拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【6】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



5.明治の味を紡ぐ店
 
 今まで書いてきたように、淺草來々軒のスープは、大正7・8年ごろ一度大幅な“改良”をされていたのではなかろうか。そうでも考えない限り、今まで書いてきたことへの説明が難しい。特に丸デブの存在自体、あるいは丸デブのスープの味の説明ができないのである。

 明治末期、淺草新畑町に開業した來々軒。支那蕎麦スープは、大正7年ごろを境におそらく大きく変わった。
 
 当初は、淺草來々軒のスープはあくまで日本蕎麦の「つゆ」を意識したものだった。そしてそれは大正6年まで淺草來々軒に在籍していた神谷房治氏の手により岐阜「丸デブ」に引き継がれて今に至る。さらに言えば丸デブの現在の店主が語るように「創業以来、何一つ味を変えていない」と。


丸デブ(岐阜市内)外観と中華そば。2021年6月撮影

 そして、おそらく1918(大正7)年前後に今までの、蕎麦つゆに似ていたスープをガラリと変えた。豚(おそらくは豚足中心)メインの、脂っぽいスープは、今まで日本人が食べたことのない、「本物の支那蕎麦」の味と感じさせるものだった。けれどそれは、穴川の進来軒のスープを飲んでみれば分かるように現代であれば「ちょっと豚の主張が強いな」程度に過ぎないもの。当時は豚出汁のスープなぞ他所では味わえないものであったから、淺草來々軒の支那蕎麦のスープは、動物系の出汁が突出して感じたことであろう。

 もちろん、これはボクのあくまで想像であるから、声高に「これが絶対正しい」などと言うつもりなぞさらさらない。けれど、もしかすると正しいかも知れない。

 淺草來々軒誕生からもう百年以上。内神田に移って店を閉じてからだって45年も経過したのである。もう、だれも、だれ一人として真実を知るものはいない。謎は謎のまま置いておいて、さまざま想像して、想いを巡らすのも、いいものだと思う。

 前章ほどではないが、今回の分量はそれでも400字詰め原稿用紙110枚超に及ぶ。体裁を整えれば130枚から140枚ほど、といったところか。前章と併せれば費やした時間はさて、いかほどだろうか。

 冒頭、ボクはがんサバイバーであることを書いた。2021年6月現在、大腸から肺に転移したがん細胞は、今のところCTなどでは見つかっていない(注・続きがある)。しかし、腫瘍マーカーの値は肺の手術前とさほど変わらず、ちょっと高いまま。おそらくは、CTにも映らない小さながん細胞がたくさんあるのだろう。ボクの免疫力が高ければ、がん細胞は死滅する。けれど逆であれば、いずれまたどこかの場所で現れ、正常細胞を破壊していく。あと何年、この世にいられるのだろうか。だからこそ、こうした文章を残して置きたいと思うのである。

 研究会には心からの敬意を表し、大崎裕史氏に改めて感謝申し上げ、ボクの、長かった淺草來々軒の物語を締めくくろう。

 皆様、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 また、いつか、どこかで。



※これを書いてUPしたあとの、2021年7月下旬、ボクは先に受けた血液検査の結果、「腫瘍マーカー(CEA。大腸がんなどがあると値が高く出る)」の値が4月に受けた検査結果より8倍の数値を示している、それは強くがんが疑われる数値であり、おそらく再発・再転移だろうと主治医から告知された。8月中旬からまた数種の検査を受け、9月初旬にはどこの部位にあるか分かる。三度目の告知であるから、諦めはしないが、覚悟を決めている。またどこかで報告することがあるかも知れないが、これが最後の原稿になるかも知れない。

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 ・・・ほう、便利になったもんだ。高山本線が全線開通してから僅か二か月後に快速列車が走るんだものな。岐阜まで行って、そこからは東海道線で東京でも岡山でも、いやいや山陽本線の下関までも行けるんだから。俺は今日、これから、ここ富山から岐阜まで行ってな、あの店で中華そばを食うんだ。なんでもアノ店は、東京の有名な支那そば屋で修業した主人が開いたそうだ。そうそう、淺草の來々軒っていう店で修業したんだってな。
 東京か・・・懐かしいなあ。俺が東京で働いていたのは、支那そば屋ではないけど、北京料理を出していたからな、麺料理だってあった店さ。芝浦、だったんだよな、店の場所は。東京って言っても広いけどな、淺草は東京一の大繁華街だからな、俺だって何度か行ったんだ。もちろん、來々軒の支那そばも喰ったが、正直、來々軒より五十番とか、淺草大勝軒のほうが客は入っていたよな。
 俺はもうすぐな、高山に移ってさ、割烹で働く予定だけど、夜になると芸妓が腹を空かせて困っているそうって聞いているんだ。その娘(こ)たちのためにさ、そのうち中華そばの屋台を引こうかな、なんて思ってるんだ。その参考にしようという訳さ。それには大正末期まで大繁盛した淺草來々軒で修業したオヤジの店で喰うのがいいかなって思ってるんだ。
 ・・・おお。来た来た。この汽車だ。まずは高山まで行って、それから快速列車に乗り換えて岐阜駅に行くんだ。駅弁も買ったしな。さあ、出発と行こうじゃないか・・・

 ・・・2.26事件が勃発し世間は揺れ、安倍定事件で人々はざわつき、ベルリン五輪の「前畑ガンバレ」実況に皆ラヂヲにかじりついたこの時は、1936(昭和11)年、である。こう呟いた男の名は、坂口 某。数年のち、飛騨高山で開いた中華そば屋を大繁盛させた男である。

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 ・・・坂口 某 が、富山駅でつぶやいた頃から遡ること20年弱。
 
 そう、時は1917(大正6)年である。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていないのである。

 「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。

 ・・・この日、淺草來々軒の店主・尾崎貫一は、従業員であった神谷房治を見送りのために東京駅に来ていた。神谷は数年に渡る淺草來々軒の修業を終え、故郷の岐阜に帰るのである。
 
 「ありがとうございます。最初は屋台を引きますが、きっと短い数年で店を構えます。旦那様から教わった來々軒の味、必ず守っていきます」「おう、それはありがたいことだ。そうそう、屋号はな、客の皆が『丸デブ』ってお前さんのことを呼んでいたから、それにしたらどうだ」「ハハハ。それはないでしょう。でも考えておきます」「達者でな」「旦那様も」。

 尾崎は店の者に作らせたシウマイを取り出し、神谷に渡す。「いくら特別急行列車と言え、岐阜までは10時間以上の長旅だ。汽車の中では腹も減るだろう。これでも喰えや。お前の好物、シウマイだ」「ありがとうございます。來々軒のシウマイは絶品ですもんね」。

 ポオーッツ! 東海道線・東京駅発下関行の特別急行列車の汽笛が響き渡り、車輪が鉄路の上をゆるりと走りだした。神谷は窓から身を乗り出し、ちぎれるばかりに手を振った。もちろん貫一も、である。ただ、貫一の頭の中の半分は、そこそこ繁昌している自分の店、つまりは淺草來々軒をどうやって常に客で満杯にするか、で占められていたのだった・・・

 ・・・神谷房治を東京駅で見送った尾崎貫一は、やがて自身の店、淺草來々軒の支那蕎麦のスープの改良を手掛けた。今までのスープは、日本人の味覚に合うよう、あくまで蕎麦出汁の延長線にあった。しかしそれでは、横濱の南京町の支那蕎麦より食べたときの印象が薄い。ならば、と貫一が以前から素材にと秘かに考えていたものがある。

 きっと、これだ! これを使えば「ホンモノの支那蕎麦と思ってもらえる」と。

 そう、それは豚、である。元々、中国料理では豚肉が多く使われているのだが、貫一が特に注目したのは、中国人には一般的な食の部位であるもの、あまり日本人は食べない足の部分、つまり豚足であった。そして豚骨もだ。これを出汁に使ってはどうか。少々脂っこくなるかもしれないが、きっと強い印象を客に残してくれるだろう。それに豚足や豚骨は仕入れ値も安いのである。

 試行錯誤の末、大正7年の初めにはこの豚足を使ったスープが完成した。そしてそのスープを使った淺草來々軒の支那蕎麦は、一部の客から臭い、脂がキツイなどの声も上がったが、多くの客は「これが本格的な支那蕎麦だ」と言い、高い評判を取ったのである。ある随筆家の目(舌?)にもとまり、本にも紹介されるようになった(『三府及近郊名所名物案内』)。すぐに連日、客で押すな押すなの大盛況。客が客を呼ぶとはこのことだ。もちろん、宣伝することも怠らなかった。

 一方、岐阜に戻った神谷房治は最初のうちは屋台を引いていたが、商売は順調で、間もなく岐阜市内に店を構えたのである。屋号は「丸デブ」。神谷房治は丸々と太っていて、淺草來々軒の勤務時代から「丸デブ」という渾名がついていたのだ。

 競合店が多かった東京と違い、岐阜ではまだ支那蕎麦は一般的ではなかったこともあり、蕎麦つゆの出汁に似た材料で取ったスープはたちまち噂となり、丸デブは人気店となったのである。もちろん、そのスープの味は、明治末期から大正7年頃までに淺草來々軒が客に提供していた支那蕎麦の味スープの味、そのものであった

現在の高山本線を走る特急・ワイドヴューひだ号。
2021年7月撮影

 そしてそのスープと、麺の食感は、開通して間もない高山本線を経由して、とりわけ岐阜~高山間を3時間で結んだ快速列車に坂口時宗が何度か乗り込んで丸デブに通い、飛騨高山に伝わった。そう、それこそが今日の高山ラーメンの礎となったのである。

 支那そばという、新しいジャンルの料理を東京に広めた立役者・淺草來々軒であるが、三代目尾崎一郎の出征に伴い一旦店を閉じた。終戦後、一郎が東京に戻った時、浅草や日本橋一帯は焦土と化していた。自分の家が、店が、一体何処にあったのかさえ判別できない状況であった。そしてようやく見つけた淺草の店のあったあたりは、まったく見知らぬ人たちが住み着いていたのだった。争っても無駄だった。家や店は跡形もなく焼け、土地だって誰のものなのか分からなくなっていたのだ。とにかく浅草区や下谷区は、区域の9割が燃えてしまったのだ。空襲によって10万人が焼け死に、焼け出された人間も1万や2万ではない。100万の単位であったのである。やむなく一郎は千葉の幕張に一家で移り住むことにした。それでも、中華そば店復活を何とか果たしたかった一郎は、昭和29年、東京駅八重洲口にて店を再開させた。

 『もはや戦後ではない』--経済企画庁は経済白書でこう書いたのは1956(昭和31)年のことである。一郎が店を再開させた八重洲は、いち早く復興が進み、日本経済成長のシンボルのようなところになっていた。次々とビルが建ち、サラリーマンが朝早くから夜遅くまで働く街で、八重洲來々軒はサラリーマンたちに重宝される店となった。雀荘にだって1日何十回も出前した。人が足らず、幕張の自宅の隣に住んでいた宮葉進に声を掛け、店を手伝ってもらうこうとになった。

 時は移り1975(昭和40)年。順風満帆だった一郎の八重洲の店も建て替えが必要になり、内神田に移ることになる。その店も繁盛したのだが、還暦を過ぎた頃、一郎は決断した。息子は二人いたが、店を継ぐことはなかった。幕張から通うことも辛くなり、そろそろ限界か、と。

 内神田、來々軒、閉店。

1976(昭和51)年のことである。一郎61歳。淺草新畑町で産声を上げた來々軒の、75年にわたる生涯の幕引きであった。

 引退後、一郎は八重洲來々軒で働いて、のち進来軒という店を開業した宮葉進の店に通っていたという。

2021年夏


進来軒外観とワンタンメン(千葉・穴川。2021年5月撮影)




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1 コメント

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Unknown (五郎)
2022-02-12 12:11:25
1986年ではなく1976年(=昭和51年)の誤りです。

>内神田、來々軒、閉店。
>1986(昭和51)年のことである。
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