1937年 南京 12月21日

2008-12-21 07:11:19 | Weblog

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より 
12月21日
 日本軍が街を焼き払っているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市内の6ヵ所で火が出た。 
 夜中の2時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。わが家と中山路の間にはもう1ブロックしか家が残っていない。そこに燃え拡がるおそれがあったが、運良く難をのがれた。・・・・・・・・・・・ 
 アメリカ人の絶望的な気分は次の電報を見るとよくわかる。ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。だがこれでは何もかも筒抜けだ。日本は承知するだろうか?  


 南京、1937年12月20日、在上海アメリカ総領事館 御中。 


 重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。マギー、ミルズ、マッカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。 1937年12月20日南京日本大使館 御中。海軍基地無線を通じて転送を要請します。                 M.S.ベイツ  
 

 それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、家と車のドイツ国旗をこれ見よがしに突きつければ、一応の効き目はあったが、アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。今朝早く、日本兵に車を止められたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、相手はすぐに道を空けた。それにひきかえ、トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。運良く弾はそれた。だが、我々外国人に銃口が向けられたという事が、そもそも言語道断だ。・・・・・・・ 


  我々の収容所にいる中国人の誰かが、妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろう。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。  

 午前中にガソリンを残らず本部へ移させた。中山路でこれからまだ相当数の家が焼け落ちるのではないかと心配だからだ。そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラックが何台もやってくる。それから略奪、放火の順だ。  


 午後2時、ドイツ人やアメリカ人など全員ーつまり外国人が全員鼓楼病院前に集結して、日本大使館へデモ行進を行った。アメリカ人14人、ドイツ人5人、白系ロシア人2人、オーストリア人1人。日本大使館あての手紙1通を手渡し、その中で人道的立場から以下の3点を要求した。 1、街をこれ以上焼かないこと。2、統制を失った日本軍の行動を直ちに中止させること。3、食糧や石炭補給のため、再び平穏と秩序が戻るよう、必要な措置をとること。 
 デモに参加した者は全員が署名した。 我々は日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。大使館では私が代表して意見を言い、田中正一副領事に、日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの2点については軍当局と話し合うと約束してくれた。だが、第3点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、我々のことなど知ったことではないというのだろう。  
 そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ビー号に乗っているのだが、まだ上陸を許されていない。これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。・・・・・・・・・  


 ローゼン書記官よりジョン・ラーベあての手紙
 南京を目前にして、1937年12月19日
 イギリス砲艦ビー号船上より

 ラーベさん、
 昨日から南京市を目の前にしながら上陸する事ができません。

 皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうかお知らせください。なお、ここからは大使宛の無線で連絡が取れます。当方にもいろいろな事がありました。このことはいずれお目にかかった折にお話します。この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、とにかくやってみます。(無事返事をいただけるといいのですが)。
 よろしく。   ハイル・ヒトラー!        敬具  

                       ローゼン


 

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月21日 火曜日 
 毎日がうんざりするほど長く感じられる。毎朝、どのようにすれば日中の12時間を過ごせるだろうかと思案する。 朝食のあと、例の25人の警備兵が昨夜及ぼした(女性2人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。・・・・・・  
 1時30分、アチソン氏の料理人と一緒に車でキャンパスの西の方角に向かった。料理人は、75歳の父親が殺されたと聞いていたので、是非確認したかったのだ。私たちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。老人の死骸を竹やぶに引き入れ、上にむしろをかけた。老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護をしてもらうことを拒んでいた。 
 2時に大使館に着いたが、・・・・・・・・私たちは領事に、大変申し訳ないが、あんなに大勢の兵士に石炭や茶やお菓子を出すこともできないし、それに、夜間に派遣してもらう憲兵は2名だけで、昼間は1名のはずではなかったか、と言った。領事はとても察しのよい人で、昨夜は25人もの警備兵がキャンパスにいたにもかかわらず、万事うまくいったわけではないことを理解した。 
 午後、城内にいる外国人全員で、日本軍のためだけでなく南京の中国人20万人のためにも、南京に平和を回復するよう求める請願書を提出した。私は、ついさっき日本大使館から帰ってきたばかりだったので、みなに同行しなかった。 
 日本大使館を出てから、今度はアメリカ大使館の使用人と一緒に三牌樓にあるジェンキン氏宅へ行った。彼の家は、アメリカ国旗を掲揚し、日本文の布告や東京宛の特電の文を掲示することによって護られていたにもかかわらず、徹底的な略奪をこうむった。ジェンキン氏が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。彼は雇い主の家を出て大使館に避難することを拒んでいた。 かつて南京に住んだことのある人なら、今の街路がどんなありさまになっているのか想像もつかないだろう。これまでに見たこともないほどひどい惨状だ。路上にはバスや乗用車が引っくり返り、すでに顔の黒ずんだ死体があちこちに転がり、捨てられた軍服がいたるところに散乱し、住宅や商店はすべて焼け落ちているか、そうでなければ、略奪されたり打ち壊されたりしている。安全区内の街路は混雑しているが、安全区外では日本兵以外はほとんどだれも見かけない。・・・・・・・ ・・・・

 歩いてキャンパスに戻る途中、悲嘆に暮れた男性が近づいてきて、助けてもらえないか、と言った。27歳の妻が女子学院から帰宅したばかりのところに、3人の日本兵に押し入られた。彼は家から追い出され、妻は日本兵に捕らえられてしまった、という。 
 今夜はきっと6000人ないし7000人(いや9000人ないし1万人?)の避難民がキャンパスにいるに違いない。私たちはわずかな人数で対処しており、疲れ果ててしまった。こんな激務の後どのくらい耐えられるかわからない。 


 現在、大きな火災が北東から東へ、さらに南東の空を照らし出している。毎日、夜はこうした火災が空を照らし、昼間はもうもうとあがる煙によって、いまなお略奪と破壊の行為が続いている事がわかる。戦争の生み出すものは死と荒廃である。 
 私たちは外界との接触を完全に断たれている。何が起こっているのか全くわからないし、こちらから外界にメッセージを送ることもできない。校門から外を眺めていると、門衛が、1日1日が1年のように思え、人生から一切の意味が失われてしまった、と言ったが、全くその通りだ。先が見えないのが悲しい。かつては活力にあふれ、希望に満ちていた首都も、いまや空っぽの貝殻のようだ。哀れを誘う悲痛な貝殻だ。 
 何日も前に作成した無線電報がいまだに送られないでいる。

 

 「Imagine9」解説【合同出版】より

ひとりひとりの安全を

大事にする世界  

 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。  
 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。それは前文の次の言葉です。「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」  


 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。 
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。

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1937年 12月20日 南京

2008-12-20 10:43:51 | Weblog

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
 12月20日 
 委員会本部に日本人将校が来ていた。南京一のホテル、首都飯店を片付けたいので作業員20人集めてくれないかという。このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。私は16人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックにのせて連れ帰るうえ、5中華ドル支払われるという約束だった。これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。中国人たちもあきらかにいい感じを受けていた。・・・・・・・・・・・・・ 
 午後6時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏は言った。
 「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」 
 いまこれを書いている間にも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。その中にはYMCA会館も入っている。これは故意の、もしくは軍部の命令による放火ではないだろうか。・・・・・・・
 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
  12月20日 月曜日 
 悲惨と苦難のうちに明け暮れる近頃では、快晴の天気だけが唯一の天恵であるように思われる。 
 8時から9時まで私は正門に立ち、比較的に年齢の高い女性に対し、彼女たちの娘を保護するために金陵女子学院が使えるように、自宅へ引き返してほしいと説得に努めた。みな、建て前としては承諾してくれるものの、帰宅するのを嫌がっている。彼女たちが言うには、白昼に日本兵が再三再四やってきては、ありとあらゆる物を略奪して行くのだそうだ。 
 10時から12時まで執務室で、日本大使館に提出するため、キャンパスにおける日本兵の所業について公式報告書を書こうとしたが、無駄な努力だった。というのは、日本兵を追い出しにきてくれと、キャンパスのあちらからもこちらからも呼び出しがかかるからだ。・・・・・・ 
 3時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵が来てくれる事を大まじめに願っていた。中央棟にひしめく避難民の視察を私たちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵2人が寄宿舎から女性5人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。
一人の女性が私のところに走り寄り、ひざまずいて助けを求めた。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為を止めさせることはできない。 
 午後4時、・・・・・日本大使館に連れて行ってもらった。再び実状を伝え、使用人2人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。・・・・・ 
 驚いたことに、夕食のすぐ後、今夜の警備要員として憲兵25人がキャンパスに派遣されてきた。どうやら、午後発生した事件の効き目があったようだ。・・・・・・・ 
 今夜は渡り廊下にも避難民がいっぱいで、おそらく6000人以上がいるだろう。今夜は東の空が明るい。城内では略奪が続いている。

「Imagine9」解説【合同出版】より

ひとりひとりの安全を

 大事にする世界

  これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
  緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。
 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。
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1937年 12月19日 南京

2008-12-19 17:03:52 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 
歩兵第65連隊第7中隊の大寺隆上等兵の陣中日記はこう書きとめている。
 12月19日
 午前7時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業終わる。昼食は3時だ。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月19日
・・・・・・寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、20人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路83~85号の難民収容所から助けを求める請願書が来た。  

  南京安全区国際委員会 御中 

 ここに署名しました540人の難民は、広州路83~85号の建物の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて収容されています。 
 今月の13日から18日にかけて、この建物は3人から5人の日本兵のグループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまでに30人以上が暴行されました。
 女性や子供たちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!   どうか、我々をお助けください!  
  
                           南京にて、1937年12月18日  
            難民一同

 いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。・・・・・・・・・・・・・

18時
 日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入ってきた。門扉を内側から開けようとしている。なかの一人を懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。・・・・・ 
 わが家の南も北も大火事になった。水道は止まっているし、消防隊は連れて行かれてしまったのだから、手の内ようがない。・・・・・・
 庭の難民は、300人だか400人だか正確には分からないのだが、むしろや古いドア、ブリキ板で掘っ立て小屋を作って、少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。だが困ったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。禁止しなければ・・・・・・・

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
 12月19日 日曜日
 今朝もおびえた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。たくさんの人がひざまずいて、キャンパスに入れてほしいと懇願した。入れはしたものの、今夜はどこで寝てもらうことになるのだろう。
・・・・・・歩いて学院へ戻ってくると、娘をもつ母親や父親、それに兄弟たちが、彼女たちを金陵女子学院にかくまってもらいたいと何度も懇願した。
 中華学校の生徒を娘にもつ母親は、昨日自宅が何度となく略奪をこうむり、これ以上は娘を護りきれない、と訴えた。 
 それから、日本兵の一団を追い出してもまた別の一団がいるといった具合で、キャンパスの端から端まで行ったりきたりして午前中が過ぎてしまった。南山にはたしか3回行ったと思う。
 その後、キャンパスの裏手まで来た時、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱したような声で言われた。その2階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎2階の538号室に行ってみると、その入口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、私が駆けつけたことで、二人はあわてて逃げ出した。
 卑劣な所業に及んでいるその二人を打ちのめす力が私にあればよいのだがと、激怒のあまりそう思った。
 日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。・・・・・

「Imagine9」解説【合同出版】より


戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界へ
 

 また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。
  いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。
 暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。
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1937年 12月18日 南京

2008-12-18 11:33:20 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
歩兵第65連隊第7中隊の大寺隆上等兵の陣中日記はこう書きとめている。
 12月18日・・・昨夜まで殺した捕虜は約2万、揚子江に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。7時だが未だ片付け隊は帰ってこない。

  「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
 最高司令長官がくれば治安がよくなるのかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながら外れたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやをおさめた。 私が家にいる間は問題はない。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがある。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 中国人が一人、本部に飛び込んできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたと言う。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!・・・・・

 家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。その時近所の中国人が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で4人だということだった。我々は直ちに駆けつけ、危ないところで取り押さえる事ができた。将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。 再び車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたと言う。私は体中の力が抜けた。・・・・・
 次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。・・・・・・・

 18時
 危機一髪。日本兵が数人、塀を乗り越えて入り込んでいた。中の一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣を放り出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつを直ちにつまみ出した。逃げようとして塀をまたいでいたやつは、軽く突くだけで用は足りた。・・・・・・・・・・・ 
 寧海路五号にある委員会本部の門を開けて、大勢の女の人や子供を庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。我が家のたった500平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。300人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいる限り、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときは決して安全ではなかった。・・・・・

 悲しいことに、鼓楼病院でも看護婦が何人か暴行にあっていた。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月18日 土曜日 
 今は毎日が同じ調子で過ぎていくような気がする。これまで聞いた事もないような悲惨な話ばかりだ。恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子供たちが早朝から続々とやってくる。彼女たちをキャンパス内に入れてやることだけはできるが、しかし、みなの落ち着く場所はない。夜は芝生の上で眠るしかない、と言い渡してある。具合の悪いことに、寒さがかなり厳しくなっているので、これまで以上の苦痛に堪えなければならないだろう。比較的に年齢の高い女性はもちろんのこと、小さい子供のいる女性に対しても、未婚の少女たちに場所を譲るため、自宅へ帰るよう説得を強めているところだ。・・・・・・・・
 たいていの場合、立ち退くように説得すればそれですむのだが、中にはふてぶてしい兵士がいて、ものすごい目付きで、ときとしては銃剣を突き付けて私をにらみつける。今日南山公寓へ行き、略奪を阻止しようとしたところ、そうした一人が私に銃を向け、次には、一緒にいた夜警員にも銃を向けた。 昨夜恐ろしい体験をしたことから、現在、私のいわば個人秘書をしているビック王を同伴して日本大使館へ出向くことにした。・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そこで、私たちの困難な体験のこと、また金曜日の夜の事件のことも報告し、そのあと、兵士たちを追い払うために持ち帰る書面と、校門に貼る公告文を書いてほしいと要請した。両方とも受け取る事ができて、言葉では言い表せないほど感謝しながら戻ってきた。田中氏は物分りのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵二人に夜間の警備をさせるつもりだ、と言ってくれた。降車する際大使館の運転手にチップを渡そうとすると、運転手は、「中国人が壊滅的な打撃をまぬかれたのは、ごく少数ではあるけれど外国人が南京にいてくれたからです」と言った。
 もしこの恐るべき破壊と残虐が抑止されないとしたら、一体どういうことになるだろうか。

 昨夜はミルズと二名の憲兵が校門に詰めてくれたので、久しぶりに何の憂いもなく安らかに就寝できた。 私がこの執務室でこれを書いている今、室外から聞こえてくるわめき声や騒音をあなたたちに聞いてもらえたらよいのだが。この建物だけで600人の避難民がいると思うが、今夜はきっと5000人がキャンパスにいるのではないだろうか。今夜はすべてのホールに、そしてベランダにも人があふれていて、ほかには場所がないため、彼女たちは渡り廊下で寝ている。・・・・・・・

「Imagine9」解説【合同出版】より


戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。  
 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
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1937年 12月17日 南京

2008-12-17 16:38:23 | Weblog
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
「未曾有の盛事、感慨無量なり」
12月17日、午後1時半に南京入城式が定刻通り開始された。この式には南京攻略戦に参加した全戦闘部隊の三分の一が代表部隊として入城し、中山門から祝賀会場の国民政府庁舎まで三キロにわたり、中山東路の両側に整列した。 南京入城式のもようは、大報道陣によってニュース映画、ラジオ、新聞、雑誌を通して大々的に日本国内に報道された。入城式のセレモニーで主役を演じた松井石根大将は、得意絶頂にあった。・・・・・

「休養の十数日」・・・・・・南京攻略戦に参加した多くの師団が、南京警備に残留した第16師団をのぞいて、新たな作戦地域を目指して移動していったのは、クリスマス前後のことだった。それまで、総勢7万以上の日本軍が前後して南京城内に進駐し、10日前後の「休養」を過ごした。・・・・・ 
 無理難題の南京攻略を強いた将兵の憤懣・反発の「ガス抜き」としてあるいは「慰労」として、多くの部隊が南京城内に進駐し、勝利者、征服者の「特権」として徴発、略奪、殺戮、強姦、暴行、放火などの不法行為に走るのを黙認、放任するかたちになった。しかも12月17日の段階で、南京城内にいた憲兵はわずか17名に過ぎなかった。 
 南京攻略戦は参謀本部の作戦計画には元々なかったため、南京を陥落させたものの、次に実行すべき、明確な作戦が陸軍中央にはなかった。陸軍中央部内に、国民政府と停戦・和平を目指す勢力と国民政府をいっきょに壊滅させ、傀儡(かいらい)政府を樹立してこれに代えようとする勢力、すなわち不拡大派と拡大派の対立があったことも無策の原因となった。 こうして、日本軍の完全占領下に、外部との交通・通信を遮断されて「陸の孤島」となった南京は「密室犯罪」的な環境のもとにおかれた。・・・・・・・・・・・・・・・・  
 入城式後に激発した強姦入城式がおこなわれた17日前後から城内の強姦が激増したことをフィッチは、日記に記している。
 12月17日、金曜日。略奪、殺人、強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨  夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦された のです。別の婦人は5ヶ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強  姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。・・・・・・・・・・・・・・  
 南京安全区国際委員会の中心メンバーとして活躍したマイナー・S・ベイツ(金陵大学歴史学教授、40歳)は、アメリカのキリスト者に対する手紙の中に、日本軍による強姦についてこう記している。 
 有能なドイツ人の同僚たちは(ラーベらのこと)強姦の件 数を2万件とみています。私にも8000件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。我々の職員家族 の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、100件以上の強姦事 件の詳細な記録がありますし、300件ほどの証拠もあります。ここでの苦痛と恐怖は、あなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学区内だけでも、11歳  の少女から53歳になる婦人まで強姦されています。他の難民グループではむごい事にも、72歳と76歳になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が1人の女性を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。  
 
 中シナ方面軍の司令部が無策のままに、何万という軍紀の弛緩した軍隊を10日前後も駐留させたため、戦闘とは全く関係のない、膨大な女性の身体と生命が犠牲にされた。それも、南京難民区国際委員会が掌握した事例は部分にしかすぎなかった。難民区外さらに広大な城外近郊区で行われた多くの婦女陵辱行為は記録する者も証言する者もなく、歴史の闇に葬り去られている。・
・・・・・・
 捕虜の殺害
 17日について、歩兵第65連隊第1大隊の荒海清衛上等兵の陣中日記は、「今日は南京入城なり。俺等は今日も捕虜の始末だ。1万5千名。今日は山で」と記している。

「南京の質実」(ラーベ著:講談社)
12月17日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出て行くと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とか何とか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、また、もと来た道をそそくさと引き返していった。 塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。この中の一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶ事ができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人の誰かがこんな風に言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった」 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は1000人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも100人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。・・・・・・・・・・・・ 
 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が30体転がっている。昨日、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町を片付け始めた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げ込まれている。

 午後6時、庭にいる難民たちに筵を60枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が4人、またしても塀をよじ登って入ってきた。3人はすぐにとっつかまえて追い返した。4人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へ出たとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。 
 アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ!」あるいは「ヒトラー!」と叫ぶだけでよかった。すると日本人はおとなしくなるからだ。
 今日、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし)書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏は早速この書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。・・・・・・

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月17日 
7時30分、F・陳と一緒に門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。疲れ果ておびえた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は12歳の少女から上は60歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人々に、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)それぞれの個人の悲しい話ーとりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話ーを書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。・・・・・・・・
 午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告があり次第、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。
・・・・・・
 ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が3人理科棟にいます・・・・」などと使用人が言ってこない日はない。・・・・・・・・・・・
 終日押しよせる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースがあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。4時から6時までの間に大勢の婦女子の2グループを引率して行った。なんと悲痛な光景だろう。おびえている少女たち、疲れ切った女性たちが子供を連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼ歩いて行く。彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の略奪品を抱えて家から家へと移動していくところに出くわしたからだ。・・・・・・・・・ 

 夕食をとり終わった後で中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。2人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようにしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、私は、「中国兵はいない」と言った。一緒にいた李さんも同じ答えをした。その兵士は私の頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたか殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。・・・・・・・・・・・
 
 彼らは一階も二階も入念に調べていた。外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人3人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、私は、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実そうだったからだ。日本兵は3人を正門のところへ連行したので、私もついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端にひざまずいていた。その中には、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人が何人かがいた。・・・・・・・・・・・・・
 後に残った私たちがその場で立ったりひざまずいたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行して行くのだろうと思った。後になって私たちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところに拘束した上で、審問を装って兵士3,4人が中国兵狩りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が12人の女性を選んで、通用門から連れ出したことを後で知った。すべてが終わると、彼らはF・陳をつれて正門から出て行った。私は、陳さんにはもう2度と会えないと思った。日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動くものはだれかれかまわず即座に銃撃するに違いないと思った。その時の情景は決して忘れる事ができない。道ばたにひざまずいている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それに私。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しくうめく様に吹く中を、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。・・・・・・・・・ 
 それからメリーと私は実験学校に行ってみた。驚いたことに、陳さんと婁さんが私の居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。・・・

「[Imagine9」解説【合同出版】より


女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
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1937年 12月16日 南京 この世の地獄

2008-12-16 19:39:48 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より 
 
南京入城式を翌日に控えた12月16日になると、難民区における「敗残兵狩り」はいっそう過酷になった。その理由は、この日の飯沼守上海派遣軍参謀長の日記から知る事ができる。  
 
午後1時出発、入城式場を一通り巡視、3時30分頃帰る。多少懸念もあり、長中佐【上海派遣軍司令部参謀部第二課長・長勇(ちょう いさむ)】の帰来報告によるも、16D(16師団)参謀長は責任を持ちえずとまでいいおる由なるも、すでに命令せられ再三上申するも聴かれず、かつ断固として参加を拒絶するほどとも考えられざるをもって、結局要心しつつ御伴する事に決す。(中略) 
 
長中佐夜再び来たり、16Dは掃蕩に困惑しあり、3Dをも掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。(「飯沼守日記」)  
 
入城式を17日に決行することに汲々とする松井司令官ら中シナ方面軍司令部に対する反感が吐露されているが、それでも実施を決まった以上しかたないとして、最大の懸念は大通りを馬上行進する皇族・朝香宮司令官の身にもしもの事が起こることだった。飯沼参謀長が用心しつつお伴するといっている相手は朝香宮のことである。まだ多少懸念があるので、第16師団の掃蕩だけでは不安なので、第3師団(名古屋)も投入して南京城周辺を徹底的に掃蕩させよ、というのである。・・・・・・・・・・・  
 
難民区の「敗残兵狩り」を担当した第9師団の歩兵第7連隊は前日の夜に次のような命令を下達した。  
 
連隊は明16日全力を難民地区に指向し、徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす。 各大隊は明16日早朝よりその担任する掃蕩地区内の掃蕩、特に難民地区掃蕩を続行すべし (「南京戦史資料集」)  
 
上の命令に従って16日には、難民区で男子難民を巻き込んだ「敗残兵狩り」が大々的に実施された。その様子を同歩兵第7連隊の兵士は日記にこう記している。
 
午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断のうえ、各中隊分担の地域内を掃蕩する。目に付くほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を 着剣した兵隊が取り巻いて進行してくる。各中隊とも何百名も狩り出してくるが、第1中隊は目だって少ないほうだった。それでも百数十名を引き立てて来る。そのすぐ後ろに続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められるものはすぐに帰して、36名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。
 
難民区の「敗残兵狩り」を担当した第9師団歩兵第7連隊長伊佐一男大佐の日記(12月16日)には「3日間にわたる掃蕩にて約6500を厳重処分す」とだけ簡単に記されている。
 
この数字は、14日に安全区事務所を訪れた日本軍の連隊長が「安全区内に6000人の元中国兵が逃げこんでいる」とフィッチに告げた数に符合する。しかし、殺戮されたのは、過半が一般市民だった。ラーベはこの「厳重処分」の実相をこう記している。  
 
武装解除された部隊の各人、また、この日(12月13日)のうちに武器をもたず安全区に庇護を求めてきたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群れの中から分けだされたのでした。手が調べられました。銃の台尻を手で支えたことのある人ならば、手にたこができることを知っているでしょう。背嚢を背負った結果、背中に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができていないか、あるいはまた、毛髪が兵士らしく刈られていないか、なども調べられました。こうした兆候を 示す者は兵士であったと疑われ、しばられ、処刑に連れ去られました。何千人もの人がこうして機関 銃射撃または手榴弾で殺されたのです。恐るべき光景が展開されました。とりわけ、見つけ出され た元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎると思われたので、全く無実である数千の民間人も同時に射殺されたのでした。しかも処刑のやり方もいい加減でした。こうして処刑された者のうち少なからぬ者がただ撃たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振りかけられ、生きたまま焼かれたのです。これほどひどい目にあわされた者のうち数人が鼓楼病院に運びこまれて、死亡する前に残忍な 処刑について語る事ができました。私自身もこれらの報告を受けました。我々はこれらの犠牲者を映画で撮影し、記録として保存しました(マギー牧師撮影のフィルム)。射殺は揚子江の岸か、市内の空き地、または多く小さな沼の岸で行われました。(「南京事件・ラーベ報告書」)

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
 
12月16日・・・・・・・・・・ 
 今ここで味わっている恐怖に比べれば、今までの爆弾投下や大砲連射など、物の数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区の中にも及んできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、この時の状況がおおよそうかがえる。ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。
在南京日本大使館  福田篤泰様
拝啓
 
安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも、近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大勢の人々に食料をいきわたらせることは、大変難しくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力(クーリー)を十分集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。・・・・・・  
 この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。・・・・
 私たちは昨日苦情を申し立てませんでした。日本軍最高指令官が到着すれば、街は再び落ち着きと秩序を取りもどすと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。こもままではもう耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。                      
敬具
    代表   ジョン・ラーベ  
                                                                                    
   
事務局長 ルイス・S・スマイス  
 
ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人は誰一人、家から出ようとしない!私はすでに100人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子供が押し合いへし合いしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭に入れてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。・・・・・・・・・・・  
 
たった今聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺されるのだ。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されるという。 下関(シャーカン)へ行く道は一面死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。ゆう江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字通り死屍累々(ししるいるい)だ。日本軍は少しも片付けようとしない。安全区の管轄下にある紅卍字会(こうまんじかい・・・民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。 銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された人たちもいる。・・・・・・・  
 
以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書を受け取った後、家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから2発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まって今私の目の前にある。いま、これを書いているいる間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がいくつもにゅーっと突き出た。小型サーチライトを手に私が出て行くと、さっといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この3日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。 女の人や子供たちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いに寄り添って体を温めたり、励ましあったりしている。この人たちの最大の希望は、「異人」である私が日本兵という悪霊を追い払うことなのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
 
12月16日 木曜日
 夜、ジョージ・フィッチに、状況はどうだったか、城内の治安回復はどの程度進捗したかを尋ねると、「きょうは地獄だった。生涯でこの上なく暗澹たる一日だった」との答えが返ってきた。私にとっても全くその通りだった。 ・・・・・・・・・ 
 
今朝、10時ごろ、金陵女子文理学院に対する公式の査察が行われた。徹底した中国兵狩りである。100人を超える日本兵がキャンパスにやってきて、まず( )棟から査察を開始した。彼らは、すべての部屋を開示するよう要求した。鍵がすぐに間に合わなかった時のことだが、彼らはひどくいらだち、兵士の一人が、力ずくでドアを開けようと斧を手にして待ち構えていた。徹底した捜索が始まると、気が滅入ってしまった。・・・・・・・  
 
日本兵は学院の使用人を2度にわたってつかみ、この男たちは兵隊だと言って連行しようとしたが、私がそこに居合わせ、「兵隊ではない、苦力(クーリー)です」と言ったことで、彼らは、銃殺ないしは刺殺の運命から免れた。日本兵は、避難民のいるすべての建物内を捜索した。・・・・・・  
 
正午を少し回ったころ、少人数の一団が校門を通り抜けて診療所へやってきた。私がそこに居合わせなかったら、彼らは唐の弟を連れ去ったことだろう。そのあと彼らは通りを進んで行き、洗濯場に押し入ろうとしたが、まさにその時私が追いついた。誰でも日本兵から嫌疑をかけられようものなら、一からげに縄でつながれて彼らの後ろから歩いていく4人の男と同じ運命を強いられたであろう。日本兵は4人を、キャンパスの西にある丘へ連れて行った。そして、そこから銃声が聞こえた。 
 
おそらく、ありとあらゆる罪業が今日この南京で行われたであろう。昨夜、語学学校から少女30人が連れ出された。そして、今日は、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。その中の一人はわずか12歳の少女だった。食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは55ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押入れられ、金品を奪われているのではないかと思う。今夜トラックが一台通過した。それには8人ないし10人の少女が乗っていて、通過する際彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。丘や街路から時々銃声が聞こえてくると、誰かのーおそらく兵士でない人のー悲しい運命を思わずにはいられない。・・・・・・・・・・・・・・・・・  
 
理科棟の管理人の姜師傳の息子が今朝連行された。魏はまだ戻ってこない。何かしてやりたいのだが、どんなことをしたよいかわからない。というのも、城内の秩序が回復していないので、キャンパスを離れるわけにはいかないからだ。・・・・・・・・ 
 
今夜の南京は、壊れてしまった惨めな貝殻に他ならない。通りに人影はなく、どの家も暗闇と恐怖に包まれている。今日は無辜の勤勉な農民や苦力(クーリー)がいったい何人銃殺されたことだろう。
 
私たちは40歳以上の女性のすべてに、娘や嫁だけをここに残し、帰宅して夫や息子と一緒にいるようしきりに促した。今夜は私たちには、約4000人の婦女子に対する責任がある。こうした緊張にあとどのくらい耐える事ができるのだろうか。それは、言葉では言い表しがたい恐怖だ。 
 
軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとっては勝利と見なせるかもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である。このことは、将来中国との協力及び友好関係を長く阻害するだけでなく、現在南京に住んでいる人々の尊敬を永久に失うことになるであろう。今南京で起こっていることを、日本の良識ある人々に知ってもらえさえしたらよいのだが。 

 神様、今夜は南京での日本兵による野獣のような残虐行為を制止してくださいますよう。
 
今日、何の罪のない息子を銃殺されて悲しみに打ちひしがれている母親や父親の心を癒してくださいますよう。そして、苦しい長い一夜が明けるまで年若い女性たちを守護してくださいますよう。
 
もはや戦争のない日の到来を早めてくださいますよう。あなたの御国が来ますように、地上に御国がなりますように。

 

 「Imagine 9」解説【合同出版】より

女性たちが

平和をつくる世界  

 戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月15日 南京

2008-12-15 14:10:17 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

 南京攻略戦下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者は、無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号が撃沈されたこと、及び日本軍占領下ではもはや記事の送信手段がないことから、12月15日、パナイ号生存者を乗せた米艦オアフ号が下関埠頭に寄ったさいに乗船して南京を離れ、上海へ向かった。このとき、ダーティン記者は、「敗残兵狩り」「便衣兵狩り」で集められ、連行された軍民の処刑場面を目撃した。  上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド(埠頭)で200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並べされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を打ちこんだ。 この身の毛のよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。(「ニューヨーク・タイムス」37年12月18日、『アメリカ関係資料編』)

 長江沿岸 ・・・・・・・・・・・ 山田支隊の第5中隊長代理角田栄一少尉の回想。 私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明りのなかにものすごい大軍の黒い影が・・・・・。私はすぐ“戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。(中略) ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて降参してしまったのです。すでに戦意を失っていたかれらだったのです。(「南京戦史」)  

 山田支隊が捕獲した捕虜の数について、支隊長の山田栴二少将の日記はこう記している。  

(12月14日)他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前4時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。   捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、14777名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。 

(12月15日)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。(「南京戦史資料集Ⅱ」)  

上の莫大な捕虜の措置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、入城式を控えて、敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上級から、捕虜の全員処刑を命ぜられたのである。山田支隊では、これらの膨大な捕虜や避難民を16日と17日とにわたって殺戮した。

 

  「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

  12月15日  朝の10時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。・・・・

 昨日、12月14日、司令官と連絡が取れなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に次のような手紙を渡した。  南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。本委員会は、この地区から中国軍を撤去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち12月13日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めて安全区に近づいてきたのです。 我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。 捕虜に対する標準的な法規に鑑み、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやく彼らを普通の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。

                      敬具                                            ジョン・ラーベ、     代表

 

  この手紙と司令官にあてた12月14日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。  議事録南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)

 1937年12月15日 昼 通訳・福田氏

出席者  ジョン・ラーベ氏 ・代表スマイス博士・事務局長シュペアリング氏・監査役

1、南京においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。

2、安全区の入口には、日本軍の歩哨が立つ。

3、避難した住民は速やかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。

4、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場にたって扱うつもりである。その件は我が軍に一任するよう希望する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げ込んできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は1300人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人で何とかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、しばられ、連行された。そして銃殺されるのだ。 スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようと言ってくれたが、望みは薄い。・・・・・・・・  人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。だが、中国軍の方も済南で日本人捕虜を2000人銃殺したという話だ。 日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイ号が日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者2人。・・・・・・・・・・・・

 

 スミス氏(ロイター通信社)講演

 12月13日の朝、通りにはまだ日本軍の姿はありませんでした。町の南部は依然として中国軍の支配下にあったのです。中華門あたりでは、夜、すさまじい戦闘が繰り広げられました。・・・・ 

 12月13日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。まず襲われたのは食料品店です。一般の民家からも、兵士が食料を持って出てくる光景が見られました。しかし、中国軍が組織的に略奪行為をもくろんだというのは正しくありません。 とくに印象的だったのは、中国人の衣料品店前の光景です。何百人もの兵士たちが店の前に押し寄せ、ありとあらゆる種類の服が、飛ぶように売れていきました。有り金はたいて服を手に入れ、その場で着替えると、兵士たちは軍服を投げ捨て、市民のなかにまぎれこんでいきました。・・・・・・・・・

 日本軍のパトロール隊を見かけました。彼らは6人から12人くらいで一団となり、メインストリートをゆっくりと注意深く進んで行きました。時たま銃声が鳴り響き、あちこちに市民が倒れていました。日本軍に言わせると、逃げようとして撃たれたというのです。ただ、日本軍の姿をみると、一般市民の間にはある種の安堵感がたっだよったように思えました。もし、人間らしい振る舞いをしてくれるなら、日本人を受け入れよう、という気持ちがあったのです。・・・・・・・・・・・・  

 12月14日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。しかし昼ごろになると、6人から10人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで見られるようになりました。彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪を繰り返しました。中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。  

 私は12月15日に南京を後にしたのですが、それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、日本兵によって略奪し尽くされていました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 12月15日、外国人の記者団が、南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そこで我々の見たものは、広場で日本軍が中国人をしばりあげ、立たせている光景でした。順次、引き立てられ、銃殺されました。ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮を執っていた日本人将校に気づかれ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかはわかりません。

 

 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

  12月15日(水曜日) たしか、きょうは12月15日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるか覚えているのは容易ではない。 昼食の時間を除いて朝8時30分から夕方6時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性はおびえた表情をしていた。城内では昨夜恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。今朝ソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。それからというもの、女性や子供には制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的年齢の高い女性に対しては、できれば自宅にいるよう常々お願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと3000人以上の人がいると思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昨日と今日、日本軍は広い範囲にわたって略奪を行い、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。武装解除された1000人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、多分、今頃はすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送る事ができない。相変わらず銃声が時折聞こえる。

 

 [Imagine 9」解説【合同出版】より

基地をなくして

緑と海を取りもどしていく世界

 基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。  

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。 

 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。

 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月14日 南京 

2008-12-14 08:35:28 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波書店)

12月14日・・・この日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜(かし)された。  陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』) 

 この夜、南京陥落を待ちかねていた東京では、市民40万人が繰り出して南京陥落祝賀の大提灯行列をおこない、広い皇居の周囲は提灯をもつ大群衆で埋まった。  南京の長江上流にも、大きい江心洲があり、そこから2、3百メートルの川幅しかなかったので、小舟や筏で簡単に渡る事ができた。12月14日、同洲に敗残兵多数がいるという情報を得て、「残敵掃蕩」に行った国崎支隊の歩兵41連隊(福山)の中隊は最初に投降した捕虜を利用して、残りの中国兵を降伏させることに成功した。その経緯を歩兵41連隊第12中隊「江心州敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報」はこう記している。   

 中隊長の計画は図にあたり、午後7時30分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投  降 す。中隊長は兵器と捕虜を区別しこれが整理をおこなえり。  これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕   虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。(中略)  捕虜2350人(『南京戦史資料集』)

 2350人の捕虜をどのように「後刻処置」したのか、公刊された資料には記されていない。しかし、第10軍司令官柳川平助から「国崎支隊は主力を持って浦口付近を占領し、残敵を捕捉撃滅すべし」という丁集団命令が出されていた(『南京戦史資料』)。 

  入城式のための「残敵掃蕩」巧妙心にはやる松井石根司令官と中シナ方面軍司令部が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日から17日にかけて、南京城の内外で全力をあげての徹底した「残敵掃蕩・殲滅」作戦を遂行することになった。 大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有の盛事、敵の首都への皇軍の入城」の一大セレモニーの日に、式場はもちろん、銃内、城外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下が入城するため一時通行禁止となり」(牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、残虐される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。・・・・・・・・・・・・・・

 (12月14日)昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢のよい者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の21名とともに射殺する。(南京戦史資料集)

  ダーティン記者は、民間人の多くを殺害した、城内の「残的掃蕩」の様子をこう記す。  南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕が  あるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん  軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命拾い する場合もあった。 南京掃討を始めてから3日間で、1万5千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。 そのとき、さらに2万5千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略) 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のよ うに目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっている事が多く、兵隊の気まぐれで、背後から  撃たれたことは明らかであった。(「ニューヨークタイムス」38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

 「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

 12月14日 (この日の記述はない。いろいろな事件への対応に追われて忙しかったのか、編集者がカットしたのか分かりません。)

 「南京事件の日々」(ヴートリン著:大月書店)より 12月14日 火曜日 午前7時30分。昨夜、戸外は平穏だったが、人々の心の中には未知の危険に対する恐怖があった。夜明け前に再び城壁に激しい攻撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入する際に、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。時折銃声も聞こえた。・・・・・ 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかったどろう。・・・・・・・・・・・・・ 

 昨夜、日本兵によって無理やり家から追い出された人の話や、さらには、今朝日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。・・・・・・・ひどい目にあわせられた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。  4時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。・・・・・・彼らは中国兵に対しては情け容赦なく、アメリカ人にはあまり関心がない。 ・・・・・・・・ 

  貧しい人々の家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしたのだ。 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵であふれ、校門のすぐ前にも兵士が8人ぐらいいた。彼らが立ち去るまで私は校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師傳を彼らから奪い返す事ができた。私がそこへ行かなかったら、彼らは彼を案内役として連れ去ったであろう。学院の使い走りの魏は今朝使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。・・・・・・・・ 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。日本兵は目下、安全区の東にある地区へ移動しているようだ。・・・・・・・・

 ※血に染まる長江(「南京事件:笠原著)より 佐々木到一の私記は、「軽装甲車中隊午前10時ごろ、まず下関に突進し、公岸に蝟集(いしゅう)しあるいは江上を逃れる敗敵を掃射して、無慮1万5千発の弾丸を撃ち尽した」と記している。同じ第16師団の歩兵第33連隊の「南京付近戦闘詳報」は、こう記している。  午後2時30分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛及び速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること2時間、殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。(「南京戦史資料集」)・・・・・・・・・

 「Imagine 9」【合同出版】より

 基地をなくして

緑と海を取りもどしてい世界

  戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。  世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月13日 南京

2008-12-13 17:55:06 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

 12月13日・・・日本軍、「残敵掃蕩」を開始大殺戮の開始「あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし」 

 12月12日深夜に南京城を陥落させた中シナ方面軍は、翌13日朝から南京城内外の「残敵掃蕩」を開始した。各師団、各部隊に担当地域が割り当てられ、作戦は徹底、周到なものになった。第10軍(丁集団と称した)司令官柳川平助中将は、こう下令した。     丁集団命令(丁集作命甲号外)  

 12月13日午前8時30分1、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす。1、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、とくに敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す(『南京戦史資料集』)・・・・・ 上海派遣軍第九師団の歩兵第六旅団長秋山・・少将は、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」で次のことを指示した。 1、遁走せる敵は、大部分便衣(べんい)に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す 1、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし(『南京戦史資料集』) 「便衣」とは中国語で平服の意味で、「便衣兵」は軍服ではなく民間人の服を着ている「私服兵」「ゲリラ兵」をさした。「便衣兵」と認定するには武器携帯を確認する必要があったが、右のような指示は、一般の青壮年男子を敗残兵とみて「掃蕩」の対象にすることを意味した。しかも「逮捕監禁」といっても、日本軍は「捕虜はつくらぬ方針」で臨んだのである。

  13日の「残敵掃蕩」の模様を、・・・・南京に踏みとどまっていたダーティン記者はこう報じた。

 月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略) 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることも会った。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖に駆られて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。(『ニューヨーク・タイムス』38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

 このような敗残兵にたいする集団殺戮は、長江沿いの下関地区一帯でもっとも大規模におこなわれた。・・・・・・・ハーグ陸戦条約にもとづけば、すでに軍隊の体をなさず、戦意を失っているそれらの敗残兵の大軍にたいしては、投降を勧告し、捕虜として処遇してやる必要があった。しかし、日本軍がおこなったのは殲滅=皆殺しだった。同地域の「残敵掃討作戦」を担当した第16師団の佐々木到一支隊長は、その日の「戦果」をこう記している。  この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯がばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。(「佐々木到一少将私記」)    

 日本軍だって食糧補給がなく現地徴発=略奪で食をつないでいるくらいだから、捕虜にしても食わせるものがない、だから始末=殺害してしまえ、ということである。・・・・・ 

 投降兵、敗残兵を捕虜として収容しないで、殺害せよというのは、第16師団の方針でもあった。師団長中島今朝吾中将は日記(12月13日)に「捕虜掃蕩」という項目で次のように記している。 

 だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、5千、一万の群集となればこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)・・・・・・・・・・この7、8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、2百に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり。(『南京戦史資料集』)  この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は2万3千人を超える膨大なものとなった。

 「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

 12月13日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領しただけで、まだ内部には踏み込んでいない。 本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくはこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。 委員会のメンバー3人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよく分かった。砲撃が激しくなった時に医者も看護人も患者を放り出して逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気を取りもどした。 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。 ・・・・・・・・・ふと前方を見ると、ちょうど日本軍が向こうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。日本軍は北へ向かうので、我々はあわてて回れ右をして追い越して、中国軍の3部隊を見つけて武装解除し、助けることができた。全部で6百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。 ・・・・・・・鉄道部のあたりでもう一部隊、4百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。・・・・・・・・・安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。 我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。・・・・・  本部に戻ると、入口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたのに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。・・・・・  町をみまわってはじめて被害の大きさがよく分かった。百から2百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。 日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェも襲われた。・・・・中山路と太平路の店のほとんど全部。・・・・・・・・・・・・・・・・・

 近所の家も皆こじ開けられ、略奪されていた。フォスターは、日本兵が数人で自分の自転車を盗もうとしているのを見つけた。我々を見ると日本兵は逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだからと、略奪兵を追い払うように頼んだが、相手は笑うだけで取り合おうとしなかった。  

 2百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々が何を言ってもしょせんむだなのだ。 

 元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、4百ないし5百人がしばられて連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたに違いない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。・・・・・・    日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、14歳から15歳の娘が3人さらわれたといってきた。・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 被害を報告するため、今朝6時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊の中には乱暴なものも大ぜいいる。

 そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。  絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部に戻った。あちこちで人々が苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が飢えている。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が7人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を打たれた10歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。

 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

12月13日(月曜日)  

 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。・・・・・城内でもさかんに銃撃が行われた。実際、私はぐっすり眠りに付くこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、誰もが服を着たままだった。5時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。・・・・門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、中には民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。今朝、キャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、私たちとしては、キャンパスの中でなくても安全区にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らに分からせようと努力してきた。 粥場、つまり炊き出し所で今朝初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。10時半には粥はすっかりなくなっていた。・・・・・

 午後4時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人が私を呼びに来て、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞鳥(がちょう)を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 午後7時30分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス・陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。後にこのことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致した。  今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。私たちは、透過不可能な地帯に隔てられて全く孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つ事にしよう。金陵女子文理学院に関しては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。私たちはほとんどいつも、全身染み込んだ疲労に耐え切れずに、太くて低いうめき声を発している。8今夜は武装を解いた兵士が安全区に大ぜいいる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない。)

「Imagine 9」解説【合同出版】より

 武器を使わせない世界

 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。  ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月12日 南京

2008-12-12 08:47:47 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波書店)より

 12日、戦勝報道にわいた日本国内では、官庁と教育界、マスコミ、ジャーナリズムの肝いりで、南京陥落祝賀行事が繰り広げられた。

 同日の新聞は「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ!南京陥落だ!/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(『東京日日新聞』)と報じた。

 宮城前には、朝から東京外国語学校の生徒700名が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れたのをはじめ、東京都下の学生の奉祝パレードがおこなわれ、さらに一般の群衆にまじって、校長・教師の先導で東京府内の各学校の生徒たちが終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進をしていった。 

 東京府の府庁舎の空には「祝南京陥落」のアドバルーンが上げられ、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、そして「南京陥落」と書いた幟(のぼり)が飾られた。・・・・・・・  

 

 12日、南京では夜明けとともにかつてなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。完全に南京の制空権を掌握していた日本軍機は、中国軍陣地に容赦ない爆撃をくわえ、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据えた日本軍の砲列は、城壁と城内に向けて猛烈な砲火を浴びせた。

  南京城の南の中華門外の重要拠点である雨花台陣地には、第六師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が猛攻をくわえ、正午までに同陣地を占領した。第六師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、さらに城内にも砲撃を撃ちこむ。このため、南京の中心街に砲弾が落ち、硝煙が街をおおい、各所に火の手があがった。雨花台の北端に進出した第11師団(善通寺)は、中華門から東の雨花門にかけての城壁に集中攻撃を開始した。・・・・・・・  

 12日、日本海軍機、アメリカ砲艦パナイ号を撃沈。南京防衛軍司令長官 唐 生智、撤退命令を出す。深夜、南京陥落。

 

 「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

 12月12日 

 日本軍はすんなりと占領したのではないかという私の予想は見事に外れた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうてい無理だ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。  11時に唐将軍の委任により龍上校と周上校がやってきた。3日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。

  休戦協定の内容はーこの3日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。我々は、まずアメリカ大使宛の電報、次に調停を依頼する唐将軍の手紙を作成し、最後に軍使に関する取り決めをまとめあげた。軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。・・・・・夕方6時頃、ようやく龍が姿を見せる。龍は言った。「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城内の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」・・・・・  

 18時半・・・紫金山の大砲はひっきりなしにとどろいている。あたり一面、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだか分からないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。その後から中国軍部隊がぞろぞろ続いている。日本軍に追われていると言っているが、そんなはずはない。一番後ろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのを見れば分かる。 この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきた事がわかった。次第に落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのだが、いつしかのんびりとした行進にかわっていたというわけだ。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。・・・・・・・・・  

 20時・・・南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになっている。ふたつある門の両方でノックの音がする。中に入れてもらおうと、女の人や子どもたちが必死で訴えている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げ込んできた男たちもいる。 これ以上聞いていられなくなって、私は門を二つとも開けた。防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持ってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが一番安全だと思っているのだ。  榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降ってくる。南の方角は一面火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のヘルメットをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやった。我々は防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことを聞くようになった。・・・・・・・・・・

  真夜中になってようやく静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部の立派な建物が燃えている。  ふしぶしが痛い。48時間というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には30人、石炭庫に3人、使用人用の便所に女の人と子どもが8人、残りの100人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!!・・・・  夜の9時に龍が内密に教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は8時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。 それから、龍は言った。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。是非力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた3万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだ何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状況といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。

  「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

 12月12日 日曜日

 夜8時30分、このメモを書いているが、市の南西地域で激しい砲声がとどろいている。絶えず窓ガラスが震動するので、用心のため窓際から離れている。一日中激しい爆撃が続いた。・・・・・・・・・・・今や日本軍機は意のままに飛来して爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。・・・・・・・・・・・・・  

 あいかわらず避難民がやってくる。現在、三つの建物はすでにふさがっており、文科棟への収容を開始している。あいにく、中国赤十字会が運営することになっている粥場いまだに開業していないので、食料を持ってこなかった避難民にとっては最悪の状態が続いている。・・・・・・・・・・・・・・ 

 午後5時、英語による礼拝に出かけた時、紫金山の上の部分三分の一のところを取り巻くように帯状に火の手があがっているのが見えた。どのようにして火災が発生したのかは聞いていないが、松の木がたくさん焼失したことは確かだ。  

 夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族の中に若い娘がいるからだ。今夜、城内では眠れる人はほとんどいないだろう。市の南部と、それに下関が依然として燃えているのが南山公寓から見えた。・・・・・・

 

 「Imagine 9」解説【合同出版】より

  武器を使わせない世界  

 世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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