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横浜事件!!

2010-02-04 14:11:19 | Weblog
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日本国内にも戦時下、国によって苦しめられた人が多くいた!!横浜事件を含め、多くの人が弾圧されて死んでしまった事実がある!!
長かった裁判!!お疲れ様!!果たしてこれで報われたのか?


横浜事件、実質無罪=刑事補償交付を決定-裁判打ち切りの元被告に・地裁

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」で、治安維持法違反の有罪が確定し再審で裁判を打ち切る免訴判決を受けた元被告5人の遺族による刑事補償請求に対し、横浜地裁(大島隆明裁判長)は4日、請求通り計約4700万円を交付する決定を出した。決定は「再審公判で実体判断できたら、無罪判決を受けたことは明らか」と述べ、5人を実質的に無罪と判断した。
 免訴とされた元被告への刑事補償は初とみられる。横浜事件の司法手続きは、有罪確定から64年余で終結する。
 決定で大島裁判長は事件の経緯を詳細に検討。特高警察による拷問を認定し、元被告が同法違反に問われた共産党再建準備をしたとされる会合について「証拠は存在せず事実と認定できない」とした。
 その上で、確定有罪判決について「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」と指摘。「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と結論付け、5人に法定上限の刑事補償を認めた。
 刑事補償法は免訴とされた元被告について、法の廃止や大赦がなければ無罪判決を受けたと認められる場合、刑事補償を交付すると規定。遺族は2009年4~5月、1人約723万~約1057万円を請求した。
 元被告は4次再審請求の元「改造」編集者小野康人さんと、3次請求の元「中央公論」編集者木村亨さん▽元改造社社員小林英三郎さん▽元古河電工社員由田浩さん▽元南満州鉄道社員平舘利雄さん(いずれも故人)。(2010/02/04-12:22)

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「最も素晴らしい決定」と遺族ら=感極まった表情で会見-横浜事件

2月4日12時2分配信 時事通信

 横浜地裁による刑事補償交付決定を受け、元被告・故小野康人さんの遺族らは「私たちが期待した最も素晴らしい決定」と感極まった様子で長かった闘いを振り返った。
 決定直後、記者会見場に入った小野さんの次男新一さん(63)と長女斎藤信子さん(60)は、「すごい決定だよ」と興奮気味の佐藤博史弁護士から決定書の内容について説明を受けると、一言一言うなずきながら聞き入った。最後に新一さんは涙ぐみながら、無言で弁護士と固い握手を交わした。
 新一さんは「私たちだけでなく、横浜事件に関係した六十数人の問題。画期的な決定で、支援してくださった皆さま、ありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。
 信子さんは「再審申し立てから24年、ようやく本当の答えを得ることができた。一次再審を申し立てた原告全員に(決定を)聞いてもらいたい」と声を震わせ、弁護士の手に握られた45ページに及ぶ分厚い決定書に何度も目をやった。
 3次請求の故木村亨さんの妻まきさん(60)は「主人は『よくここまでやってくれたな』と言ってくれるだろう」と語ったが、「長い歳月の中で被害者、弁護団の方が亡くなるなど、失うものも多かった。主人は喜びつつも、怒りも持ち合わせていると思う」と複雑な心境をのぞかせた。 



「横浜事件」 
第2次大戦中の1942~45年、雑誌「改造」の掲載論文が共産主義を宣伝したとして、神奈川県警特高課が研究者や編集者約60人を逮捕した事件。うち4人が獄死し、三十数人が治安維持法違反で有罪判決を受けた。戦後、元被告が特別公務員暴行傷害罪で告訴した警察官3人の有罪が確定した。元被告らは86年以降、順次再審を請求。3、4次請求で再審が開かれ、免訴判決が確定した。(了)
(2010/02/04-05:13)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-04 12:25:42 | Weblog

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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅳ
 たいていの細菌爆弾の実験は失敗に終わったので、731部隊の科学者たちは、1944年に呼吸器系を通じてペスト菌感染を引き起こす実験を行った。彼らは、細菌兵器としてあくまで使用可能な技術の開発を目指していたのである。よって、10名のマルタが安達に連れてこられ、いつものように、地面に立てられた杭に縛りつけられていた。どのマルタも、仲間の「丸太」から一定の距離をおいた地点に配置された。ペスト菌の乳状液を詰められた試験用の筒が、あらかじめ決められた距離をおいてマルタの間に多数設置された。この筒に詰められたペスト菌は、ペストに感染したラットのリンパ液、脾臓、心臓から培養されたものである。科学者たちは、試験用の筒が爆発するよう操作して、その中身が実験体の間に撒布された。ペスト菌の乳状液は細かい滴になって最終的に実験体に吸入された。科学者たちのこの技術の開発に寄せる期待にもかかわらず、この試験は失敗に終わった。また別の呼吸器系の実験が、1944年と1945年を通じて行われたが、それらも失敗に終わった。
※細菌爆弾の開発に余念がなかった!!当時の苦しい国の予算を中で、731部隊に多くのお金をつぎ込んだが、なかなか成果が出なかった!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
宋朱氏(女、71歳)の証言
 1937年の末に、私と32歳の夫と親戚の2人とが、黒橋の所(今の水道橋)に隠れて、しばらくの間住まいました。城内は民心が安定したというのを聞いて、私たち4人は布団5枚と家具などの品物を天秤で担いでいたのですが、江東門まで来たら、不幸にして日本軍にすっかりかすめ取られてしまいました。私たち飢えを忍びひもじさを堪えて、西街頭まで行き、わらぶきの家を2軒見つけて、泊り込みました。あくる日、日本の賊が2人やって来て、夫を捕まえて行き、近くの野菜畑のそばまで連行して、銃で撃ち殺し、私たち婦人をわらぶきの家に閉じ込め火で焼いたので、私たち火の塊から飛び出し莫愁湖の難民区まで逃げて行き、婦人はみんな自分の顔に灰を塗って鬼みたいにして、やっと日本軍に汚されるのを免れたのです。(楊進文と項如常と夏龍生が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!

●731部隊と天皇
 
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
 731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった
●国の公式見解 
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
●遅すぎた「聖断」
・いま、私の手元に、1988年6月23日の沖縄慰霊の日にちなんだ沖縄琉球放送(RBC)制作の特集番組「遅すぎた聖断―検証・沖縄戦への道―」の脚本がある。
 ディレクターの中里雅之氏の脚本による番組は、昭和天皇の「聖断」が、1945年8月13日ではなく、もっと早くなされていたならば、同年の4月1日の沖縄本島・読谷(よみたん)への連合軍上陸によって本格化する沖縄戦の開始もなく、あの「鉄の暴風」と呼ばれた、壮絶な戦いの中で15万人という死者を出すことはなかったであろう、という歴史事実への思いが強く打ち出された優れた作品であった。
 そこでのキーポイントとして特に強調されたのは、沖縄戦が開始される1ヶ月半前に近衛文麿によって昭和天皇に提出された早期の「終戦」を訴えたいわゆる「近衛上奏」に対して、「もう1度戦果を挙げてからでないと」と一蹴した昭和天皇の言葉であった。戦力の底をついていた日本陸海軍の現実を直視することをせず、ひたすら沖縄守備軍と沖縄民衆に絶望的な戦いを強いた帝国陸海軍最高司令官としての昭和天皇の非合理的な判断と、「国体(=天皇制支配国家体制)護持」の1点にのみ執着する余り、甚大な犠牲を生み出すことになった、昭和天皇の〈不決断〉と〈無責任〉とを厳しく衝いた内容であった。・・・・【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:179頁】※もちろん、沖縄戦の前に停戦もしくは終戦をしていれば、沖縄戦もなかったし、広島・長崎の原爆・日本の都市への多数の空襲・満州でのソ連参戦での大混乱もなかったであろう!!

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