拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【1】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月28日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※写真の撮影は、原則、著者によります。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。


新横浜ラーメン博物館内「來々軒」看板
 

 ・・・『太平洋戦争で、大阪の街は焦土と化した。食べるものがなく、スイトンや雑炊が食べられればいい方だった。芋のツルまで口にして飢えをしのいだ。阪急電鉄梅田駅の裏手、当時の鉄道省大阪鉄道局の東側は焼け野原で、そこに闇市が立った。 
 冬の夜、偶然そこを通りかかると、二、三十メートルの長い行列ができていた。一軒の屋台があって薄明りの中に温かい湯気が上がっている。同行の人に聞くとラーメンの屋台だという。粗末な衣服に身を包んだ人々が、寒さに震えながら順番が来るのを待っていた。一杯のラーメンのために人々はこんなに努力するものなのか・・・』(安藤百福・著、『魔法のラーメン発明物語』)[1]

 ・・・チキンラーメンやカップヌードルの開発者にして日清食品の創業者、安藤百福が戦後の焼け野原でラーメン屋の屋台を見つめた日から、遡ること28年。時は1917(大正6)年。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅[2]。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていない、のである。

 「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。
 ・・・この日、淺草來々軒の店主・尾崎貫一は、従業員であった神谷房治を見送りのために東京駅に来ていた。神谷は数年に渡る淺草來々軒の修業を終え、故郷の岐阜に帰るのである。
 「ありがとうございます。最初は屋台を引きますが、きっと店を構えて見せます。旦那様から教わった來々軒の味、必ず守っていきます」「おう、それはありがたいことだ。そうそう、屋号はな、客の皆が『丸デブ』ってお前さんのことを呼んでいたから、それにしたらどうだ」「ハハハ。それはないでしょう。でも考えておきます」「達者でな」「旦那様も」。
 尾崎は店の者に作らせたシウマイを取り出し、神谷に渡す。「いくら特別急行列車[3]と言え、岐阜までは10時間以上の長旅だ。汽車の中では腹も減るだろう。これでも喰えや。お前の好物、シウマイだ」「ありがとうございます。來々軒のシウマイは絶品ですもんね」。

 ポオーッツ! 東海道線・東京駅発下関行の特別急行列車の汽笛が響き渡り、車輪が鉄路の上をゆるりと走りだした。神谷は窓から身を乗り出し、ちぎれるばかりに手を振った。もちろん貫一も、である。ただ、貫一の頭の中の半分は、そこそこ繁昌している自分の店、つまりは淺草來々軒をどうやって常に客で満杯にするか、で占められていたのだった。で占められていたのだった。「スープなんだ。スープを改良すれば・・・」


 ここでおさらいである。前章のブログ「淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【1】」[4](以下、前章のブログ、という)で記したものではあるが、本題に入る前に、淺草に來々軒の歴史を簡単に記しておこう。なお、前章ブログ記述より後に判明した箇所があり、修正または追記した。

◆1857(安政4)年もしくは1858(安政5)年 創業者・尾崎貫一、下総舞鶴藩の武士の家に生まれる。明治の初め頃、横浜に転居。横浜税関に勤務する。
◆1892(明治25)年 十一月、貫一の長男、新一、誕生。のち、東京府立第三中学校(現・東京都立両国高校)を経て早稲田大学商科に進学。
◆1910(明治43)、もしくは1911(明治44)年 貫一、浅草新畑町三番地に来々軒を開業する。創業年次は両年とも記録があって、ともに可能性がある。
それを断定するのは困難である。
◆1915(大正4) 貫一の孫、後の來々軒三代目店主・尾崎一郎、誕生。
◆1921(大正10)年 來々軒は繁盛し、この年には12人の中国人コックが働く。一部に淺草來々軒は創業時より中国人コックを12人雇用したとの記述があるがそれは明らかな誤りで、淺草來々軒初代が書き残した日記風ノートに記載されているとおり、12人の在籍はこの時期である。
◆1922(大正11)年 三月、貫一死去、享年65。長男・新一が経営を引き継ぐ。
◆1927(昭和2)年三月、新一死去、享年36。妻・あさが経営を引き継ぐ。この時、堀田久助(義兄)および高橋武雄(義弟)の補佐により運営する。
◆1935(昭和10)年  20歳の一郎が家業継承。堀田久助は独立、上野來々軒を創業する。ただし、上野來々軒創業時期は、これよりも数年前の可能性がある。
◆1943(昭和18)年 一郎、出征のため、浅草の店を閉店する。尾崎一郎一家は、千葉の幕張に転居している。以後、一郎氏は幕張から八重洲、内神田の店へ‘通勤’した。なお、一郎氏には二人の子息がいたが、店を継ぐことはなかった。
◆1954(昭和29)年 一郎、東京駅近く、八重洲四丁目に来々軒を新たに出店する。
◆1965(昭和40)年 八重洲の店がビル化されることに伴い、内神田二丁目に移転。
◆1976(昭和51)年 廃業

  【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】[5]をUPしてから半年も経ってしまった。もっと早く続編を上げるつもりであったのだが・・・。長くかかってしまった理由はいろいろあるのだが、最も大きな要因は、やはりコロナ禍である。続編をまとめるに当たって、どうしても食べておかねばならない店があるのである。この店で食べないことにはまとめが書けないのだ。その店はいわば“淺草來々軒の謎めいた物語の最後のピース”、である。ただし、この店はパズルに嵌まらないピースという思いがあって、それを確認するために行くつもりであったのだ。店は、神戸・尼崎にある。

 当初は2020年の12月の後半に行くつもりであった。当時、新型コロナの感染は所謂第三波と言われる時期に達し、12月24日には都内新規感染者数は初めて800人を超えた。ボクも大いに利用させていただいた「GO TO トラベル」も中止となってしまい、止む無く遠出を諦めた。以後、機会を伺っていたのだが、なかなか感染は収まる様子はない。

 ようやく、東京や大阪、兵庫などに出ていた第3次緊急事態宣言が明けた2021年7月に尼崎の店に行くことができた。ついでに岐阜市内のアノ店にも、さらに飛騨高山も二回目の訪問で何店か回った。その理由は別途書くとして、この結果、ボクはようやく、淺草來々軒の正統な後継店は「この店だ!」と確信したのだ。正統な後継店、それはもちろん‘味’についてである。

 淺草新畑町にあった広東料理店、あるいは支那の一品料理店「淺草來々軒」のことを調べ始めて随分と時間が経った。もうこの店のことを「日本で初めてのラーメン専門店」などという人はいないだろうが、それでも調べれば調べるほど淺草來々軒が残した影響はとても大きかった、と思うのである。もしかすると淺草來々軒が存在していなかったら冒頭の安藤百福氏の一文は、書かれることはなかったかも知れない。現代のラーメンなる食べ物は、少し違ったものになっていたかも知れない。そして、その淺草來々軒の正統な後継店があるとしたら、それはどの店なのだろうか? いや、そもそも、そんな店があるのだろうか?

 それを今回のブログで解き明かしていくのであるが、それは少々謎めいた話でもある。実はボクは、そのことには数年前から気が付いていた。それはそのままの、だったはずだったのだが、前章でも書いたようにボクの事情が大きく変わった。

 2019年初め、ボクは大腸がんを患った。ステージはⅢ-b[6]。他臓器に転移はなかったが、複数のリンパ節転移があったから、肺や肝臓などに転移する可能性はあった。そして2020年夏、両肺転移が発覚。左肺の転移部位は浅かったが、右肺の転移個所は結構奥で、三分の一ほど切除した。60歳で定年を迎えたこともあったので仕事も辞めた。肺のオペ後、常勤で勤務を再開したが、もうそれも無理なことで、今は週4日の勤務である。つまり、時間がまた出来た。ならば、淺草來々軒の謎めいた話を、それが解決されるかどうかともかく、まとめようと思ったのである。

 ここで一つ断っておく。本稿はあくまで淺草來々軒スープに焦点を当てて、正統なる後継店を探っている。スープに焦点を絞った理由はほぼ一点に尽きる。ボクの想いを的確に表現をしている一文を紹介してその理由に代える。
著者は、中国社会論などが専門の社会学者で、現・東京大学大学院情報学環・東洋文化研究所教授の園田茂人氏。氏が中央大学文学部教授時代の2004年に書いた一文[7]である。

 『(ラーメン一杯の)分量や麺の製法などは華北から、シナチクや焼き豚などのトッピングは華南からやってきて、スープは日本で独自に開発された。おおよそ、こう理解してよいだろう』。

1.はじめに
 前章のブログ脱稿の前に、近代食文化研究会(以下「研究会」という)・著作「執念の調査が解き明かす新戦前史 お好み焼きの物語(以下『お好み焼きの物語』)」(書籍版[8])を読んでしまったボクは、正直、原稿を書くのをやめようと思った。それは前章でも書いた通りだ。

 この著者[9]は、文字通り“執念の調査”によって、淺草來々軒の真実を明らかにされた。そして2020年暮れ、その改版が電子書籍で公開された。「お好み焼きの戦前史Ver.2.01」(以下「Ver.2.01」という)[10]である。
 今回、「Ver.2.01」を拝読させていただき、改めてこの著者の調査力に驚かされた。前章執筆時同様、もう淺草來々軒のことをボクが書く必要はないかも知れない、と考えることもあった。けれど、アプローチを変えればこの著者が言及されていないことを書くことができるのではないか、と思ったのだ。それがたとえボクの想像であり、あるいは推測の域を出ないにしても、書き残す価値はきっとある、と考えた。幸い、『お好み焼きの戦前史』の著者とは、何度かメールで連絡を取り合うことが出来た。

 連絡を取り合うようになったきっかけ。それはラーメン評論家・大崎裕史氏のツイッター[11]であった。大崎氏には改めて感謝を申し上げ、話を進めていくことにする。

 その前に、淺草來々軒の創業年について触れておく。一般的に創業年は1910(明治43)年と言われているが、ボクは、前章のブログで『創業年は1911(明治44)年ではない』、と書いた。根拠は二つ。1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」[12]に創業時期が書かれていること。二つ目は明治43年12月の発行の、当時の浅草の様子を事細かく記した本で、地区別の飲食店、あるいは名物とする料理を多数紹介している「淺草繁盛記」[13]に來々軒の名が記されていなかったことである。
 
 一方、1910年説は、ラー博にも掲示がある、おそらく関東大震災を経て再建した來々軒を紹介した1928(昭和3)年の讀賣新聞の記事(正確に書けば、これは記事ではなく広告である。後述する)が根拠であろう。そこには確かに『明治四十三年に現在の場所(注・淺草新畑町)に開業し』とある。
 どちらが正しいか? 今となっては最早分からないのだが、1928(昭和3)年の讀賣の広告は來々軒自らが出したものと思われ、この当時なら自分の店の創業年を忘れるあるいは間違えるという可能性は低いと思われるため、ここでは1910年、すなわち明治43年と書いておくことにする。




新横浜ラーメン博物館内部

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[1]『魔法のラーメン発明物語』 安藤百福・著、日本経済新聞社。2002年3月刊。

[2] 開業してまだ2年の東京駅 東京駅の開業は1914(大正3)年12月20日で、東海道線の起点となった。

[3] 東海道線の特急列車 東海道線の特別急行列車(特急)は、1912(明治45)年6月15日に、新橋~下関間で運行が開始された。

[4] 前回のブログ 「淺草來々軒 偉大なる『町中華』 」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3

[5] 【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの 1】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~ https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da

[6] 大腸がんのステージⅢ-b リンパ節転移が4個以上ありリンパ管とリンパ節が癌に強く浸潤されている状態。5年生存率は60%。現役医師が運営するWEBサイト「Medical Note」などより。

[7] 園田茂人氏の一文 中央大学文学部教授時代の2004年、同大学教養番組「知の回廊」40「ラーメン、中国へ行く-東アジアのグローバル化と食文化の変容」から抜粋。「知の回廊」とは、同大学によれば『教養番組「知の回廊」は日本で初めて大学とケーブルテレビ局(ジェイコム東京)が共同で番組を制作し、大学の知的財産を教養番組という形で、既存の「見るだけのテレビ」から「学びの宝箱」へと進化させた、これまでのテレビの枠を越えた放送番組』である。園田氏の文章は、ネットで全文を読むことができる。

https://www.chuo-u.ac.jp/usr/kairou/programs/2004/2004_06/

[8] 『お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史』 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。

[9] 近代食文化研究会 ‘会’とあるが、実際は個人で活動されておいでである。

[10] 『お好み焼きの戦前史 Ver.2.01』 2020年12月15日発行。読むためにはKindle版をダウンロードする必要がある。

[11] 大崎裕史氏のツイッター 2020年10月15日付けのもの。

https://twitter.com/oosaki1959?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

 のち、WEBサイトRDB(ラーメンデータベース)の「今日の一杯 淺草來々軒」でも紹介されている。https://ramendb.supleks.jp/ippai/mNK9jIPt

[12] 「銀座秘録」 石角春之助・著、東華書莊。1937(昭和12)年1月刊。国立国会デジタルコレクション。

[13] 「浅草繁盛記」 松山伝十郎・編、實力社。1910(明治43)年12月刊。



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