撃方法は、 索敵隊による、
敵艦隊への発見の後に、攻撃隊である、
銃撃隊や、爆撃隊が発進し、
敵空母から、艦載機らが発進する前に、
奇襲する、構想による物だった。
7月4日、5日に、 硫黄島へ来襲した、
アメリカの機動部隊を攻撃すべく、
基地から出たが、 空振りに終わり、
悪天候のせいで、 損害も出した。
1944年の7月10日に、
153空戦闘901飛行隊長になり、
9月から、フィリピン方面に進出し、
敵機動部隊に攻撃を始めた。
戦果が上がらないまま、損害が続出し、
パイロットらも、当初の1/3になるまで、
消耗した。
フィリピンで、特攻が開始された際には、 夜襲を説いて、 特攻に参加しない事を、
大西瀧治郎中将から容認された。 :
この話し合いの際に、
「 生還率ゼロの命令をだす権利は、
指揮官と言えども、 持っていない 」、
「 この世で、 罪人以外は、
自らの命を、他人に命じられて失う事は、 おかしい 」 、
と、 大西中将に語り、 やがて、彼は、
「 こんな、むごい戦争があるか 」、
と、 声を荒らげて応じた、 という。
1945年の3月5日に、
131空飛行長になった。
第5航空艦隊司令長官の宇垣中将は、
『 戦藻録 』; 1945年7月29日の項に、
美濃部氏について、
「 活躍は、目覚しきもの 」 、
と、記述している。
√ 戦争の末期に、 美濃部氏は、
人種差別性を露わにしていた、
アメリカの白人ら等による、
日本国民ら、への、
強姦と虐殺の限りが尽くされる事が、
それまでの、 国際法に、全く違反した、
民間人らや民間船ら、への、
アメリカ軍の将兵らによる攻撃らと、
占領地域らでの、非戦闘員への、
強姦と騙し討ち、 等の累積からも、
合理的に予想し得た、 決号作戦
≒ 本土決戦 、に備えて、
特攻による、最終出撃に加わる、
24機分の編成表を作り上げた。 :
搭乗割には、主立った士官に、准士官や、 夜襲に熟練した、下士官と、
兵搭乗員らの名を書きこみ、
空中指揮は、
美濃部氏自らがとる事にした。
この特攻は、 「 敵は、 上陸前に、
必ず、機動部隊の猛攻を加えてくる。
まず、 爆装の索敵攻撃隊を出して、
敵艦隊を捕捉する。 その通報を受けて、 やはり、爆装の攻撃隊が発進し、
爆弾を、海面でスキップさせて、
敵艦の舷側にぶつける、
肉薄の反跳爆撃を敢行した後に、
全弾を撃ち尽くして、艦艇へ突入する。
空母がいて、 甲板上に、
飛行機らが並んでいれば、
滑りこんで、 誘爆で破壊する 」。
「 基地に残った地上員らからも、
決死隊を選択し、穴を掘って、
爆弾と共に入る。
敵の陸上部隊が迫ってきたら、
残った施設らに火を放ち、
敵を安心させて、 呼び込めた所で、
穴の中の決死隊が、 各自、
爆弾の信管を叩いて大爆発を起こし、
戦車や、歩兵らをまきぞえにする。
その他の大多数の若い隊員らは、
基地を離れて、一般市民にまぎれこみ、
自分で運命を切り開いていく 」、
作戦だった。 :
1945年の8月15日に、戦が終わった。
美濃部氏をはじめ、 芙蓉部隊は、
終戦に納得しなかったが、
艦隊司令部で、 美濃部氏は、
井上成美大将になだめられ、
部下を説得する様に言われた。
彼は、 基地に帰ると、 隊員らへ、
部隊は、陛下の物だ、と説得し、
「 詔勅が出た以上、 私に、
部隊の指揮を取る資格は、ない。
納得できなければ、 私を斬ってから、
出撃せよ 」、と、言って、おさめた。
その後で、 美濃部氏は、
「 日本もまた、 いつか、
復興する事もあるかもしれない。
その時はまた、ここで会おう 」、
と、訓示し、 隊員たちへ、
部隊の飛行機を用いて、
復員する事を許可した。
√ この、飛行機による復員行為の件で、
美濃部氏は、後に、
国際法への違反の嫌疑を掛けられたが、
「 全ての武装を撤去した上での、
復員であった 」 、 と、 釈明し、
不問となっている。 :
@ 戦闘力を民間に残し、
アメリカ人らが、無茶をやり出したら、
少しでも反撃し得る物と、
技術知識的な手掛かりらを、
日本人側に保持させたかった、
無意識的な思い、 等も、
あったのではないかな。
:
√ 戦後は、しばらく、
農業に従事していたが、 1953年に、
航空自衛隊に入る。
西空防衛部長、をやり、
空幕運用課長、になり、
統幕学校教育課長、を務め、
第12飛行教育団の司令になった。
1966年の7月16日に、 輸送航空団司令、
兼、 美保基地司令、になった。
1969年の4月1日に、 航空自衛隊の、
幹部候補生学校長になり、
幹候校への襲撃を企てた、
新左翼の過激派学生団と対峙したが、
幹候校にいる、警務隊員や、
基地警備隊が飼っていた警備犬と、
放水銃の展示による威嚇のみで、
退散させ、
事件の発生を未然に抑止している。
1970年の6月30日に、体調不良で、
依願退職し、空将で退官した。
退職後は、 日本電装学園長、となる。 1997年に病没 :
@ 美濃部氏は、 特攻について、
「 戦後、よく、
特攻戦法を批判する人がいるが、
それは、 戦いの勝ち負けを度外視した、
戦後の迎合的統率理念にすぎない。
当時の軍籍に身を置いた者にとって、
負けてよい戦法は、論外だ。
不可能を可能とすべき代案なき限り、
特攻も又、やむをえない、
と、今でも思う。 戦いの厳しさは、
ヒューマニズムで批判できる程、
生易しい物ではない 」、
と、語っている。 :
:
@ 1944年の十月の末に、
第2航空艦隊で行われた、
第2神風特別攻撃隊、への、
志願者の募集の際に、
岩本徹三氏は、
「 我々、戦闘機乗りは、 どこまでも、
戦い抜き、 敵を一機でも、多く、
叩き落としていくのが、任務だ。
一度きりの体当たりで、死んでたまるか。 俺は、否だ 」 、と言って、
志願しなかった。
特攻に関して、 彼は、
「 この戦法が、全軍に伝わると、
我が軍の士気は、目に見えて、
衰えてきた。 神ならぬ身、
生きる道あってこそ、
兵の士気は、 上がる。
命ある限り戦ってこそ、
戦闘機乗りです、
「 こうまでして、
下り坂の戦争をやる必要があるのか?、
勝算のない上層部の、
やぶれかぶれの最後のあがき、
としか、思えなかった 」、
と、回想している。 :
その回想録にある。
近接護衛戦闘機として、
数十機の特攻機の突入を目の当たりにし、
数刻前まで、共に存在していた、
人々が消えた事に、
「 髪の毛が逆立つ思いであった 」、
「 せめて、彼らの最後と、その戦果を、
詳細に見届けておこうと、 私は、
何時までも、上空を旋回していた 」。
戦争末期の飛行機の搭乗員らについて、
「 訓練しては、前線に送り、
一作戦で全滅させて、 又もや、
訓練の繰り返しだ。
実戦に役立つ戦力に達するには、程遠い。 しかし、 前線では、
搭乗員が不足しているのだ 」 、
と、 述べている。
1944年の11月1日に、
海軍少尉になり、 その月に、
第252海軍航空隊の、
戦闘311飛行隊に属した。
1945年の、 昭和20年、の、
3月の末に、
203空戦闘303飛行隊に属する前の、
その年の、2月16日に、
関東地区迎撃戦に参加し、
沖縄戦を始めた、
アメリカ軍の上陸地点を最初に確認した、
夜間の、単機での、 強行偵察をなした。
@ 「 岩本少尉は、 救命胴衣の背面に、
通常は、所属部隊と、姓名に、
官職とを書く所を、 「 零戦虎徹 」
≒ 「 虎徹 」、 の二文字は、
新選組の局長の近藤勇氏の佩刀、
としても、 有名な刀の、
長曾彌虎徹興里になぞらえた物 、
「 天下の浪人 」 、等と大書していた。
この「天下の浪人虎徹」の文字は、
よく目立ち、 名を聞かずとも、
岩本少尉のだと、すぐ判った。
岩本少尉の普段は、
田舎のじいさんの様な格好をしていたが、 一旦、車輪をしまって飛び上がれば、
向かう所に、敵なしで、
大抵、撃墜して帰ってきた 」。
・・岩本氏の活躍は、 郷里の益田にも、
報道映画を通して知られ、 彼が搭乗した、
ゼロ戦のプロペラが、
益田小学校に展示された。
この頃に、 ニュース映画を見て、
「 益田の岩本さん 」、 を知った、
ある女学生が、 戦後に、彼と、
お見合いで知り合い、岩本夫人となった。
当時のラバウルは、 マッカーサーの、
南西太平洋方面軍の、フィリピン、
への、 進路にあり、 アメリカ陸海軍が、
圧倒的な戦力で、重点的に、
攻撃を集中していた。
岩本氏は、1943年12月4日に、
ラバウルで邀撃後に、多くの、
日本軍戦闘機らを撃墜した、
アメリカ軍機らの、基地、 への、
帰還の時を狙って、 待ち伏せ攻撃で、
彼らを撃墜し、 「 送り狼 」 、
と、 呼ばれる戦法を成し行った。
岩本氏は、 「 敵が来る時は、
退いて、敵の引き際に落とす。
つまり、上空で待機してて、
離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜する。
すでに、里心のついた敵は、
反撃の意思がないから、楽に落とせる。
1回の空戦で、5機まで、
落とした事がある 」。
西沢氏は、 「 岩本さん、そりゃ、
ずるいよ。 私らが、一生懸命、
ぐるぐる回りながらやっているのを、
見物してるなんて
≒ 岩本氏は、
1943年の11月に、
ラバウルに着任し、 西沢氏は、
43年10月に、内地へ帰還しているので、
実際に、 ラバウルで、
そういう場面があった訳ではない ) 。
途中で帰る奴なんか、被弾したか、
臆病風に吹かれた奴でしょう。
それでは、( 他機との )、
協同撃墜じゃないですか 」、と言った。
「 でも、俺が落とさなくちゃ、
奴ら、基地まで帰るだろ? 、
しかし、 いつも、 こうしてばかりも、
いられない。 敵が多すぎて、
勝ち目の無い時は、 目を瞑 ツム って、
真正面から、機銃を撃ちっぱなしにして、
操縦桿をぐりぐり回しながら、
突っ込んで、 離脱する時もあるよ 」 、
と言った、 という。 :
この夜から、 一ヶ月も経たない内に、
西沢氏は、輸送機に便乗して、
移動している最中に、
ミンドロ島のそばで殺され、
尾関氏は、ルソン島の上空で、戦死し、
斎藤氏は、負傷し、 長田氏は、
翌年に、沖縄の沖で、戦死した。
岩本氏は、 「 我々には、伊達に、
特務の2字がついているんじゃない。
日露戦争の杉野兵曹長の昔から、
兵学校出の士官にもできない、
下士官にもできない事をするのが、
我々、特准だ。 がんばろうぜ❗ 」。
この時に、謹慎中の角田を励ました。
岩本氏に指導を受けた後輩の印象では、 「 西沢広義飛曹長は、長身で、
目つきが鋭くて、眉も太い、
精悍な顔つきから、 成る程、 あれが、
撃墜数、 百50機の撃墜王だと感じた。
小柄で、優しい風貌の岩本少尉には、
どこに、その様な力があるのか、
と、 感じた 」 、
と、 述懐している。