雑木帖

 ─ メディアウオッチ他 ─

“懸念をそらすための策”

2006-09-02 18:51:02 | メディア

 (上の戯画は『Newsweek』 2006/08/30 より)

 先月29日、アフマディネジャド・イラン大統領がブッシュ・アメリカ大統領に二人でテレビ討論をしたいと申し出た。ホワイトハウスは同日にこれを拒否、ブッシュ大統領はそれについて次のように語った。

「テレビ討論の提案は、米国だけでなく国際社会がイランに対して抱く、テロ支援や核兵器への欲求などの懸念をそらすための策である。…イランが、自国内の言論弾圧を止め、自由な討論を最初に認めるのを見てみたい」(CNNニュースより)

 “懸念をそらすための策”?政治はこういうことを考え、アメリカはこういうことに対しとてもナイーブなのだなと思うが、しかしこのことは逆にいえば、ブッシュ氏やアメリカにとって何か都合が悪いことが起きたときに、戦略としてそのことから世界の“懸念をそらすための策”を考える可能性、少なくともそれは有効だと彼らは思っている、ということを表している。

 それから考えると、世界が非難した、イスラエルのレバノンへの見境の無い空爆の最中、タイミングよくイギリスで旅客機爆破テロ計画犯が見つかったことなどは……いや、それは単なる偶然なのだろう。けれど、その後、今度はジョンベネ・ラムジーさん殺害事件の容疑者が突然見つかり、戯画にあるようなこととなったのは、しかもそれが検察も起訴を見送るほどのガセネタだった、と後に判明したことは事実である。
 (してみると、旅客機爆破テロ計画犯のほうも裁判になってみないと何ともいえない、という懸念が可能性としては当然ある)

 作家であり精神科医でもある「なだ いなだ」氏は『人間、この非人間的なもの』という著作の中で次のように書いている。
 もし、マスコミを権力が利用しようとする場合、直接に大衆を操作することは、ありえないでしょう。現在の商業ジャーナリズムは、今のところ、政治的な第三者の位置を売物としています。もし、権力との完全な癒着ぶりが明白になったら、読者から、そっぽを向かれることになりましょう。そうなったら、権力の、マスコミと癒着した意味がなくなります。
 ですから、マスコミが、表面的だけでも批判的でなければ、権力にとって利用価値はないのです。また、マスコミ自身も、批判的姿勢の中に、自らの存在価値をみとめているので、たやすく権力者の支配に屈することはありますまい。としたら、マスコミを、自分に対して批判的な姿勢をたもたせながら、それでいて無意識のうちに、自已に協力させることしか、それを利用する方法はありません。
 そのためには、マスコミを直接支配しようとするより、マスコミの弱点をとらえ、それに積極的に働きかける方がいいのです。マスコミは、ニュースを餌として、飼われている巨大な動物という一面があります。どのような場合にも、ニュースという餌をなげられれば、その餌にとびつかねばならないのが、商業ジャーナリズムの悲しい性なのです。そこで、たとえば、強行採決をすれば、そのニュースにとびつき、権力に批判的であろうとするために、執拗に政府与党を攻撃してやまないマスコミの前に、オリンピックという餌をなげ与えたらどうなるかです。マスコミは、そのとたんに、自己の弱点をさらけだし、その餌にくらいつかざるをえません。そして、その餌にくらいついている間、前のニュースを追えなくなり、かくして、悠々と相手を立ち去らせてしまうというわけです。
 マスコミは、こうして、権力による大衆操縦の巧妙なはめてに、自らはまりこみ、いつの間にか、批判のポーズをとりながら、結果としては、相手に協力している、ということになります。
 僕はメディアは本当に「餌にとびつかねばならない」のだろうか、と思う。あるいは「飛びつく」にしても、報道の仕方、伝えかたに工夫をする余地はあるのでは、と思う。

『Newsweek』 2006/08/30号には、この種の問題のもう一つの面、視聴者や読者の「興味の対象」という問題について、『Newsweek』誌の中東総局長兼パリ支局長が示唆的な記事を書いている。
 彼は、扇情的な事件が関心を呼ぶのは今に始まったことではない、しかし、問題はこうした事件がニュースの大半を占めていくことだ、という。アメリカでその傾向が決定的になったのは90年代で、94年にO・J・シンプソンが元妻殺害容疑で逮捕されたときからアメリカのメディアは扇情的な事件を優先するようになったのだ、と。
 そして次のように言う。
 アメリカを脅かす現実的な危険性は日々大きくなっていたが、そうした話題は思考力を要求するうえ、地名や人物名が発音しにくいものばかりだった。結果的に、それらは片隅に追いやられた。
 そして、01年9月11日がやって来ると、コンディット事件(雑木帖@管理人[注]:アメリカで01年の夏話題になった、民主党のゲーリー・コンディット下院議員の不倫相手殺害容疑の事件)を気にかける者はいなくなった。もちろん、03年にもマスコミはイラク侵攻と同じくらいスコット・ピーターソン事件(妊娠中の妻が殺害された)を取り上げたが、犯罪事件ばかりを取り上げる時代は終わった。

 ジャーナリストの責務とは

 自分が戦場記者で、民間人の虐殺事件や台頭する独裁者、開戦の可能性などを取材していたとしたら、世間の無関心ぶりや新聞社とテレビ局のオーナーを非難したくなるかもしれない。だがそれは単なる八つ当たりだ。
 国外から世界の出来事を伝えようとしている私たち記者は、レバノンやイスラエルなどの人々の暮らしを、ジョンベネ事件と同じくらい生き生きとアメリカ人に伝えられずにきたのだ。私たちが取り上げる題材は、大部分が遠い国の出来事のように聞こえるのだろう。
 解決策はない。だが私には言える。世界はもっと安全でよりよいものになるはずだ。私たちジャーナリストが、地球の裏側に住む人々の生死をアメリカ人がわがことのように重要な問題として受け止められるように、生き生きと面白く伝える方法を見つけることができれば。
(『Newsweek』 2006.08.30号 「ジョンベネ事件と9・11を経た今」 クリストファー・ディッキー)
 八つ当たりだとは流石に僕は思わないが、以前“続:メディアスクラム”で書いたように、「低俗」な報道や番組は、「低俗」な視聴者・読者のせい、とするメディア側の言い分もおかしいと思う。これまで、映画やドラマや報道、本などで高い視聴率、読者率、観客動員数を誇ったものを一つ一つ考えれば、例外はあるものの、視聴者・読者のせいだとする矛盾も見出せるはずだ。
 かつて川端康成氏が小説について、大衆というのは長い目でみれば公平だ、いい作品は長いスパンではかれば結局それ相応によく読まれている、と言った。
 しかし、いい作品も、世に出なければ、あるいは書評などで取り上げられず多くの人の知るところにならなければ読まれることはない──このことが今のメディアに関してはとても問題なのだ、と僕は思う。
 もちろんその「いい作品」は、クリストファー・ディッキー氏のいうように「生き生きと面白い」ものである必要がある。

 7月17日は祝日で僕は朝からワイドショーや報道番組を見ていたが、夜になると──「News23」までが──別にその日に起こったものでもない秋田の殺人事件を全て最初にもってきて執拗に報じていることに「異常」さを感じた。他に報ずる大事なことがないというのか?…

 参考。
 ・「アメリカと広告代理店」

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