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シンガポール&美浜 発信 文左衛門の部屋

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コラム★心の梅雨を飛ばす気

人生海図 第5章 (3) (No51)

2015年06月02日 08時22分59秒 | 小説
第5章(3)

もう一度、1836年のパーマストン卿の決定に戻って考えることにした。

この決定の重要な部分は、清国船でというところにあったが、それはマカオには伝わらず、違う思惑で米国船になってしまった。

一方日本では、米国船のモリソン号を英国船と判断して、恐怖のあまり無二念打ち払い令を発令してしまった節があった。

当時密貿易も含む貿易を現実に行っていた清国船であれば、上陸できた可能性は高かかっただろう。

少なくとも、米国や英国とは違った対応を取る余地があったことは十分に考えられた。

その意味では、パーマストン卿は、興味はなくても、確実に音吉たちを送還させる意思と多少のアジアに関する知識は持っていたことになってきた。

一樹は、少し19世紀当時の英国の外務大臣パーマストン卿による外交政策、とりわけ奴隷貿易禁止に関連した方面も併せて調べてみることにした。

音吉が寺子屋レベルの教育しか受けてなかったにも拘らず、英語に関しては相当なレベルに最終的には達していた。

とすると、モリソン号でマカオに帰ってきてからは、英国に渡った可能性も否定できない。

久吉、岩吉は英国政府の現地職員となったが、一度も日本に関係して通訳を務めていない。

逆に、奇妙なことに、音吉は民間会社であるデント商会の社員であった。

1849年英国海軍の軍艦マリナー号で、浦賀上陸を試みる振りをしながら、しっかり測量したといわれているが中国名を使って通訳として乗り込んでいた。

この時この中国人通訳者を装っていたのは日本人だと勝海舟が看破し、自分のパトロンたちに書き送った手紙が残っている。

また、1854年英国海軍スターリング艦隊の通訳者として、旗艦ウィンチェスター号に乗り組み、長崎奉行相手に、日英和親条約を締結している。

現地の政府職員を使わずにわざわざ音吉を使ったのは、彼の英語の力なり、何かが英国政府に評価されていたかも知れない。

ある論文によるとマリナー号での音吉は、沿岸観察という測量に欠かせない役割を担当していたとある。

当時は、陸地を見ながら船の位置を割り出すのが、普通に船員たちが使う方法だった。

一樹は、音吉が、助けた漂流民から地元の沿岸についての事情を聞き、それを英国に流して、詳細な海図のようなものを作る一助をしていたのではないかと考えてみた。

もう少し想像をたくましくすると、デント商会としては、長崎との交流は間に人が入る形でも行っていた。

とすれば、助けた漂流民たちとは手紙による交流が続いていて、彼らを通じて、更に大きな範囲の日本の沿岸情報を入手していたとも考えられた。

対価として、英国側の測量情報を漂流民たちが使えるように加工して流していたとも考えられた。

こんなことがもし全くなければ、裏の使命として浦賀地域の測量を意図していたマリナー号に乗り組む必然は、低くなってくるのではとも思えてきた。

音吉のところに外国船が日本人漂流民を届けたり、日本人漂流民たちが音吉を目指した裏には、当時、英国の外務大臣パーマストン卿による、奴隷貿易禁止政策が絡んでいるのではないかとの見方を一樹はしていた。

当時、漂流民は奴隷貿易の対象として格好の存在だった。

どこの出身かなど証明するものを持たなかった漂流民たちは、故郷ではほとんど死んだと考えられていただろう。

奴隷として売買をしても、仕入れ0で、売り上げが立つビジネスが成立した。

そして、売り上げのほとんどが利益になっていただろうとすると、アジアを航行する外国船、とりわけ、最後まで、パーマストン卿の政策に同意しなかったポルトガルの船籍を持っていれば、お得意様になっていただろう。

確認もされない漂流民たちがいたとしたら、この対象になっていたかも知れなかった。

音吉が、この英国政府の奴隷貿易禁止政策の対象になった日本人の漂流民担当であるということが、英国政府を通じて外国政府に通告されていたかも知れない。

表向き、民間人であったが、音吉の在籍したデント商会は、アヘンの売買を主たるビジネスにしていたと言われていたので、アヘンで資金を集めていた当時の英国政府のある意味、別働隊であった可能性も否定できなかった。

そして音吉が幹部になっていくのと同じ時期に、宝順洋行という名前が使われ始めていた。

この「宝順」は、音吉たちが乗り組んでいた船の名前、「宝順丸」から来ているとしか思えなかった。

音吉がデント商会で、単なる一介の社員のままであったら、いくら音吉たちが助かったから幸運を運ぶというラッキーか何かのわけがあっても、それだけで付けられることはなかっただろう。

英国の商社が一介の漂流民にちなんだ名前を社名にする、そんなことはしないのではないかと思えた。

では、音吉に数々の仕事、通訳者、漂流民の秘密裏での日本送還、宝順洋行(音吉の死後、台湾に新たに、英国人によって立てられていた。

更に、音吉の息子が台湾で消息を絶っていた。)、浦賀での測量などは、音吉が望んだのか不明ではあったが、望んだらできたというものではなかった。

更に、ペリー提督が米国から連れてきた日本人漂流民全員を音吉に引き渡していた。

数人がボランティアで、ペリーと一緒に米国に戻っていった。

後に、ジョン・万次郎(中濱万次郎)に影響を与える、ジョセフ彦がその中にいた。

通常の手法では、すべてとはいえなくても、結論を導くにはあまりにも物的証拠が見出せなかった。

しかし、一樹が考えている状況証拠から、人物を描き直してみる手法を使うと、全く想像もできなかった音吉像が浮かんでくるはずだ。

それをつかむことで、初めて、音吉プログラムに息を吹き込むことができると一樹は確信し始めていた。

研究者の論文ではない危うさはあっても、ひとたび人物像が描けてしまえば、それは確実に独立して歩き始めることができると言えた。

そしてそれを源泉として、『内なるパワーが人生を導いていく』プログラムができたとしたら、研究者が得られる価値より、一般大衆に対する貢献は大きいと考えていた。

そのために、自分の研究者としての地位であれ、何であれ、失くなってもなんとも思わない心の状態に近づいていった。

一樹は、このプログラムの完成を持って、由布子との人生の決着が心の中で付けられる気がした。

2015年6月2日
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人生海図 第5章 (2) (No.50)

2015年05月24日 10時17分48秒 | 小説
第5章 (2)

音吉が影響を与えたのは、マクドナルドだけではなかったようだった。

ハドソン湾会社のフォート・バンクーバー総支配人、ジョン・マクラフリン博士もその一人である。

音吉と他の2人を日本との通商開始に利用しようと、当局に申し入れた。

しかし、当時の外務大臣であったパーマストン子爵は、目前の清国政府とのアヘンに関する案件が中心。

日本との通商は消極的だったので、申し出をしたハドソン湾会社総裁のジョージ・シンプソン卿に対して、その意見を取り上げなかった。

しかし、その結果がマクラフリン博士の元に届いた頃には英国を目指して出港した後だった。

ロンドンで1日だけ上陸、滞在を許された音吉たちは、ハドソン湾会社の費用で、マカオに送られ、日本送還の時期を待つことになった。

この音吉とパーマストン卿との何千キロも離れた第1回目の接触は、音吉の運命を変えていく底流となった。

第2回目の接触は、1836年チャールズ・エリオット商務長官に対して、清国船で音吉たちを日本へ送還する指示だった。

この決定が、現実的には1837年米国船モリソン号による送還として実施された。

徳川幕府の無二念打ち払い令による砲撃により、結果的に日本へ上陸できず、マカオに戻るしかなかった。

一緒にいた久吉と岩吉は、英国植民地庁に結果的に職を得、音吉は消えた。

断片的に、外国航路で船員として修行し、米国にも行ったことがあるといった点でしかない歴史情報があるだけだった。

一樹は、この音吉が消えた数年に何が起きたのか想像をたくましくして解明したかった。

ここに、最終的に英国籍を得られるようになる人生の方向付けの基本があると考えていた。

つまり、リバースエンジニアリング的な考えで、音吉の英国籍取得から戻ってみた。

このモリソン号日本上陸失敗から始まる外国生活のうち最初の数年間に何かが起きていないと、音吉のところに集中的に漂流民が外国船によって連れてこられたりしない。

音吉の死後台湾で英国人により、宝順洋行という音吉が上海のデント商会勤務中に興したかもしれない会社が興こされるには、普通に英国商社の会社員として暮らしていただけでは到底考えられない。

あるいは、日本へ黒船として訪問する直前に上海へ立ち寄った米国のペリー提督から14人の漂流民を取り戻すことなどできるわけがなかった。

第一、いくら英国商社上海支店の幹部といっても、当時米国大統領を動かしてまで自分の野望を達成しようと鼻息の荒かったペリー提督が、一介の会社員である音吉と会う筈も理由もなかった。

あるとすれば、英国外務大臣パーマストン卿発案、実施による奴隷貿易禁止令の関連で、英国のあるレベル以上の人物とことを構えたくなかったペリー提督の判断がそうさせたのかもしれなかった。

音吉をして、ペリー提督にそう思わせた人物との関わりが、音吉の英国籍取得という人生の輝かしい通過点を与えてくれたのではないだろうかと一樹は推測していた。

その人物の名前も見当がついていた。しかし、そこまで一足飛びには行けなかった。

2015年5月24日
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人生海図 第5章(1)  (No.49)

2015年05月12日 08時27分52秒 | 小説
第5章(1)

一樹は自宅に戻る途中由布子にもらった重い包み、食べ物や恐らくワインも入っているだろう、を道路に投げ捨てたい気持ちに何度もなった。

情けをかけてもらいたくて、由布子に会いに行ったのではなかった。

単純に宝田の経験が、音吉プログラムに生きるかもしれないと思ったからだ。

それなのに、という思いが沸き起こっていた。

かつての一樹であれば、とっくに投げ捨てていたし、由布子につき返していたかもしれなかった。

しかし、今は由布子のくれた包みの中身をひとくち口にするたびに、あるいはひとくち飲むたびに、由布子の優しさが体の中に注ぎ込まれた。

それが研究へ向かうエネルギーに変わっていくと考えることができるようになっていた。

暖房のない部屋に着き、由布子の包みを解いて冷蔵庫にあらかた詰め込んで、ワインを並べてみた。

いきなり、自分の生活が裕福になったと錯覚するほどの量だった。

重かったはずだ。これがあれば、しばらくは、研究に集中することができた。

先ず研究の構想を音吉の明らかになっている歴史に沿って、人的関係から見ていくことにした。

山本音吉は、1819年尾張国知多郡小野浦村(現愛知県知多郡美浜町小野浦)生まれ。

1832年千石船『宝順丸』で米や陶器を積んで江戸へ向かう途中、遠州灘沖で嵐に遭い14ヶ月漂流し、久吉、岩吉と共に、米国ワシントン州ケープ・アラバの海岸に漂着。

海岸の近くのロングハウスに居住していたインディアンのマカ族に保護される。

数ヵ月後、英国人の経営するハドソン湾会社に引き取られ、フォート・バンクーバーで英語教育を受ける。

一樹は、この流れの中から音吉プログラムの主題である『内なるパワーが人生を導いていく』に関連する出来事を探すことから始めた。

このパワーの存在は、今でこそ、引き寄せなどという形で一般に受け入れられていることがあるが、音吉の時代には、そんなことは考える余地もなかっただろう。

14歳の音吉が最初に影響を与えたのは、日本最初のネイティブスピーカー英語教師と言われている当時10歳のラナルド・マクドナルドだった。

最初に保護されたマカ族も現存する評議委員会によると、音吉たちを手放したくなかったと言い伝えが残っているとのことである。

しかし、マクドナルドの場合は、音吉と会うことがきっかけで、日本へやってきてしまった。

スコットランド系、ハドソン湾会社仲買人取締アーチボルド・マクドナルドを父とし、アメリカインディアン、チヌーク族の酋長の娘を母に持つマクドナルド。

音吉の出会いは、フォート・バンクーバーという一種の小規模な英国租界だった。

明治村のような形で現在再現されている。

そこで、ハドソン湾会社の思惑もあり、音吉たち3人に英語教育を受けさせ、彼らの意志が確認できる状態を作ろうとした。

当時10歳のマクドナルド少年は、音吉の日頃の振る舞いを見て同じ黒髪を持つ音吉たちが住む日本という国に、強い興味を持った。

14歳で寺子屋教育しか受けていないにも拘らず、どんどん英語を使って、前向きに生きていこうとする音吉の中にある何かを感じた。

その何かが、まだ見ぬ国、日本への憧れとなるのに1年は十分だった。

1848年、捕鯨船に頼んで乗り組み、最終的に利尻島へ遭難を装って上陸した。

音吉との出会いが、10数年たって、当時鎖国の日本への上陸を敢行させたのはなんだったろうか?

一樹は、ここに音吉の持っていたであろうの底流にあって、ここぞという時自らが現れることで人生に決着を付けさせる。

時として、方向を決めていってしまう自分ではなんともしがたいパワーと同質のものを感じた。

このパワーを解明して、誰でも自分の中から見つけ出すことができるようになれば、それが音吉たち先人の現代に対する貢献。

また、我々の先人に対する義務であるように思っていた。

その後マクドナルド青年は、幕府の判断で長崎まで送られた。

米国送還までの半年くらいの間に、オランダ語を介さず直接英語で英語を教えて、後にペリー黒船来航の通訳者になった森山栄之助をはじめ、14人の通訳者を育てた。

マクドナルド青年は、日本での取り扱いは丁重で、野蛮国ではなく、高度に文明の発達した国であるということを米国で広く伝えた。

米国でのマクドナルド研究は、日本より盛んであった。

2015年5月12日
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人生海図 第4章(10) (No.48)

2015年05月06日 08時04分00秒 | 小説
第4章(10)

その頃、『小野』に現れたのは、取締役、部長、岡崎であった。

「取締役、ここが浦瀬の東京の基地です。ここを知るのは私と山下だけです。」

「岡崎君、もう取締役は止めてくれるか?又返り咲いたら、改めてそうお願いするから。高倉陽一でお願いする。」

「では高倉さん、浦瀬からキーメッセージすべて諒解。その方向は、自分と同じで感激。と返信メールが来ました。」

「そうか、じゃあ山下君は無事に浦瀬君に渡せたんだな。」

「取、あ、高倉さん、岡崎君も入れて、東京側の出陣式ですね?」

「部長、ちょっと待って欲しい。もう一人来るから。」

「もう一人とは?」

 高倉は自分で言うのが照れくさくて、岡崎を促した。

「部長、銀座の直美さんです。」

「え、」

「部長、直美さんは、高倉さんの秘密兵器なのです。元モデルで、特にフランスに強いんです。昔、駐在員家族としてフランスにおられ、フランス語が堪能なんです。」

「へ、その直美さんが又なんで?」

「結局燃える男たちともう一度ワクワクすることやりたいと言われ、女房が通っているモデルの技術を一般人にもと言うコースをお休みし、銀座を辞めての覚悟の参加なんです。」

「高倉さん、いずれは、まとまるんですよね?直美さんと」

「そうだね、部長。今回の首尾次第では、だね。もう女房が死んで、3回忌も終わったし。」

「は、そうなりますかね。岡崎君、これは大変だぞ。」

「はい、浦瀬のことだけでなく、高倉さんの復帰とご結婚が絡んできますので、絶対負けられません。」

「高倉さん、岡崎君の意気は高まってきましたが、フランスにあてがあるのですか?」

「うん、1社、あるが、難しい。ここのオーナーに会えなければ、徒労に終わる。また、このオーナーは神出鬼没でな、秘書泣かせと言われている。
直美は、顔を知っているし、昔仕事をもらったことがあるらしい。うわさによると、日本のシンボルになる女性を探して、日本にいるという話なんだ。」

その後、直美が参加して、乾杯を含む出陣式と今後の連絡方法などを打ち合わせて、お開きになった。

「よーさん、昔フランスでの知り合いが、近くでお店やっているの。クラブじゃなくて、バー アンド ダイニングなの。『oui』というんだけど行きませんか?
彼女もフランス通だから、もしかしたら情報があるかも知れないし?」

「え、直美さん、由布子さんの知り合いなんですか?これは驚いた。」

「岡崎さんが?あの京人形さんと?失礼しました。お店行かれた事あります?」

「はい、あの日、浦瀬と山下と打ち上げやりました。ぜひ行きましょう。マスター連絡してくれますか?『oui』に。」

「はい承知しました。実は私もお勧めしようと思っていました。ここよりもっとカジュアルなので、ちょっとした連絡には便利かと思います。
由布子さんは、明日の夜シンガポールに行かれるので、今日のお話など、浦瀬さんにお伝えできると思いますよ。」

「部長、岡崎君、世界は狭いな。これで少しは、目標に近付けたかも知れんな?」

「はい、早速行きましょう。」

集団が店を出る頃を見計らって、厳一は、由布子に連絡した。

直美が来ると知って、誰かなと言っていたが、本名を聞けば分かるだろうと気を取り直した。

『oui』について高倉の第1声は、

「お、動く京人形だ。」

「ようおこしくださいました。おーきにどすえ。」

「本場の京都弁だ。」

感動している高倉の後ろから、

「由布子さん、お久しぶり。那美です。昔モデルやっていて、よくそちらのワイナリーのショーでも使っていただきました。」

「え、那美はん。あのモデルはんやってはった?また、一段と美しゅうならはって。」

「由布子さん、岡崎です。今日は事態が一転して、あのときの取締役だった高倉さん、私の上司の部長と共に、今後の連絡場所として、
見に来させてもらいました。小野マスターの薦めもありました。」

「おおきにどす。何、お出ししましょ?」

「よーさん、ここは『クルグ 85年ものビンテージ』ね!」

「もちろんだよ、直美ちゃんでいいか?」

「はい、勝利するまではそれで、ビジネスライクに行かせてください。いきなり、那美とか言われても、なんか変な感じですから。
由布子さん、じゃ、『クルグ 85年ものビンテージ』で。グラスは、由布子さんのも入れて5つで。」

「へえ、おーきにさん。うちも乾杯に参加さしてもろて、ええんですか?」

「はい、お聞きしたいこともあるので、私の持ってる古い写真も見てもらいたいし、お願いします。」

「岡崎君、君たちはあの後、ここに来たのかね。さぞかし華やかだったろう、あの京人形がいれば。浦瀬君の大阪弁との競演は圧巻だろうな?」

「はい、そうでした。二人が話し始めると、何かショーを見ているようでした。あの時は、生意気なこと言って済みませんでした。
直美さんにも大変お世話になりました。浦瀬から、お礼を申し上げるように言付かっています。」

総支配人と共に、由布子が戻ってきた。

「うちの総支配人どす。うちが不在の時、何でもおっしゃってくれはってよろしいんどす。お頼み申しますえ。」

由布子の言葉が終わるのにあわせて、クルグを開けるポンと言う音がした。

「乾杯!」

高倉の音頭が終わるのを待つのももどかしく、

「由布子さん、この写真古いのですけれど、この真ん中にいる人、見覚えありません?」

直美の差し出す写真を見ながら

「よう似てはる人は知っとりますけど、このお方は?どっかで会ったような気もするけど、、、」

その場に麻子がいれば、あるいは、もう1日後であれば、違う展開だっただろう。

「そうですか。でも、もし見かけたら、元モデルのナミが探しているから、必ず連絡してくれるように伝えてくれませんか?由布子さんの頼みであれば、
あの美人好みは、その場で連絡すると思います。」

「はあ、うちでよかったら、頼りになりまへんけど。那美はんのことやから、心掛けときまっせ。」

「よかった。よーさん、彼は美人好みだから、何とか聞きつけてここに来る可能性はあると思うわ。由布子さんにお願いしておけば、連絡つける可能性が高いわ。」

『クルグ 85年ものビンテージ』の至福の味に浸っていた高倉は、

「え?そうだね。ありがとう。由布子さん、お願いします。小野マスターから伺いましたが、明日夜シンガポールに行かれるのですか?浦瀬に会われますか?」

「へえ、行かさしてもらうんどす。多分、浦瀬はんにも会うて来ることになると思てます。」

「岡崎君から、ちょっと言付けがあると思うので、伝えていただけると、浦瀬も元気が出ると思いますが。」

「浦瀬はんのこと、よう、存知上ますさかいに、うちでよかったら、使こてください。」

その後、この間の裏話などで花が咲いたが、高倉と直美が中座するのを機に流れ解散した。

由布子はしばらく写真を眺めて、思い当たるような、ないような感じだった。

(第4章完)

2015年5月6日 


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人生海図 第4章(9) (No.47)

2015年04月29日 15時49分04秒 | 小説
第4章(9)

地下鉄の六本木駅で降りて、『oui』に入ろうとすると、後ろから、

「一樹はん?よう、お越しどす。きんのは、びっくりしましたえ。後ろ見たらいてはらへんで。偉い失礼した思とったんどすえ。」

「え、あ、昨日は失礼しました。あまり久しぶりのことで、動転していました。ところで今日は、音吉プログラムのことでお願いに上がりました。」

「まあ、そんなん、立ったままで言うてはらんと、中入っておくれやす。」

由布子に背中を押されて、一樹は中に入った。

一瞬だが、由布子の手の柔らかさとぬくもりを感じられたことで、目的が半分終わったような気になっている自分を発見していた。

北村は、由布子の背中をすり抜けるようにして、店に入っていった。

由布子は、白ワインとチーズセットを持ってきた。

「どうぞ、楽しんでおくれやす。失礼どすが、これみんな試供品やよって、ただどす。ワインは、うちがおったワイナリーからどす。
飲みはったら、この紙に感想だけ書いておくれやす。遠慮せんといておくれやす。ちょっと飲んどってくれはりますか?うち、
奥へ行って来て、すぐ戻りますさかいに。」

一樹は、由布子が注いでくれたフランス・ワインを飲んだ。

こんな店で、ゆったりとワインを飲むなんて、もう何年もなかった。

それも手を伸ばせばつかめるところに、由布子が笑顔でいてくれるなんて、一気に、昔に戻った。

しばし、その回想に浸っていた頃に、由布子がピザを持ってきた。


本来はフランス料理にはないが、六本木というところで商売するには仕方がなかった。

いつか、英国の帰りに寄ったシンガポールのすし屋で、カツどんや、うどんが出ていて不思議に思って聞いたところ、
すしは、日本料理なので、かなり有名なところでも、どんぶり物や麺類を置いておかないとお客に叱られると、
築地で修行したことのある、板長が苦笑して言っていたのを思い出した。

「一樹はん、これもメニューにないんやけど、お客はんが作ってくれ言いはるから、今度出そう思てる試作品どす。気にせんといておくれやす。」

一樹は、由布子の言う試供品や、試作品が本当かどうかなど、どうでもよかった。

自分の経済状態を知っている由布子なりの優しさに触れているだけでよかった。

人心地が付いてきたとき、
「由布子さん、あの、これをその、シンガポールの宝田さんに渡してくれませんか?今日、急に、お邪魔したのは、現場の実践家でないと分からないところがあり、
それが解決できないと前に進めないことがわかったからなんです。小野さんでも、浦瀬さんでもできるかも知れないのですが。宝田さんに、これからのお仕事の種
としてお考えいただけないかと思い、昨夜、あんなメールを出しながら、やむにやまれずに、来てしまった訳です。どうでしょうか?」

由布子は、初めて一樹のこのプログラムにかける思いを見たような気がした。

研究者がここまで言うには、プライドなど沢山捨てないと言えないと、研究者の姉を知っている由布子は理解できた。

だからこそ、一樹がやろうとしていることは本物だと思えた。

「一樹はん。おおきに。昨日のお話しは、素晴らしかったんやけど、うちには、難しゅうて、宝田はんのお役にたつんやら、どうなんやらわからんで、
どないしょうと思もとったんどすえ。」

「そうですか?これは質問形式にしていますので、答えているうちに、実践家の方なら何を求めているのかお分かりになると思います。
もし何か分からないところがあれば、このアドレスにメールしてくだされば、直ぐにお返事できます。ところで、宝田さんにはそんなお時間は取って
いただけるのでしょうか?」

「はい、うち、向こうからメールしますよってに。うちはでけると思てますが、ご本人はんが、お答えするんが、筋どすさかい、待っとっておくれやす。」

「そうですか。じゃ、よろしくお願いします。私はこれで失礼します。」

「え、もう、お帰りどすか?」

「はい、この件に解決のめどができるとしたら、やることはたくさんあるので。」

「ほんなら、ちょっとだけ、待っとっておくなはれ。きんのみたいにどっか行ったらあきまへんえ?約束どすえ。」

「はい、わかりました。」

しばらくして、由布子が総支配人に大きな重そうな包みを持たせて、戻ってきた。

「一樹はん。気悪うせんと、受け取っておくなはれ。ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントみたいなもんどす。長持ちするもんにさしてもろてます。
これからも、週1回、進み具合、ご報告どっせ。うち、試作品そろえときますさかい。約束どっせ。シンガポールから連絡させてもらいますさかいに。」

一樹の思いは複雑だったが、今は由布子の気持ちを受けることにした。

これから新たに始めるのに、ここで些細なプライドを振り回す愚は、もうしたくなかった。

「由布子さん、ありがとう。しっかりいただいて、研究のエネルギー源にします。週1回、報告、必ず来ます。よろしくお願いします。」

「はい。おおきに。うち、うれしおす。受け取ってくれはって。」

一樹は、入り口で振り返り、包みを振り上げて笑顔で由布子に答えた。

やはり無理して来てよかった。

由布子は早速携帯電話メールで、私に、質問状が手に入り、それが音吉プログラムの糸口になりそうだと送った。

私は、期待していると返事した。

2015年4月29日
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