拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの ~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン

2020年12月06日 | 來々軒
【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの 1】
~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~

第一部  其の壱


 誰も知らない。誰も分からない。作った人は無論いる。食べたことのある人も大勢いる。しかし、もうだれも、この世にはいない。
だから。自由には作れる。けれど縛りがキツイ。だからプレッシャーは半端ない。


 そんなチャレンジにはただ敬服するのみ、である。
 けれど。
 このスープは、おそらく、まったくベツモノ。大正初期の淺草來々軒の支那そばとは。

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 2020年霜月11月のある日のこと、ボクは新横浜のラーメン博物館に向かった。この10月、戦前まで淺草新畑町にあった「來々軒」の復刻プロジェクトで開店した「新横浜ラーメン博物館・淺草來々軒」での支那そばを食べるためである。

 久しぶりに見上げた新横浜の空はとても高く、清々しい。
勤務先の事業所があったため、かつて毎日のように利用したこの駅であるが、僅か二年ほどの時間の経過ではさしたる変化はないようだ。いや・・・相鉄の工事は地下でだいぶ進んでいるようである。とにかく首都圏にある新幹線停車駅で、これほど不自由をする駅はない。横浜アリーナや日産スタジアムでイベントがあるときなど入場規制するほどだ。それでは新幹線に乗れないではないか。相鉄の駅工事は、むしろJRの駅を混雑させるだけかも知れないが。

 淺草來々軒の復刻プロジェクト。当初は相当混雑したようであるが、だいぶ日にちも経った平日だから、ボクが入店したとき、先客は僅か2人。後からも3人ほどという寂しい入りだ。またぞろコロナ感染者が増えてきた、という事情もあろうが、この手の業態は今の時期、非常に厳しい状況が続くのだろう。

 明治末期、当時の日本最大の繁華街・淺草に開業した支那の一品料理屋、今で言えば町中華の店を、一体なぜ、だれが(見当はついているが)「日本初のラーメン専門店」などという呼び名を付けたのか? 結論を書けば淺草來々軒は、日本初のラーメン専門店では決してない。それはボクだけではなく、数は少ないが、そう主張してきた人たちがいる。今回のラーメン博物館の企画は、ようやくその事実と、淺草來々軒が日本にラーメンブームを最初に広めたきっかけの店ということ広く伝えていくということなのだろう。

 頂いた一杯は、なんともビミョウな味である。スープは懐かしさなど微塵も感じさせないが、では今風であるかというとそうでもない。物足りないこともなく、かといってうーむと唸らせるほどの旨味や深みはないのである。ボクがときどき使う「町中華以上高級中国料理店以下の中級中華」的なテイストで、値段相応という感じである。いや、なかなかのモンである、と思う。

 ちょっとスープの講釈を垂れようか。これが実は、淺草來々軒の、正統な‘後継店’を特定する貴重な話になるやも知れぬのだ。それは後述。

 麺は青竹打ち選択。当たり前である。復刻プロジェクトで機械打ちの麺など喰って堪るか! ってなもんである。実際の淺草來々軒では、來々軒三代目店主・尾崎一郎氏によれば「昭和五、六年あたりまでこのシナの手打ちでしたが、(中略)半手打ちになり、本当に全部が機械打ちになったのは、昭和十年頃じゃあなかったかと思いますよ」(注1。以下「*」)。なのだそうだ。流石に手打ち、もっちりしてこれは旨い麺である。

 具。これについても一郎氏は語っているのだ(*)。『来々軒のラーメンは昔からメンマと焼豚、それに刻みネギだけ。シンプルなもんです。本来、ラーメンはシンプルなものなんです』。で、ここで頂いた一杯は、そのとおりのモノ。もちろん焼豚は煮豚ではなく、食紅使用の吊るし。それより特筆すべきはメンマであるのだ。一郎氏はやはりこう語っている(*)。『来々軒では干筍を一週間くらいかけて水でもどして、柔らかくなったところで豚のバラ肉と一緒に、ザラメと醤油と化学調味料で銅の大鍋で三、四時間かけて煮てましたねェー』。今回の一杯も『台湾産の乾燥メンマを1週間かけて水で戻し』(注2)たそうであるから、手間はかけているのである。
 
 麺と具。これはもしかすると、創業当時の淺草來々軒のモノに近いかも知れない。しかし、ボクは、いままで調べてきた書籍等から、ボクの想像力を精一杯働かせて、こう結論づける。

 「きょう頂いたこのラーメンのスープは、創業当時の淺草來々軒のものとは、おそらくだが、まったくベツモノである」、と。
 

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 『スープは鶏ガラ、豚骨に野菜』と淺草來々三代目・尾崎一郎氏は話している(*)。今回は支那そばや 本店が調理を担当しているので、当然その店の味はある程度取り込まれているのだろうが、あくまで「復刻版」だから、材料にそれほどの差はあるまい。それよりボクが言いたいのは尾崎一郎氏が淺草來々軒の厨房に立ったのは昭和10年から(*)、ということにある。淺草來々軒の創業は明治43年もしくは44年のことだから、その時すでに25年ほどの年月が経っているのである。さて、その間、ずっと同じレシピでスープを作っていたのであろうか?


  さて、そのスープについての講釈であるが、伝承料理研究家の奥村彪生氏(注3)は、著書(注3)の中で、なぜかこう書いているのだ。

 『(淺草來々軒の)支那そばのスープは鶏や豚の骨からとり、醤油味をつけ、そばだしに似て』いたのである。したがい、今日いただいたモノとは全く違う。そして、このことは淺草來々軒の創業当時の味を今に伝える、まさに‘正統的後継店’がどこであるのかを教えてくれるかも知れないのである。

 さて。

『そばだしに似ていた』。

 なぜこの著者はこう書いたのか? 著書ではこう続ける。実に興味深い記述である。『中国風の麺条(注5)をなぜ支那そばと呼んだのでしょうか。そば粉をいっさい使わない小麦粉の麺条を中国風に肉のスープに泳がせて食べるやり方を支那そばというのは、スープは鰹節入りで、そのうえ味付けに醤油を使い、その味はそばだしのような感じだったのでそう命名したのでしょう』。

  そしてこの著者は、旭川の 旭川らぅめん青葉 本店(注6)で初めて食べた際、スープについては『こりゃそばだしだと即座に思』ったそうで、『飛騨高山の 豆天狗 本店(注7) や まさごそば (注8)のスープもそばだしそのもの』で、『このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』と書いている。つまり、そばだしに近いスープこそ、大正初期の淺草來々軒のスープなの・・・かも知れないのである。

さらに著者は同じ著書の中で、日清食品創業者・安藤百福氏との対談でこうも述べている。

 『本格的中国麺の作り方を書いた料理書は(中略)同年(注・大正15=1926年)素人ですが中国で二十年間暮した経験をもとに山田政平氏が著した「素人に出来る支那料理」です。ここではスープの取り方も書いています』。

 それではその「素人に出来る支那料理」(注9)からスープの取り方を見てみよう。

 実は、それらしいページは第八章湯菜(注・タンツァイ、スープ料理) に記載がある。魚、豚、鶏など、主材料別にまとめてあるが、ここでは「川湯魚片(チョアンタンユイビェン、魚の吸物)」をアレンジした「川鶏片(チョアンチービェン、鶏肉の吸物)」に書かれた材料を記す。

 鶏肉、椎茸、葱、片栗粉、醤油、鹽(注・塩)、味の素。

 注意、として『支那では香味料として二三滴の純胡麻油を落とす』のだが、日本人には一般的に喜ばれないとして、柚(ゆず)か木の芽などを用いるほうが良い、とも書かれている。また「魚丸(ユイワン、魚肉團子の吸物)」の項では、材料に「スープ」とあり、それがない場合は『必ず別に味の素なり鰹節なりで、汁を作ることが肝要です』と書かれている。

 面白いのは『支那から歸化(注・帰化)した日本の食品』の項の中で、「ケンチン(汁) は支那の 煎丁(チェンチン) であって、支那料理の日本化されたものであることに、一點(注・点)の疑ひもありません」とあることである。昔の僧侶が「肉抜きの煎丁を覚えて来て、それが各地に擴(注・広)がつたものでせう」と記している。多くの日本人が、けんちん汁を精進料理として知っているであろうが、この著者は「日本化してしまって誰も支那料理とは思わない」と書いている。

 この書はあくまで「素人に出来る支那料理」であるから、それほど凝った材料は用いないで書かれているのだろうが、にしてもシンプルである。出汁素材になりそうなのは、主材料を除けば椎茸、鰹節である。つまり、スープの旨味成分となるグルタミン酸、イノシン酸はそれぞれ椎茸、鰹節から取り、その補強として「味の素(グルタミン酸)」を入れている。ちなみにこの頃の料理本のレシピには、この味の素、が非常に多く使用されている。

 鰹節に椎茸。それに味の素。淺草來々軒開業当初のスープはこれらを用いて「そばだし」に似たものを基にして作られた、と考えられるのではないか。そして、その頃淺草來々軒にて勤務したある料理人が、そのレシピを地元に持ち帰り開業した店で(当初は屋台であったものの)、まさに「そばだし」的なスープでラーメンを提供したのではないか。その店からは昭和の初め、地理的に近い飛騨地方に伝わっていったのではないか。


 飛騨高山といえば・・・・「この店」から近い。

 だとするなら、明治末期に創業し、大正期に興隆を極めた淺草來々軒の正当な‘後継店’は?

 ある料理人が開いた、「この店」ではではなかろうか。ボクはほぼ確信的にそう思っているのだが、この年末(2020年12月末)、「ある店」に行って、その可能性の確度を高めて来たいと思っている。

(つづく。)

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 ※「この店」「ある店」とは、淺草來々軒に関りのあった(と思われる)下記のいずれかです。

■中国料理 進来軒 千葉・穴川。昭和43年創業。
■手打ち中華 トクちゃんらーめん 郡山。平成7年(業態変更により)創業。
■来来軒 東京・祐天寺。昭和8年創業と言われるが異論あり。
■たちばな家  東京・檜原村。昭和21年創業。
■大貫 本店 尼崎。大正元年創業。
■丸デブ 総本店 岐阜。大正6年創業。

以下は調査中ですが、無関係かと・・・。
■来々軒 弘前。中国から来た呉銘徳氏が大正末期から昭和初期に創業したと言われる。
■来々軒支店 前橋。昭和6年創業。「本店」所在地等は調査中。

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※淺草來々軒の表記は本来『來々軒』ですが、他の書籍の引用などで「来々軒」とある場合はそれによります。
(注1)「にっぽんラーメン物語 中華そばはいつどこで生まれたか」から抜粋。小菅桂子・著、駸々堂。1987年10月刊。単行本である。
(注2)ラーメン博物館公式サイトより。https://www.raumen.co.jp/shop/rairaiken.html
(注3)奥村彪生氏 略歴は此方を参照。
 農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1103/interview.html
(注4)奥村彪生氏の著書 「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」。安藤百 福・監修、フーディアム・コミニュケーション、1998年6月刊。のち、加筆の上改題。「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」。角川ソフィア文庫、2017年11月刊。
(注5)麺条 もしくは麺條。中国語で日本語における麺類を指す。
(注6)旭川らぅめん青葉  昭和22年、初代村山吉弥氏が屋台で創業。スープは豚骨、 鶏ガラの他に利尻昆布、鰹節、煮干し、各種野菜、だそうである。
(注7)豆天狗 昭和23年創業。
(注8)まさごそば 昭和13年、屋台で創業。高山ラーメン発祥の店と言われる。
(注(
(注9)「素人に出来る支那料理」 山田政平・著、婦人之友社、1926年1月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。




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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-04-19 23:23:02
このコメント見た方、ご存知だったら教えてほしいのですが、
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1061270280
にベストアンサーとして載っている「当初は夜鳴き蕎麦屋が~中略~そこで、中華街の台湾人に相談し、つゆに鶏ガラ出汁を加え、麺を中華風の麺にしたところ人気を博したというのがルーツです。」とあるのですが、出典がありません。
この話の真偽はともかくとして、別のどこかで読んだことがある気がするのですが、ラーメンの起源について考察した、ちゃんとした真面目なwebサイトだったと記憶してますが、どこだったは覚えていません。
なにかの本からの引用としてそのサイトで記していたと思いますが、その本もしくはサイトをご存じないでしょうか。
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