最前線の育児論byはやし浩司

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●子供のやる気

2006-06-13 09:10:52 | Weblog
【やる気論】

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昨夜のサッカーの試合の後遺症か?
あるいは、睡眠不足か?

今朝は、どうも頭が重い。

体の動きが、にぶい。

気力も、あわせて、弱い。やる気が起きない?

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●義理の兄

 義理の兄夫妻が、遊びに来てくれた。夕食をいっしょに、食べた。義理の兄は、会社を経営している。あちこちに土地をもっていて、その上に、賃貸ビルや会社を建てている。「悠々自適」という言葉は、そういう人のためにある。

 驚いたのは、70歳に近いというのに、髪の毛が黒々としていること。おまけにフサフサしている。「染めているの?」と聞くと、「いいや」と。

 私の髪の毛も、フサフサしているが、20~30%は、もう白髪(しらが)。ワイフなどは、90%近くが、白髪。

 いろいろ話しているうちに、ひとつ気がついたことがある。それは兄の生き方が、前向きなこと。年齢を感じさせない。今は、ハーブ栽培に凝(こ)っているとか。「縁側が、ハーブだらけだよ」と言って、うれしそうに笑っていた。

 あとゴルフのクラブを、特注で作らせているとか、など。設計図も自分でひき、材質まで指定して作るのだそうだ。「それが楽しい」と。

 そういうふうに、前向きに生きている人と話していると、楽しい。自分まで、どんどんと若返っていくのがわかる。

 ところで、(やる気)を引き出すのは、脳内で分泌される、カテコールアミンという物質だそうだ。

 つまり、何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれが、回りまわって、やる気につながるという。

 兄の脳みその中には、その物質が充満しているらしい。

 以前書いた原稿を、2作、添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき小学生vs前向きな小学生

私「君は、何をしたい?」
小「何も、ない」
私「何をしているときが、一番、楽しいの?」
小「友だちと、遊んでいるとき」

私「おとなになったら、何をしたいの?」
小「何もない……」
私「してみたい仕事はないの?」
小「あんまり、ない。考えてない」

私「だけど、何か、しなければいかんだろう?」
小「……わからん」
私「もうすぐ、おとなになるよ。目標をもたなくちゃあ……」
小「まだまだ、だよ」

私「じゃあ、なぜ、勉強しているの?」
小「一応、やらなくちゃ、いけないから……」
私「したい勉強は、ないの?」
小「ふん……」と。

 小学6年生のK君(男子)との会話である。

 K君に、問題があるというのではない。夢も、希望もない。もちろん目的もない。今、そういう小学生が、ふえている。全体の、半数以上が、そうではないか。

 が、親は、「勉強しろ」「いい学校へ入れ」と、子どもを追いたてる。つまり親自身が、子どもの進路を混乱させている。それに気づいていない。

 一方、今、小説を書くことに、熱中している小学生がいる。5年生のOさん(女子)である。毎週、何かの小説を書いてきて、私に読ませてくれる。

 そういう小学生は、生き生きしている。目も輝いている。

私「おとなになったら、何になるの?」
小「お医者さん」
私「じゃあ、うんと勉強しなくちゃいけないね」
小「でも、花が好きだから、花屋さんでもいい」

私「また小説、書いてきてよ。読みたいから……」
小「今度は、冒険の話でもいい?」
私「いいよ。ハリーポッターのようなのを、ね」
小「わかった……」と。

 このタイプの子どもは、つぎつぎと、自分のしたいことを、決めていく。多芸多才。ひとつの目標を決めると、自らコースを設定して、その中に自分を置く。あとは、自身の力で、前に進んで行く。

 ここに書いた、K君も、Oさんも、実は、架空の子どもである。今までに、私の前を通りすぎた何人かの子どもを、まとめて書いた。

 で、その分かれ道というか、どうして子どもはK君のような子どもになり、またOさんのような子どもになるのか。また、いつごろ、その分かれ道はできるのか。

 私は本当のところ、0~1歳児については、よくわからない。しかしそのころ、すでにその分かれ道はできると思う。4歳や5歳ではない。2歳や3歳ではない。その前だ。

 となると、そのカギをにぎるのは、母親ということになる。母親が、子どもが進むべき道を決める。むずかしいことではない。

 子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、Oさんのようになる。しかしそうでないとき、子どもは、K君のようになる。

 あるべき環境というのは、心暖まる親の愛情に包まれ、安定し、信頼関係のしっかりした環境ということになる。そういう環境の中で、静かに、どこまでも静かに育てる。

 それを、生まれた直後から、ほら、英才教育だ、ほら、早期教育だ、ほら、バイリンガルだ……とやりだすから、話がおかしくなる。子どもは、親に振りまわされるだけ。振りわされながら、子どもは、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなってしまう。

 子どもがK君のようになると、親は、あせる。そして無理をする。あとは、この悪循環。子どもはますます、やる気のない子どもになっていく。

 「友だちと遊んでいるときだけが、楽しい」と。

 そうなってしまってからは、もう手遅れ。子どもの心というのは、そうは、簡単にはできない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 子供 子供のやる気 積極的な子供 消極的な子ども)

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子どもからやる気を引き出すには
どうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

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 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせているその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないということ。
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