次の音声ファイルは、マル激トーク・オン・デマンド第261回(VIDEONEWS.COM 2006/04/01)「マル激『5金』映画特集」(無料放送中)のPART2 (43分)のなかから、再販制度に関する話題の部分のみを収録したもの。
再販制度を考える── マル激トーク・オン・デマンド
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マスメディアは、立法・司法・行政に次ぐ「第4の権力」と言われ、新聞社はその代表格とされている。政治家の中には「『第4権力』?実態はメディアが『第1権力』だろう」と皮肉る者もいるが、これは”新聞・テレビ vs. 政治家・官僚”の八百長的「なあなあ」要素も含む政局・政策の場面でいえば当たらずも遠からずといえ(一方、政治家や官僚を辞任に追い込むという意味での生殺与奪権は、これまで週刊誌などの雑誌メディアが発揮してきた)、新聞・テレビを敵に回しては「第1の権力」もやりたいことができない。
しかし、これらのことからいえば、最後は読者や視聴者の判断が決するのであり、その意味では「第1の権力」というのは市民にこそあるともいえる。だが、その”権力”の内容の質の部分を左右しているのは、長年に渡って判断材料を世の中に提供しているメディアであるといえ、この意味で「『第4権力』?実態はメディアが『第1権力』だろう」というのは、一面の真理だろう。
その新聞が再販制度がなくなると(小泉首相とは良い関係にあるらしい竹島一彦氏が委員長をつとめる公取委が最近言っている「新聞の特殊指定」もからんでくる)市場で価格競争に晒され、資本や基盤において、立法・司法・行政に対し対等に対峙し意見を表明する、あるいはブレーキ役になるといったことが出来なくなり、またそういう存在がなくなる、と神保氏と宮台氏は言っているように思う。
ちょうど、問題児を抱えた保護者や教師が途方に暮れているというのと同様のような立場に、読者・視聴者(民放テレビは新聞社の系列企業)は立たされているかのような観がある。
たとえば、新聞社に「踊る新聞屋-。」の管理人さんのような記者がもっと増え、いずれはそのような記者が多数派となり、これまでの「発表ジャーナリズム」「度が過ぎた商業主義的行為」から離れてくれることを読者は期待し、待つしかないのだろうか。
僕はどうもそんな時間は世の中に今はないような気がしている。
端的な場合で「共謀罪」法案などを見ていても、こんなストーカーに部屋の合鍵を渡すかのような法が成立してしまえば、少しくらい新聞・テレビの報道が正常化しても、取り返しがつかないというような気もする。
地球環境問題然り、戦争・紛争問題然りで、今世の中は日本に限らず地球的規模の大きな岐路にあると思う。
今はある方向性が決められたあとは、様々なテクノロジーやシステムが、科学分野などの発達で急速に発展する分、その可及的影響は急速、大規模だ。あとでその打ち消しや修正が非常にむずかしいという状況にもあると思う。
では、どうすればよいか、というのは僕にはわからない。しかし、世の中はメディアというものについて、真剣に考えるべき時にきているのはたしかであるように思う。
「賢からぬ者が権力らしきものをにぎると、実に恐ろしい」。
これは作家・精神科医の北杜夫が『どくとるマンボー青春期』という著書で、主に戦争体験の話の中で述べているものである。僕はこの言葉を常日頃、立法・司法・行政・メディアに対して実体験の場で深く実感している。ともかく、賢からぬ者には権力らしきものを与えてはいけない。それだけは真実である。(ここでいう「賢からぬ者」の「賢からぬ」は、偏差値が低いとかそういう意味の「賢」ではない。念のため)
追記。
・この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう (華氏451度 2006/04/24)
・マスコミを乗っ取られるままにしておくな (華氏451度 2006/05/01)

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マスメディアは、立法・司法・行政に次ぐ「第4の権力」と言われ、新聞社はその代表格とされている。政治家の中には「『第4権力』?実態はメディアが『第1権力』だろう」と皮肉る者もいるが、これは”新聞・テレビ vs. 政治家・官僚”の八百長的「なあなあ」要素も含む政局・政策の場面でいえば当たらずも遠からずといえ(一方、政治家や官僚を辞任に追い込むという意味での生殺与奪権は、これまで週刊誌などの雑誌メディアが発揮してきた)、新聞・テレビを敵に回しては「第1の権力」もやりたいことができない。
しかし、これらのことからいえば、最後は読者や視聴者の判断が決するのであり、その意味では「第1の権力」というのは市民にこそあるともいえる。だが、その”権力”の内容の質の部分を左右しているのは、長年に渡って判断材料を世の中に提供しているメディアであるといえ、この意味で「『第4権力』?実態はメディアが『第1権力』だろう」というのは、一面の真理だろう。
その新聞が再販制度がなくなると(小泉首相とは良い関係にあるらしい竹島一彦氏が委員長をつとめる公取委が最近言っている「新聞の特殊指定」もからんでくる)市場で価格競争に晒され、資本や基盤において、立法・司法・行政に対し対等に対峙し意見を表明する、あるいはブレーキ役になるといったことが出来なくなり、またそういう存在がなくなる、と神保氏と宮台氏は言っているように思う。
ちょうど、問題児を抱えた保護者や教師が途方に暮れているというのと同様のような立場に、読者・視聴者(民放テレビは新聞社の系列企業)は立たされているかのような観がある。
たとえば、新聞社に「踊る新聞屋-。」の管理人さんのような記者がもっと増え、いずれはそのような記者が多数派となり、これまでの「発表ジャーナリズム」「度が過ぎた商業主義的行為」から離れてくれることを読者は期待し、待つしかないのだろうか。
僕はどうもそんな時間は世の中に今はないような気がしている。
端的な場合で「共謀罪」法案などを見ていても、こんなストーカーに部屋の合鍵を渡すかのような法が成立してしまえば、少しくらい新聞・テレビの報道が正常化しても、取り返しがつかないというような気もする。
地球環境問題然り、戦争・紛争問題然りで、今世の中は日本に限らず地球的規模の大きな岐路にあると思う。
今はある方向性が決められたあとは、様々なテクノロジーやシステムが、科学分野などの発達で急速に発展する分、その可及的影響は急速、大規模だ。あとでその打ち消しや修正が非常にむずかしいという状況にもあると思う。
では、どうすればよいか、というのは僕にはわからない。しかし、世の中はメディアというものについて、真剣に考えるべき時にきているのはたしかであるように思う。
「賢からぬ者が権力らしきものをにぎると、実に恐ろしい」。
これは作家・精神科医の北杜夫が『どくとるマンボー青春期』という著書で、主に戦争体験の話の中で述べているものである。僕はこの言葉を常日頃、立法・司法・行政・メディアに対して実体験の場で深く実感している。ともかく、賢からぬ者には権力らしきものを与えてはいけない。それだけは真実である。(ここでいう「賢からぬ者」の「賢からぬ」は、偏差値が低いとかそういう意味の「賢」ではない。念のため)
追記。
・この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう (華氏451度 2006/04/24)
・マスコミを乗っ取られるままにしておくな (華氏451度 2006/05/01)
それほどのことはできていませんし…。
新聞もテレビも、メディアは世論におもね炊きつけ煽るのがそもそもの出自なら、メディアに期待するのはやめようと思うことすらあります。
ただ、一人の人間として、世の中は一直線には進まないと自分自身を叱咤することもあります。まとまりませんが、感謝の言葉ということで。
誰かが言っていましたが、霞ヶ関の醜聞が記事になるということはそれを告発している官僚がいるということである、だからまだ救いがある。それさえなくなったら…と。
歴史を見ても、長いスパンで測れば、変遷はあっても結局最後は負の側面のほうが劣勢になります。
昨夜、「映画 日本国憲法」 http://www.cine.jp/detail/kenpo.html というジャン・ユンカーマン監督の映画がネットでライブ配信され、それを見ていて次の広告代理店のCMのコピーライターの言葉を思い出しました。このCMシリーズはその後たしか年間の大きな賞のトップをとっています。
「僕がいつも思っていることに、『大衆は現実には存在しない』ということがあります。個人が集計されてデータ化されると大衆になるわけで、”大衆”という人間はいないんですよね。それをいつも思って、流されそうだなと思うときは、それで踏みとどまっています」
今の日本国憲法はアメリカが作って押しつけたものだとの意見が少なからず世の中にはありますが、結局その憲法の作成の過程では、アメリカというより個人個人がそれぞれの思いで練り上げていったものです。(憲法を新たに作成するにあたって、東京の焼け跡を探し回って手に入れ参考にした8つの国の憲法の中には、ドイツのワイマール憲法もあったといい、何かそこに歴史の挑戦のようなものを感じもしてしまいました)
憲法を作成したのもそれぞれの個人なら、それを好感をもって共有をしようとした当時の多くの日本の市民も、それぞれの個人で、その個人の様々な思いからでした。こういうことは数字のデータからは計れません。アメリカとか、日本とか、そういう分け方からもです。
世の中や物事を変えていくのは、良い意味でも悪い意味でも個人で、その力は微小であるとともに、大いなるものともなる、というような気がします。
なんだか、意味不明の文になっているかもしれません。申し訳ありません。