祇園祭が始まっていますが、
京都では昔から祇園祭が終わると
梅雨明けと言われています。
何かしら、昔からある言い伝えとか
ことわざには根拠があるものです。
「見て見ぬふり」
実際に見ても見なかったように振る舞う。
又は、とがめないで見逃すという意味があります。
「見て見ぬふり」は
悪いシーンで使うことが多いので、
中々、良いシーンがイメージ出来ません。
例えば、
路上でガラが悪い人に絡まれている
女性を見ても見て見ぬふりをする。
というシーンはすぐにイメージできますが、
八百屋さんの店先で
本当に食うに困っているように見える人が
店先に出しているリンゴを盗んでも
見て見ぬふりをしている店主。
などというシーンは滅多にないので
「見て見ぬふり」は悪いイメージが先行しているのですね。
物事には、時と場合によって
対局の受け取り方があり、
違う視点があるということを少しお話します。
この二棟の高層ビルですが、
見ている場所によって
随分、違うと思いませんか。
私たちがいつも見ている多くの写真は
最初のビルを見上げた写真なので
高層ビルというと、最初の写真が
頭に浮かぶと思います。
見上げた写真は威風堂々とし、
どこか優美で偉大な憧れ感がありますが、
そのビルに自分の存在はありません。
反対に、ビルから見下ろした写真は
高揚感とか恐怖感とか、
ビルの中に自分が存在します。
満席の電車で普通の座席に座っていると
私の前にお腹が大きい妊婦さんが立っていました。
いつまでも席を譲らない私を見て
他のお客さんはどう思うでしょう。
私が高齢者なら納得する人もいるでしょうが、
どう見ても私は高齢者には見えず、
身体がガッシリしたおじさんにしか見えません。
「席を譲らない非常識な人」
と、ほとんどのお客さんが思うでしょう。
しかし、私がこんな状態だったとしたら
どうでしょう。
私はその時、持病のメニエル病が出て
座っていても目眩がしている状態で、
もし、席を譲ろうと立ったら
その瞬間、倒れてしまうでしょう。
この状態が他のお客さんに理解できていたら
随分、観える光景が変わってくると思います。
立っている妊婦さんに同情し
見て見ぬふりをして座っているおじさんが
悪に観えるのは仕方がないことかも知れませんが、
おじさんは何故、席を譲らないのかな。
もしかしたら、譲れない理由があるのかな。
と考えたら、おじさんの異変に
気付くかも知れません。
このように、
私を含めて、多くの人が自分の解釈で
出来事を観て他者も自分と同じ考えだろうと
普通に考えていることが多い中で、
私のような年齢になっても
若い人から教えられることは多く、
世の中、捨てたもんじゃないと思います。
世の中の出来事には必ず複数の視点があることを
意識しているだけで、平常心で物事を捉えれるし、
人間関係の潤滑油になるような気がします。
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