最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●見せる質素

2006-12-07 07:39:42 | Weblog
●見せる質素、見せぬぜいたく

 子どもの前では、質素を旨(むね)とする。つつましい生活、ものを大切にする生活、人間関係を大切にする生活は、遠慮せず、子どもにはどんどんと見せる。

 ときに親もぜいたくをすることもあるが、そういうぜいたくは、できるだけ子どもの目から遠ざける。あなたの子どもはあなたの子どもかもしれないが、その前に、一人の人間である。それを忘れてはいけない。子どもは、一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいたくから離れることができなくなってしまう。こんな子どもがいた。

 ある日、私の家に遊びに来ていた中学生(中2女子)が、突然、家に帰ると言い出した。理由を聞いても言わない。しかたないのでタクシーを呼んであげたら、あとで母親がこう教えてくれた。「あの子は、よその家のトイレ(便座式)が使えないのですよ」と。「ボットン便所だったら、なおさらですね……」と言いかけたが、やめた。

 このまま日本が、今の経済状態を維持できればよし。しかしそうでないなら、それなりの覚悟を、親たちもしなければならない。多くの経済学者は、2015年には、日本と中国の立場が入れかわるだろうと予測している。実際には、2010年ごろではないかという説もある。すでにASEAN地域での、政治的指導力は、完全に中国に握られている。そういうことも考えると、2015年以後は、日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならなくなるかもしれない。たいへん残念なことだが、すでに世界はそういう方向で動いている。

 で、こういう状況の中、子どもにぜいたくをさせるということは、たいへん危険なことでもある。先日も、中国で使っている教科書(国定教科書)を小学生に見せたら、全員が、「ダサ~イ」と声をあげた。見るからに質素な装丁の教科書だった。しかし日本の教科書のほうが、豪華すぎる。ほとんどが四色のカラーページ。豪華な写真に、ピカピカの表紙。

アメリカのテキスト(アメリカには日本でいう教科書はない)も、豪華で、その上、たいへん大きく重い。しかしアメリカでは、テキストを学校で生徒に貸し与えたり、順送りにつぎの学年の子どもにバトンタッチしたりしている。日本では、恐らくこうした教科書産業のウラで、官僚と業者が何らかの関係をもっているのだろうが、しかしそれにしても……? たった1年しか使わないテキストを、ここまで豪華にする必要はない。カラー刷りが必要だったら、子ども自身にカラーペンで色を塗らせれば、よい。

 またまたグチになってしまったが、将来、今のような経済状態が保てれば、それはそれでよい。しかしそうでなくなれば、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。「昔はよかった」と思うだけならまだしも、親が生活の質を落としたりすると、「あんたがだらしないから!」と、それだけで親を袋叩きにするかもしれない。よい例が、小づかい。

今どきの中学生や高校生は、1万円や2万円の小づかい程度では、喜ばない。それもそのはず。今の子どもたちは、すでに幼児のときから、そらゲーム機だ、そらソフトだと、目いっぱい、ほしいものを買い与えられている。あのプレステ・2にしても、ソフトを含めれば3万円を超える。そういうものを一方で平気で買い与えておきながら、「どうすればうちの子を、ドラ息子にしないですむでしょうか?」は、ない。

 この「質素」の問題とからんで、「家庭経済」の問題がある。よく「家計はどこまで子どもに教えるべきか」ということが話題になる。子どもに不必要な不安感を与えるのもよくないが、しかしある程度は、子どもに見せる必要はある。たとえばアメリカの学校には、「ホームエコノミー」という科目がある。小学校の中学年くらいから教えている。日本でも家計簿の使い方を教えているが、アメリカでは、家計の管理のし方まで教えている。機会があれば、家計のしくみや、予算のたて方、実際の支出などを子どもに教えてみるとよい。子どもをよき家庭人として育てるという意味では、決して悪いことではない。
(02-11-7)

● 質素な生活を大切にしよう。
● 子どもには、ぜいたくは見せないようにしよう。
● 子どもには、ぜいたくな生活をさせないようにしよう。
● ある程度の家計の流れは、子どもに見せておこう。


●自由

2006-12-07 07:37:22 | Weblog
●自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意味である。

 この自由には、三つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動させること。(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が強いので、「~~しなさい」「~~してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこういう言い方は、子どもを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しかしその一方で、子どもから考える力を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あなたはどう思うの?」「あなたは何をしたいの?」「あなたは何をしてほしいの?」「あなたは今、どうすべきなの?」と。時間は、ずっとかかるようになるが、子どもが何かを言うまでじっと待つ。その姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。しかし過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護になるケースなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しかし何が悪いかといって、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室育ち」になり、「外の世界へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされても、メソメソするだけで、それに対処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、明日の宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子どもを起こし、いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっさと寝て、明日先生に叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースもあり、宿題といっても、いろいろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意味では、後者の母親のほうが、望ましい。日本人は、元来、責任ということに甘い民族である。ことを荒だてるより、ものごとをナーナーですまそうとする。こうした民族性が、子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に集中する。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝手なことをさせることと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかってもらえれば、それでよい。
(01-11-7)

● 子どもは自由にして育てよう。
● 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育て自由論 自由 自らに由る 自らに由らせる)


●上下意識

2006-12-06 10:36:14 | Weblog
●親風、夫風、兄風

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BWでは、兄弟(姉妹)が入会して
いるばあいには、できるだけ、同じ
クラスで教えるようにしている。

効果は絶大!

たがいにたがいを刺激しあうだけではなく、
1年単位でみると、たいへん仲がよくなる。

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 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と、上下意識を無意識のうちにも感じながら呼びあうより、兄弟、姉妹は、名前そのもので呼びあうほうがよい。そのほうが、上下意識がなくなり、いわゆる「友」として、生涯にわたって、仲がよくなる。

 たとえば、「お兄ちゃん」ではなく、「シンちゃん」。「お姉ちゃん」ではなく、「ミサちゃん」と呼びあうなど。

 このことについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 ところで最近気がついたのだが、親意識の強い人は、ついでに夫意識が強く、さらに叔父意識、叔母意識も強い。さらに、兄意識も強く、従兄弟(いとこ)に対しても、ほんの数才しか年がちがわないのに、年長意識も強い。

 だから親風を吹かす。夫風を吹かす。叔父、叔母風を吹かす。兄風を吹かす。年長風を吹かす。はたから見れば、(つまりそういう意識のない人から見れば)、バカげているのだが、本人は、そうでない。(上意識)だけで、いっぱしの人物のつもりでいる。

 こういうのを総称して、「権威主義」というが、いまだにその権威主義にこだわっている人は、少なくない。言うまでもなく、権威主義にこだわればこだわるほど、まわりの人たちの心は離れる。それに気がつかないのは、本人だけということになる。

 だから子どもでも、兄弟、姉妹は、名前、もしくは愛称で呼ばせるようにしたほうがよい。そのほうが上下意識がなくなり、その分だけ、「友」として、相手を迎え入れるようになる。

 が、それだけではない。

 親から見れば、兄弟、姉妹は、自分の子どもであり、同じように、兄弟、姉妹も、それなりに仲がよいはずと考えがちである。しかしこれは誤解。

 実際には、兄弟、姉妹でも、他人以上に憎しみあい、疎遠になっているケースは、ゴマンとある。むしろそういうケースのほうが多い。が、それを公(おおやけ)に口に出して言うことができない。だから、自分で自分のクビをしめてしまう。「兄だから」「弟だから」と。そういうケースも、少なくない。

 たとえば私の兄についても、そうである。私より9歳も年上ということもある。子どものころ、いっしょに遊んだという記憶さえない。そういう兄が、数年前、認知症なった。

 一応、私は弟だから、兄のめんどうをみなければならない。それはわかる。しかし「兄だから、お前は愛情を感じているはず」と、一方的に押しつけられると、言いようのない反感を覚える。兄といっても、弟の私から見れば、他人に近い。同年齢の従兄弟たちのほうが、ずっと親近感がある。

 つまりこうした家族のクサリ(=自我群)に苦しんでいる兄弟、姉妹も、多いということ。

 では、どうするか。

 そのひとつの方法というわけではないが、私の教室(BW)では、ある学年(小学3、4年)になると、兄弟、姉妹は、できるだけ同じクラスで教えるようにしている。その学年になると、それぞれの子どもの進度にあわせて、個別レッスンをするので、技術的には可能である。

 こうすることによって、兄弟、姉妹は、たがいにたがいを刺激しあう。が、それだけではない。思い出を共有することによって、将来にわたって、仲がよくなる。

 が、こういう指導に対して、疑問をもつ父母も少なくない。

 「兄(姉)が、劣等感を覚えないか」と。たとえば年が離れていない兄弟のばあい、弟のほうが兄より、勉強がよくできるというケースもないわけではない。

 しかしそれは、指導力でカバーできる問題と考えてよい。さらにその前提として、生まれながらにして、上下意識がなければ、気にすることはない。そのためにも、兄弟、姉妹には、上下意識をもたせないほうがよい。その前に、親自身も、上下意識をもたないほうがよい。

 親風、ナンセンス。夫風、ナンセンス。兄風、ナンセンス。

 最後に一言。

 私たちは自分の子どもを、たとえば、「お兄ちゃん」と呼ぶことによって、無意識のうちにも、子どもに上下意識を植えつけていることを忘れてはいけない。中には、さらに積極的に、「あなたはお兄ちゃんでしょでしょ!」「お兄ちゃんらしくしなさい!」と、兄意識を強制する親だっている。

 まことにもって愚かな指導法ということになるが、このつづきは、またの機会に!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 兄弟 姉妹 上下意識 権威主義 兄の育て方 姉の育て方)

(付記)

 日本人は、もともと家父長意識の強い民族である。またそういう土着的な意識を、文化風習として背負っている。江戸時代という、とんでもない封建主義時代が、300年以上もつづいたこともある。

 だからいまだに、この権威主義が、大手を振ってのさばっている。またそれを「国家の品格」と位置づけている人さえいる。

 しかし権威主義が、いかにバカげているかは、ほんの少しでもオーストラリア人でもよいが、そういう人たちとつきあってみると、わかる。夫婦でも、おもしろいほど、上下意識がない。食後でも、夫と妻が台所に並んで、洗いものをしている。

 もちろん兄弟、姉妹でも、愛称で呼びあっている。仲がよいというよりも、友として、相手を認めあっている。(だから反対に、友でなければ、兄弟、姉妹でも、他人のように疎遠になるというケースも、ないわけではない。)

 つまり(家族)という概念に、日本人ほど、強くはしばられていない。たがいにサバサバとしている。横で観察していると、そんな印象をもつ。

 要するに、「兄弟(姉妹)だから仲がよいはず」「たがいに愛情を感じているはず」と、子どもに、それを押しつけてはいけない。これはこれからの子育ての第1歩ということになる。


●臭い子、嫌われっ子

2006-11-30 10:38:42 | Weblog

● 臭い子ども

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嫌われっ子の三大理由のひとつが、
「臭い子」。

子どもは、おとなよりも臭いに
はるかに敏感。臭い子が、いじめの
対象になることも多い。

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 以前、嫌われる子について、調査したことがある。まず、その原稿を、ここに紹介する。

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●嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、(1)不潔で臭い子ども。(2)陰湿で性格が暗く、静かな子ども。(3)性格が悪い子ども、ということがわかった(小4児、30名について調査)。

 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」「髪の毛が汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばかりほじっている」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽい」など。子どもというのは、おとなより、においに敏感なようだ。

 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何もしゃべらない」など。「静か」というのもあった。

私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味だ」と。

 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自慢話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」など。一人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。

 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いということ。とくに(1)の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌われっ子、親の責任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。


 A君(中1)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親もそれに悩んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭とも言えない、何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に問題があるようだが、本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風呂では、体をよく洗うのだぞ」と。

が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたという思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出ていってしまった。

 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなでるが、中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこで忠告しようと思ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!

 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑にからみあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたちが考えているほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でしかない。

ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも嫌われているということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。いじめの問題についても、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界を論ずる傾向がある。が、それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、ここであえて、嫌われっ子の問題を取りあげてみた。

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 実は、最近も、同じような問題に直面している。小学x年生の女の子である。その子どもなのだが、とにかく、臭い。生理が始まっているのか、そのころになると、とくに、臭い。腐敗臭というか、病臭というか、ムッとするほど、不快な臭いである。

 臭いは、どうやら、下半身から出ているようである。髪の毛や体は、それほど臭くない。風呂での体の洗い方に問題があるようだ。で、ワイフに相談すると、こう言った。

 「その年齢の女の子は、無頓着だから、あのあたりを風呂でも洗わないのね。それで臭いのよ」と。

 そこで私は、そのことを母親に告げるべきかどうかで、ここ数か月、悩んでいる。こういうケースでは、どんな告げ方をしたところで、私とその女の子の間に、大きなキレツを入れてしまう。そのまま私の教室をやめてしまうこともある。「嫌われた」と判断してしまうからである。

子どもというのは、自分の臭いのことを指摘されると、どういうわけか、過剰に反応する。他人の臭いに敏感であった分だけ、今度は、自分のこととなると、それが許せないらしい。私も、息子の口臭を指摘したことがある。が、それだけで、大喧嘩になってしまった。

 だから悩んでいる。本来なら、親に告げるべきである。それはわかっている。しかし親自身が、娘の立場になって、怒ってしまうこともある。あるいは親自身が、臭いということも珍しくない。冒頭で、「子どもは、臭いに敏感である」と書いたが、この問題は、そんな単純なものではない。

 では、どうするか?

 こうした問題は、こうして一般論として書くことによって、それぞれの親に、自分で判断してもらうしかない。「うちの子はどうか?」と。

 一度、あなたの子どもの臭いについて、考えてみてほしい。この問題だけは、子どもの世界では、決して、軽く考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 いじめられっ子 いじめ 子どもの体臭 臭い 嫌われっ子 はやし浩司 臭い子)


●東洋哲学と西洋哲学の融合

2006-11-29 11:45:25 | Weblog
【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】

●生・老・病・死

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生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

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 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

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●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

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●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進についても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

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 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の集合を見る。

 そのサルトルの「無の概念」について書いた原稿が、つぎのものである。

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【自由であること】

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自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

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 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)


●AO入試

2006-11-22 10:11:20 | Weblog
●AO入試

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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

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●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなものもあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行っているというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトより)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようである。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

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 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


***************以上、1650作*****************


●自由について

2006-11-19 08:15:28 | Weblog

【「自由」について】

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昨日、あるところで講演をしたとき、
少しだが、私の「自由論」を話した。

サルトル、ボーボワールという、どこか
古典的な哲学者の名前も出した。

しかし、今、サルトルとかボーボワール
という名前を知っている人は、どれほど
いるだろうか。

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●自由の限界

 いくら「私は自由だ」と叫んだところで、その「私」には、無数の糸がからんでいる。父親としての糸、夫としての糸、家族の一員としての糸、男としての糸、社会的人間としての糸、さらには人間そのものとしての糸。

 行動の自由はともかくも、魂の自由となると、自らを、その「糸」から解放させるのは、容易なことではない。たとえば私がもっている、「意識」にしても、「私の意識」と思い込んでいるだけで、本当は、だれかによって作られたものかもしれない。

 よい例が、カルト教団の信者たちである。

 彼らは、みな、一様に、満ち足りたかのような笑みを浮かべている。本当は、思想を注入されているだけなのに、それを(自分の思想)と思い込んでしまっている。中には、常識はずれな行動を平気でする人もいる。

 ためしにそういう人たちに、こうたずねてみるとよい。「あなたたちは、自分で考えて行動していますか」と。すると彼らは、まちがいなく、こう答える。「私たちは、自分の意思で、行動しています」と。

 今の私は、カルト教の信者とはちがうと思っている。しかし、実際には、それほどちがわないのかもしれない。

 加えて本能の問題もある。

 先週も、ある温泉に泊まったが、実に無防備な温泉であった。近くに露天風呂があったが、のぞこうと思えば、いくらでものぞけた。そこには、素っ裸で入浴している女性たちがたくさんいたはず。

 近くに行けば、素っ裸の女性たちを見ることができたかもしれないが、結局は、私は、その場所をわざと遠回りをして、避けた。

 つまり女性の裸に興味をもつのは、本能がそう思わせるだけであって、決して、「私」ではない。私が見たいと思うのではなく、私ではない「私」が、私にそう思わせただけ。

 ……こう考えていくと、自由を問題にする前に、どこからどこまでが、(私の意識)であり、どこから先が、(作られた意識)なのか、わからなくなってくる。

 さらに加齢とともに、ボケの問題も、それに加わる。

 頭のボケた人を見ていると、自分がボケたことすら、気がついていないことがわかる。つまりボケといっても、程度の問題。「私はボケていない」と思っている私やあなたにしても、すでにボケは、始まっているのかもしれない、などなど。

 そこで、あのジャン・ポール・サルトル(1905~1980)。サルトルは、1938年に『嘔吐(はきけ)』という本を発表している。その中で彼は、「すべてが消えうせたあと……淫乱な裸形だけが残った」というようなことを書いている。

 私自身は、そんな気分になったことはないが、理屈の上では、理解できる。

 私が今、この目で見ているものにしても、「見ている」と思っているだけで、実は、脳の後頭部にある、視覚野に映し出された映像を、脳みそが感知しているに過ぎない。しかも、見ているものといっても、ある特定の波長の中にある、光の映像でしかない。

 そこにものがあるのか、ないのかということになれば、本当にあるのだろうか。今の今も、パソコンの画面をこうして眺めながら文字を書いているが、パソコンと私の間には、酸素分子や窒素分子がぎっしりと詰まっているはず。しかしそういうものは、見えない。分子の密度ということを考えるなら、パソコンを構成している金属やプラスチックの分子と、ほとんどちがわない。

 見えているもの、聞えているものだけをもとに、自分を組み立てていくと、とんでもない袋小路に入ってしまう。つまり私たちが言うところの意識には、そういう危険な側面が隠されている。そういう危険な側面を知らないまま、いくら魂の自由を説いても、意味はない。

 むずかしい話はさておき、自由に生きるということは、それ自体、不安と孤独との戦いであると断言してもよい。頼れるものは、私だけという世界である。サルトルが説いた「実存」という世界は、そういう世界をいう。だからみな、こう言う。「(実存の世界では)、一寸先は闇である」と。

 わかりやすく言えば、明日さえ、どうなるかわからない。さらに「私は自由だ」といくら叫んだところで、やがて「死」という限界の中で、人は、その自由を、すべて奪われる。つまり究極的な自由というのは、存在しないということになる。そこでサルトルの場合は、『存在と無』(1943)という言葉を使って、実存がもつ限界を打ち破る。

 昨日の講演では、それについて話した。もっとも、主題は、「子育て講演」だったから、私の子育て論の中に、それを織り交ぜただけだが、ともかくも、それについて話した。が、本当のところ、自分でも、よくわかっていない。わかっていないことを話したわけだから、無責任といえば、無責任。

 そんなわけで、これからはしばらくもう一度、「自由」について、集中的に考えてみたい。今朝が、その第一歩ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

● 子育てのすばらしさ

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子育ては、ただの子育てではない。
子どもは、ただの子どもではない。

親は、子育てを通して、その子どもから
貴重なものを学ぶ。

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●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられること。ある母親は自分の息子(3歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。

いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。

子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●自由が育てる常識 

+++++++++++++++

私たちが求める常識といったものは、
外の世界にあるのではない。

私たちの中にある。中にあって、
私たちに見つけてもらうのを、
静かにまっている。

+++++++++++++++

 魚は陸の上にあがらない。鳥は水の中にもぐらない。そんなことをすれば、死んでしまうことを、魚も鳥も知っているからだ。そういうのを常識という。

 人間も同じ。数10万年という気が遠くなるほどの年月をかけて、人間はその常識を身につけた。その常識を知ることは、そんなに難しいことではない。自分の心に静かに耳を傾けてみればよい。それでわかる。たとえば人に対する思いやりや、やさしさは、ここちよい響きとなって心にかえってくる。しかし人を裏切ったり、ウソをついたりすることは、不快な響きとなって心にかえってくる。

 子どもの教育では、まずその常識を大切にする。知識や経験で、確かに子どもは利口にはなるが、しかしそういう子どもを賢い子どもとは、決して言わない。賢い子どもというのは、常識をよくわきまえている子どもということになる。映画『フォレスト・ガンプ』の中で、ガンプの母親はこう言っている。「バカなことをする人を、バカと言うのよ。(頭じゃないのよ)」と。その賢い子どもにするには、子どもを「自由」にする。

 自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。無責任な放任を自由というのではない。つまり子ども自らが、自分の人生を選択し、その人生に責任をもち、自分の力で生きていくということ。

しかし自らに由りながら生きるということは、たいへん孤独なことでもある。頼れるのは自分だけという、きびしい世界でもある。言いかえるなら、自由に生きるということは、その孤独やきびしさに耐えること、ということになる。子どもについて言うなら、その孤独やきびしさに耐えることができる子どもにするということ。

もっとわかりやすく言えば、生活の中で、子ども自身が一人で静かに自分を見つめることができるような、そんな時間を大切にする。

 が、今の日本では、その時間がない。学校や幼稚園はまさに、「人間だらけ」。英語の表現を借りるなら、「イワシの缶詰」。自宅へ帰っても、寝るまでガンガンとテレビがかかっている。あるいはテレビゲームの騒音が断えない。友だちの数にしても、それこそ掃いて捨てるほどいる。自分の時間をもちたくても、もつことすらできない。だから自分を静かに見つめるなどということは、夢のまた夢。

親たちも、利口な子どもイコール、賢い子どもと誤解し、子どもに勉強を強いる。こういう環境の中で、子どもはますます常識はずれの子どもになっていく。人間としてしてよいことと、悪いことの区別すらできなくなってしまう。あるいは悪いことをしながらも、悪いことをしているという意識そのものが薄い。だからどんどん深みにはまってしまう。

 子どもが一人で静かに考えて、自分で結論を出したら、たとえそれが親の意思に反するものであっても、子どもの人生は子どもに任せる。たとえ相手が幼児であっても、これは同じ。そういう姿勢が、子どもの心を守る。そしてそれが子どもを自由人に育て、その中から、心豊かな常識をもった人間が生まれてくる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●過去を再現する親たち

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私たちは無意識のうちにも、過去を
引きずりながら生きている。

つまり私であって私でない部分に、
いつも引きずられながら生きている。

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 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に襲われる。

受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。

実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。…どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々とすぎる…。

 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それだけではない。

こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも、「父親を尊敬していない」と答えた中高校生は、55%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高校生は、80%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてればたてるほど、子どもの心は親から離れる。

 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。…とたん、少し大げさな言い方だが、私の魂は解放された!

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで…。まず自分の過去に気づく。それで問題は解決する。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

【今を生きる】

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今を生きる。
口で言うのは簡単なこと。
しかしその「今」を生きることは、
たいへんなこと。きびしい。

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●いつか死ぬ。だから生きる。

 病気があるから、健康のありがたさが、わかる。同じように、死があるから、生きることのありがたさが、わかる。

 もし病気がなかったら、健康のありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 もし死がなかったら、生きることのありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 しかし病気も、そして死も、できれば、避けたい。病気はまだしも、死は、その人の(すべての終わり)を意味する。つまり人は、死によって、すべてをなくす。「私」という自分のみならず、この宇宙もろとも、すべてをなくす。

●生きることの不安

 ……そう考えることは、たいへん不安なことである。つまり死ぬことを考えると、不安でならない。しかしその不安が、「今」を生きる、原動力となる。「かぎりある人生だからこそ、今を懸命に生きよう」と。

 こうした死生観、それにつづく「不安」を説いたのが、あのドイツのマルティン・ハイデッガー(1889~1976)である。ハイデッガーは、フライブルク大学の総長をしていたとき、ナチス支持の演説をしたことで、戦後、批判の矢面(やおもて)に立たされた。そういう側面は別として、彼が残した業績は大きい。実存主義の骨格を作ったと言っても過言ではない。

 ハイデッガーの説いた、「存在論」、「実存論」は、その後、多くの哲学者たちに、大きな影響を与えた。

●不安との戦い

 で、話を少し、もどす。その不安を感じたとき、どうすれば、人は、その不安を解消できるか。つまり生きることには、いつも、何らかの不安がともなう。それはたとえて言うなら、薄い氷の上を、恐る恐る、歩くようなもの。その薄い氷の下では、いつも「死」が、「おいでおいで」と、手招きしている。そういう不安を、どうすれば解消することができるか。

 そういう点では、実存主義は、たいへんきびしい生き方を、人に求めるていることになる。今を生きるということは、「私は私であって、私にかわるものは、だれもいない」という生き方のことをいう。

 たとえば地面を歩くアリを見てみよう。

●私しかできない生き様

 あなたがある日、その中のアリを一匹、足で踏みつけて殺してしまったとする。しかしそれでアリの世界が変わるということはない。アリの巣はそのまま。いつしかそのアリの死骸は、別のアリによって片づけられる。そのあと、また何ごともなかったかのように、別のアリがそこを歩き始める。

 そういうアリのような生き方をする人を、ハイデッガーは、「ただの人」という意味で、「das Mann」と呼んだ。わかりやすく言えば、生きる価値のない、堕落した人という意味である。

 今を生きるということは、だれにも、自分にとってかわることができないような生き方をすることをいう。社会の歯車であってはいけない。平凡で、単調な人生であってはいけない。私は、どこまでも私であり、私しかできない生き方をするのが、「私」ということになる。

●宗教

 少しわかりにくくなってきたので、話をわかりやすくするために、こうした生き様の反対側にある、宗教を考えてみる。

 ほとんどの宗教では、「あの世」「来世」を教えることによって、この世を生きる私たちの不安を、解消しようとする。「あの世がちゃんとあるから、心配するな」と。

 つまりほとんどの宗教では、死後の世界を用意することで、「死」そのものを、無意味化しようとする。実際、あの世があると思うことは、死を前にした人たちにとっては、それだけでも、大きな救いとなる。あの世に望みを託して、この世を去ることができる。

 しかし実存主義の世界では、あの世は、ない。あるのは、どこまでも研ぎ澄まされた、「今」しかない。が、そうした「今」に、耐えられる人は、少ない。私が知る人に、中村光男がいる。

●中村光男

 一度だけ、鎌倉の扇が谷の坂道で、すれちがったことがある。中村光男の自宅は、その坂道をのぼり、左側の路地を入ったところにあった。恩師の田丸先生が、小声で、「あれが中村光男だよ」と教えてくれた。私は、それを見て、軽く会釈した。

 その中村光男は、戦後の日本を代表する哲学者であった。ビキニ環礁での水爆実験の犠牲となった、第5福竜丸事件以来、反核運動の旗手として活躍した人としても、よく知られている。

 その中村光男ですら、死ぬ1週間前に、熱心なクリスチャンであった奥さんの手ほどきで、洗礼を受け、クリスチャンになったという。何かの月刊誌にそう書いてあった。

 私はそれを知ったとき、「あの中村光男ともあろう人物が!」と驚いた。つまり「死」は、それほどまでに重大で、深淵である。だから今の私には、実存主義的な生き方が、はたして正しいのかどうか、わからない。またそれを貫く自信は、ない。

●あの世はないという前提で生きる

 だがこれだけは言える。

 私は、今のところ、「あの世」や「来世」は、ないという前提で生きている。見たことも、聞いたこともない世界を信じろと言われても、私にはできない。だから死ぬまで、懸命に生きる。私でしかできない生き方をする。

 あの世というのは、たとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たればもうけものだが、しかし最初から、当たることを前提にして、予算を立てるバカはいない。

 その結果、いつか、死ぬ。私とて、例外ではない。で、そのとき、あの世があれば、もうけもの。なくても、私という(主体)がないのだから、文句を言うこともない。

●そこで私は……

 そのハイデッガーは、1976年に死去している。私がこの浜松で、結婚し、ちょうど二男をもうけたころである。彼の死が、全国ニュースで報道された日のことを、私は、つい先日の日のように、よく覚えている。その少し前の1970年に、あのバートランド・ラッセルが死んでいる。実存主義の神様と言われる、(実存主義の神様というのも、矛盾した話だが……)、ジャンポール・サルトルは、1980年に死んでいる。

 みんな、どんな気持ちで死んだのだろうと、今、ふと、そんなことを考えている。

 そうそう中村光男だが、田丸先生の家の前の家に住んでいた。で、彼が死ぬ1週間前に、クリスチャンになった話を田丸先生にすると、田丸先生は、どこか感慨深げに、ポツリとこう言った。「あの中村さんがねえ……」と、

 田丸先生も、それを知らなかったらしい。

 このエッセーをしめくくるために、最後に一言。

●ドラマにこそ、価値がある

 こうしてみなが、それぞれ一生懸命に生きている。その生きることから生まれるドラマにこそ、私は、価値があると思っている。実存主義であろうと、なかろうと、そんなことは構わない。だれが正しいとか、正しくないとか、そんなことも、構わない。

私は、そのドラマにこそ、人間の生きることのすばらしさを感ずる。
(06年6月15日の夜に……)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ハイデッガー サルトル ジャンポール・サルトル バートランド・ラッセル 実存主義 はやし浩司 存在論 実存論)

●親子の断絶度テスト

2006-11-14 12:09:38 | Weblog
【親子の断絶が始まるとき】 

●最初は小さな亀裂
最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って……」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されているはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休まる場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(学外研・98年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。(1)権威主義、(2)相互不信、それに(3)リズムの乱れ。

(1) 権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。

「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のもと、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心は離れる。

(2) 相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなものだ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。

(3) リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、(1)あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。

親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」
子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

● リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が4拍子で、子どもが3拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、2つの曲を同時に演奏すれば、それは騒音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くということ。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば4時間おきにミルクを与えることになっていたとする。そのとき、4時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの口に押しつける親もいれば、反対に4時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親もいる。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、なかなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとなになってからも、だ。

ある女性(32歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※ ……平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(参考)

●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育てを診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの心の中を知るのが、このテスト。


Q1 あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。


Q2 学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めているる(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。


Q3 「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは……。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★ 少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。

★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
Q4 何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。


Q5 休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。

(評価)
15~12点…目下、断絶状態
11~ 9点…危険な状態
8~ 6点…平均的




●断絶した親子

2006-11-14 11:28:35 | Weblog
●K県のRさんより

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K県のRさんより、メールが届いた。
息子たちと断絶状態にある。どうしたら
いいかという相談があった人である。

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【Rさんより、はやし浩司へ】

以前、高校1年の息子と断絶状態にあると相談したものです。マガジンの方を読みました。ありがとうございました。

あれから私の子供時代の記憶をたどっていきました。自分ができなかったことを、息子にさせ、して欲しかったことをしてやり、きっと子供にとっては、自分の行く先々を先回りして、寄り道さえも軌道修正している、うっとおしい親だったのではないかと思っています。

子供のことも振り返り、今思えば何度もSOSを発信していたのに、単なる愚痴のようにとらえてしまっていました。

上の子(現在、高3)が、中学校に入学してから、次男(現在、高1)は、次第に素行不良になり、次男は中学に入学したとき、(そのとき長男は中3)、「お前はあの○○の弟だろう」と言われて、嫌な思いをしていたようです。

長男は高校に1年通いましたが、学校についていけず退学。その後通信制の高校に入学、バイトなどをし、不規則な生活で、普通ではない家庭でした。

長男(キレやすい)とは、派手に何度ももめました。食卓も一緒に囲めない、顔も合わせない、深夜徘徊はするという状態が続き、なるようにしかならないとあきらめてからは、彼もいくらか落ち着き、(でも今でもキレやすいですが)、卒業後の就職のことを考えるまでになりました。これからは歩いていく子供のうしろ姿を応援しながら、見ていけるように努力したいと思います。いつの日かまた会話ができる日が来るのを待ちながら.……。

相談にのっていただき本当にありがとうございました。もっと早くに先生のHPを知っていれば長男のときも、ここまでこじれずに済んだかも知れません。これからもここを愛読させていただきたいと思います。

【はやし浩司よりRさんへ】

 「どこの家庭も似たようなものですよ」という言い方は、適切ではないかもしれません。しかしあえて言えば、どこの家庭も似たようなものです。

 親子が仲よく、静かに会話をしあっている家庭など、今という時代には、さがさなければならないほど、少ないです。つまり親子というのは、もともとそういうものだという前提で、こうした問題を考えてください。

 1日のうち、一言、二言、会話があれば、まだよいほうです。あいさつさえ交わさない親子も、珍しくありません。要するに、子どもには期待しないこと。

 が、子どもが、幼児や小学生のころは、そうでない。どんな親も、「うちの子にかぎって」とか、「うちの子は、だいじょうぶ」とか、思いこんでいます。「休みには、どこかへ行こうか」と声をかけると、喜んでついてきます。

 しかしその歯車が、どこかで狂う。狂って不協和音を流し始める。最初は、小さな不協和音です。その不協和音が、どんどんと増幅し、やがて手に負えなくなる。が、その段階でも、それに気づく親は、まずいません。「まだ、何とかなる」「まさか……」と思う。思って無理をする。子どもの心に耳を傾けない。

 親にしてみれば、あっという間の短い期間かもしれませんが、子どもにとっては、そうではありません。その(あっという間)に、子どもの心は、親から離れていく。本当に、あっという間です。が、親のほうは、過去の幻想にしがみつく。「そんなはずはない」とです。

 しかし大きく見れば、それも巣立ちなのですね。いつまでも、「パパ」「ママ」と言っているほうが、おかしいのです。またこの日本では、(学校)というコースからはずれることイコール、(落ちこぼれ)と考える傾向があります。が、そういう(常識)のほうが、おかしいのです。

 そんなことは、ほんの少し、目を世界に向ければ、わかることです。日本の(常識)は、決して、世界の(常識)ではありません。

 だから今のままでよいですよ。コツは、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、静かに様子を見る」です。あとは、『許して、忘れ、時を待つ』です。これを繰りかえしてください。

 あなたの子どもは、あなたの深い愛情を感じたとき、必ず、あなたのところに戻ってきます。そのときのために、今のあなたができることは、部屋の掃除をして、窓をあけておくことです。

 そして大切なことは、あなたはあなたで、自分の人生を生きる。前向きに、です。こうした問題は、あなたが前向きに生き始めたとき、自然消滅の形で、解決します。ですから、こう宣言しなさい。

 「あなたたちはあなたたちで、勝手に生きなさい。私は、私で勝手に生きるからね。ついでにあなたたちの分まで、がんばってやるからね」と。

 子どもといっても、いつか、あなたを1人の人間として、評価するときがやってきます。そのとき、その評価に耐えうる人間であればよし。そういう自分をめざします。

 あとは、どういう状態になっても、あなたはあなたの子どもを信じ、支えます。おかしな(常識)にとらわれないで、子どもだけをしっかりと見つめながら、そうします。

 幸いなことに、あなたの子どもには、それ以上の問題はないようです。今どき、不登校など何でもない問題です。またキレやすいという部分については、思春期の病気のようなものです。神経が過敏になっていますから。心の緊張感がとれないで、苦しんでいるのは、子ども自身です。

 相手にせず、あなたはあなたで勝手なことをすればいいのです。相手にしたとたん、それが子どものためではあっても、子どもは、それに反発します。まあ、何と言うか、そういうときというのは、被害妄想のかたまりのようになっていますから。心理学でも、そういった状態を、「拒否反応」と呼んでいます。そういうときは、何を言ってもムダと心得ることです。

 「親である」ということは、たいへんなことです。だったら、親であることを忘れてしまえばいいのです。「私は親だ」という気負いがある間は、子どもは、あなたに対して心を開くことはないでしょう。

 こんな原稿を書いたのを、思い出したので、ここに添付します。

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【親が子育てで行きづまるとき】

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の2人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。

なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。

息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。

私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、2時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。

仮にこれらの子どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。

そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。

もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを3枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。

とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++

 今のRさんには、たいへんきびしい意見かもしれませんね。わかっています。しかしこれで冒頭に書いた、「どこの家庭も似たようなものですよ」の意味が、わかっていただけたものと思います。

 今の今も、実は、「これではまずいなあ」と思われる親子がたくさんいます。しかし私のような立場のものが、それにとやかく口をはさむのは、許されません。相手が相談してくれば、話は別ですが、それまでは、わかっていても、わからないフリをする。そういう世界です。

 そういう意味では、もっと、多くの人の、私のマガジンを読んでほしいと願っていますが、それとて、相手の決めることですね。

 これからも、末永く、ご購読ください。よろしくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子の断絶 会話のない親子 思春期の子ども)


●子どもの依存性

2006-10-17 07:31:41 | Weblog
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親子のきずなを深める法】

親子のきずなが切れるとき 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国15%。親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青少年研究所・98年調査)。

日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけないと考えている高校生が、ダントツに少ない。

こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家O氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうなのか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人主義が進んでいるということはありえない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかしい。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数は! 平均点は何点だったの?」と。

さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子どもからやる気をなくす。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子の信頼感、さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「85%」という数字は、まさにその結果であるとみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまってしまった。R氏には2人の娘がいた。1人は大学1年生、もう1人は高校3年生だった。R氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費が難しくなった。

そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻まで、「生活ができない」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。「家族って、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてきた。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因でないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」という言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を変えてみたら……。

たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気楽にやりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子どもがテストの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりなよ」と。この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでやる気を起こす。   


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【子どもの心が離れるとき】 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(2000年夏)。「私は母の女手一つで、育てられました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。

はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。50歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととして、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、3番まであるが、それぞれ3、4行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたはどう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまうに違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきである。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中2男子)がいた。自分のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならない。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。

子どもを育てるために苦労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」というが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査結果がある。

平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。

私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリーハンド、である。

ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※ ……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六年)は、次のようになっている。

 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%
 日本の若者のうち、55%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供の自立 子どもの自立 生活 自立 子どもの依存心 依存性 子供の依存心 依存性 親に依存する子供)