第5章(3)
もう一度、1836年のパーマストン卿の決定に戻って考えることにした。
この決定の重要な部分は、清国船でというところにあったが、それはマカオには伝わらず、違う思惑で米国船になってしまった。
一方日本では、米国船のモリソン号を英国船と判断して、恐怖のあまり無二念打ち払い令を発令してしまった節があった。
当時密貿易も含む貿易を現実に行っていた清国船であれば、上陸できた可能性は高かかっただろう。
少なくとも、米国や英国とは違った対応を取る余地があったことは十分に考えられた。
その意味では、パーマストン卿は、興味はなくても、確実に音吉たちを送還させる意思と多少のアジアに関する知識は持っていたことになってきた。
一樹は、少し19世紀当時の英国の外務大臣パーマストン卿による外交政策、とりわけ奴隷貿易禁止に関連した方面も併せて調べてみることにした。
音吉が寺子屋レベルの教育しか受けてなかったにも拘らず、英語に関しては相当なレベルに最終的には達していた。
とすると、モリソン号でマカオに帰ってきてからは、英国に渡った可能性も否定できない。
久吉、岩吉は英国政府の現地職員となったが、一度も日本に関係して通訳を務めていない。
逆に、奇妙なことに、音吉は民間会社であるデント商会の社員であった。
1849年英国海軍の軍艦マリナー号で、浦賀上陸を試みる振りをしながら、しっかり測量したといわれているが中国名を使って通訳として乗り込んでいた。
この時この中国人通訳者を装っていたのは日本人だと勝海舟が看破し、自分のパトロンたちに書き送った手紙が残っている。
また、1854年英国海軍スターリング艦隊の通訳者として、旗艦ウィンチェスター号に乗り組み、長崎奉行相手に、日英和親条約を締結している。
現地の政府職員を使わずにわざわざ音吉を使ったのは、彼の英語の力なり、何かが英国政府に評価されていたかも知れない。
ある論文によるとマリナー号での音吉は、沿岸観察という測量に欠かせない役割を担当していたとある。
当時は、陸地を見ながら船の位置を割り出すのが、普通に船員たちが使う方法だった。
一樹は、音吉が、助けた漂流民から地元の沿岸についての事情を聞き、それを英国に流して、詳細な海図のようなものを作る一助をしていたのではないかと考えてみた。
もう少し想像をたくましくすると、デント商会としては、長崎との交流は間に人が入る形でも行っていた。
とすれば、助けた漂流民たちとは手紙による交流が続いていて、彼らを通じて、更に大きな範囲の日本の沿岸情報を入手していたとも考えられた。
対価として、英国側の測量情報を漂流民たちが使えるように加工して流していたとも考えられた。
こんなことがもし全くなければ、裏の使命として浦賀地域の測量を意図していたマリナー号に乗り組む必然は、低くなってくるのではとも思えてきた。
音吉のところに外国船が日本人漂流民を届けたり、日本人漂流民たちが音吉を目指した裏には、当時、英国の外務大臣パーマストン卿による、奴隷貿易禁止政策が絡んでいるのではないかとの見方を一樹はしていた。
当時、漂流民は奴隷貿易の対象として格好の存在だった。
どこの出身かなど証明するものを持たなかった漂流民たちは、故郷ではほとんど死んだと考えられていただろう。
奴隷として売買をしても、仕入れ0で、売り上げが立つビジネスが成立した。
そして、売り上げのほとんどが利益になっていただろうとすると、アジアを航行する外国船、とりわけ、最後まで、パーマストン卿の政策に同意しなかったポルトガルの船籍を持っていれば、お得意様になっていただろう。
確認もされない漂流民たちがいたとしたら、この対象になっていたかも知れなかった。
音吉が、この英国政府の奴隷貿易禁止政策の対象になった日本人の漂流民担当であるということが、英国政府を通じて外国政府に通告されていたかも知れない。
表向き、民間人であったが、音吉の在籍したデント商会は、アヘンの売買を主たるビジネスにしていたと言われていたので、アヘンで資金を集めていた当時の英国政府のある意味、別働隊であった可能性も否定できなかった。
そして音吉が幹部になっていくのと同じ時期に、宝順洋行という名前が使われ始めていた。
この「宝順」は、音吉たちが乗り組んでいた船の名前、「宝順丸」から来ているとしか思えなかった。
音吉がデント商会で、単なる一介の社員のままであったら、いくら音吉たちが助かったから幸運を運ぶというラッキーか何かのわけがあっても、それだけで付けられることはなかっただろう。
英国の商社が一介の漂流民にちなんだ名前を社名にする、そんなことはしないのではないかと思えた。
では、音吉に数々の仕事、通訳者、漂流民の秘密裏での日本送還、宝順洋行(音吉の死後、台湾に新たに、英国人によって立てられていた。
更に、音吉の息子が台湾で消息を絶っていた。)、浦賀での測量などは、音吉が望んだのか不明ではあったが、望んだらできたというものではなかった。
更に、ペリー提督が米国から連れてきた日本人漂流民全員を音吉に引き渡していた。
数人がボランティアで、ペリーと一緒に米国に戻っていった。
後に、ジョン・万次郎(中濱万次郎)に影響を与える、ジョセフ彦がその中にいた。
通常の手法では、すべてとはいえなくても、結論を導くにはあまりにも物的証拠が見出せなかった。
しかし、一樹が考えている状況証拠から、人物を描き直してみる手法を使うと、全く想像もできなかった音吉像が浮かんでくるはずだ。
それをつかむことで、初めて、音吉プログラムに息を吹き込むことができると一樹は確信し始めていた。
研究者の論文ではない危うさはあっても、ひとたび人物像が描けてしまえば、それは確実に独立して歩き始めることができると言えた。
そしてそれを源泉として、『内なるパワーが人生を導いていく』プログラムができたとしたら、研究者が得られる価値より、一般大衆に対する貢献は大きいと考えていた。
そのために、自分の研究者としての地位であれ、何であれ、失くなってもなんとも思わない心の状態に近づいていった。
一樹は、このプログラムの完成を持って、由布子との人生の決着が心の中で付けられる気がした。
2015年6月2日
もう一度、1836年のパーマストン卿の決定に戻って考えることにした。
この決定の重要な部分は、清国船でというところにあったが、それはマカオには伝わらず、違う思惑で米国船になってしまった。
一方日本では、米国船のモリソン号を英国船と判断して、恐怖のあまり無二念打ち払い令を発令してしまった節があった。
当時密貿易も含む貿易を現実に行っていた清国船であれば、上陸できた可能性は高かかっただろう。
少なくとも、米国や英国とは違った対応を取る余地があったことは十分に考えられた。
その意味では、パーマストン卿は、興味はなくても、確実に音吉たちを送還させる意思と多少のアジアに関する知識は持っていたことになってきた。
一樹は、少し19世紀当時の英国の外務大臣パーマストン卿による外交政策、とりわけ奴隷貿易禁止に関連した方面も併せて調べてみることにした。
音吉が寺子屋レベルの教育しか受けてなかったにも拘らず、英語に関しては相当なレベルに最終的には達していた。
とすると、モリソン号でマカオに帰ってきてからは、英国に渡った可能性も否定できない。
久吉、岩吉は英国政府の現地職員となったが、一度も日本に関係して通訳を務めていない。
逆に、奇妙なことに、音吉は民間会社であるデント商会の社員であった。
1849年英国海軍の軍艦マリナー号で、浦賀上陸を試みる振りをしながら、しっかり測量したといわれているが中国名を使って通訳として乗り込んでいた。
この時この中国人通訳者を装っていたのは日本人だと勝海舟が看破し、自分のパトロンたちに書き送った手紙が残っている。
また、1854年英国海軍スターリング艦隊の通訳者として、旗艦ウィンチェスター号に乗り組み、長崎奉行相手に、日英和親条約を締結している。
現地の政府職員を使わずにわざわざ音吉を使ったのは、彼の英語の力なり、何かが英国政府に評価されていたかも知れない。
ある論文によるとマリナー号での音吉は、沿岸観察という測量に欠かせない役割を担当していたとある。
当時は、陸地を見ながら船の位置を割り出すのが、普通に船員たちが使う方法だった。
一樹は、音吉が、助けた漂流民から地元の沿岸についての事情を聞き、それを英国に流して、詳細な海図のようなものを作る一助をしていたのではないかと考えてみた。
もう少し想像をたくましくすると、デント商会としては、長崎との交流は間に人が入る形でも行っていた。
とすれば、助けた漂流民たちとは手紙による交流が続いていて、彼らを通じて、更に大きな範囲の日本の沿岸情報を入手していたとも考えられた。
対価として、英国側の測量情報を漂流民たちが使えるように加工して流していたとも考えられた。
こんなことがもし全くなければ、裏の使命として浦賀地域の測量を意図していたマリナー号に乗り組む必然は、低くなってくるのではとも思えてきた。
音吉のところに外国船が日本人漂流民を届けたり、日本人漂流民たちが音吉を目指した裏には、当時、英国の外務大臣パーマストン卿による、奴隷貿易禁止政策が絡んでいるのではないかとの見方を一樹はしていた。
当時、漂流民は奴隷貿易の対象として格好の存在だった。
どこの出身かなど証明するものを持たなかった漂流民たちは、故郷ではほとんど死んだと考えられていただろう。
奴隷として売買をしても、仕入れ0で、売り上げが立つビジネスが成立した。
そして、売り上げのほとんどが利益になっていただろうとすると、アジアを航行する外国船、とりわけ、最後まで、パーマストン卿の政策に同意しなかったポルトガルの船籍を持っていれば、お得意様になっていただろう。
確認もされない漂流民たちがいたとしたら、この対象になっていたかも知れなかった。
音吉が、この英国政府の奴隷貿易禁止政策の対象になった日本人の漂流民担当であるということが、英国政府を通じて外国政府に通告されていたかも知れない。
表向き、民間人であったが、音吉の在籍したデント商会は、アヘンの売買を主たるビジネスにしていたと言われていたので、アヘンで資金を集めていた当時の英国政府のある意味、別働隊であった可能性も否定できなかった。
そして音吉が幹部になっていくのと同じ時期に、宝順洋行という名前が使われ始めていた。
この「宝順」は、音吉たちが乗り組んでいた船の名前、「宝順丸」から来ているとしか思えなかった。
音吉がデント商会で、単なる一介の社員のままであったら、いくら音吉たちが助かったから幸運を運ぶというラッキーか何かのわけがあっても、それだけで付けられることはなかっただろう。
英国の商社が一介の漂流民にちなんだ名前を社名にする、そんなことはしないのではないかと思えた。
では、音吉に数々の仕事、通訳者、漂流民の秘密裏での日本送還、宝順洋行(音吉の死後、台湾に新たに、英国人によって立てられていた。
更に、音吉の息子が台湾で消息を絶っていた。)、浦賀での測量などは、音吉が望んだのか不明ではあったが、望んだらできたというものではなかった。
更に、ペリー提督が米国から連れてきた日本人漂流民全員を音吉に引き渡していた。
数人がボランティアで、ペリーと一緒に米国に戻っていった。
後に、ジョン・万次郎(中濱万次郎)に影響を与える、ジョセフ彦がその中にいた。
通常の手法では、すべてとはいえなくても、結論を導くにはあまりにも物的証拠が見出せなかった。
しかし、一樹が考えている状況証拠から、人物を描き直してみる手法を使うと、全く想像もできなかった音吉像が浮かんでくるはずだ。
それをつかむことで、初めて、音吉プログラムに息を吹き込むことができると一樹は確信し始めていた。
研究者の論文ではない危うさはあっても、ひとたび人物像が描けてしまえば、それは確実に独立して歩き始めることができると言えた。
そしてそれを源泉として、『内なるパワーが人生を導いていく』プログラムができたとしたら、研究者が得られる価値より、一般大衆に対する貢献は大きいと考えていた。
そのために、自分の研究者としての地位であれ、何であれ、失くなってもなんとも思わない心の状態に近づいていった。
一樹は、このプログラムの完成を持って、由布子との人生の決着が心の中で付けられる気がした。
2015年6月2日