1937年 12月11日 南京

2008-12-11 12:35:31 | Weblog

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より 

 誤報におどる国民 12月11日午後、南京城の水西門・漢中門の西側の湿地帯で、一中隊から小隊長二人の戦死を出すほど苦戦をしいられていた第六師団(熊本・師団長 谷 寿夫中将)の歩兵第45連隊の前田吉彦少尉は、歩兵大36旅団無線から伝えられたラジオ・ニュースを知って驚いた。日本の内地のいたるところで、南京陥落の捷報に祝賀の万歳がわきおこり、提灯行列がくり出されたというのである。 「このニュースを聞いたこの現時点で南京の守備軍は以前頑強に抵抗を続けあり、上空には高射砲弾幕が絶え間なく、城壁付近また砲煙におおわれ銃砲声の間断なきを聞くというのはいったいどうしたわけなのか?いったい陥落なんて誰が言い出したデマなんだろう」と陣中日記(12月11日)に書いている。(「前田吉彦少尉日記」『南京戦史資料集』)。 日本国内ではこの日、「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗・・・・・・」と各新聞がいっせいに大々的な南京陥落報道を行った。この日の夜、東京では祝賀提灯行列がくりだし、国会議事堂にイルミネーションが点じられた。  

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より 

12月11日

 8時・・・水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃に備えているのだ。・・・・・ 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居座っているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区からはすでに軍隊を撤退していると日本軍にいえないじゃないか。 9時・・・ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。・・・・・ホテルにとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾(今度は中学校)。死者13人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。

・・・・・・・・・・・ 

 けが人が大ぜい中山路に運ばれていく。砂袋・引き倒した木、有刺鉄線の柵ででバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手は穏やかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、早速唐将軍に問い合わせるとの返事。 18時・・・記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。・・・・・・・・・・・・・・ 

 午後8時、韓を呼び、家族を連れて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにすすめた。あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、今日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃をうけるだろう。それなのに韓はまだ家を出て行こうとはしない。 

 

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

12月11日 

 何日間も終日終夜、城外ーとくに南西方向ーだけでなく城内にも激しい砲撃が加えられた。この小さなくぼ地では、砲声はそれほど大きくなかったし、恐怖を覚えるほどではなかったが、市街は悲惨だった。ジョン・マギーの情報では、福昌ホテルや首都劇場の前、さらにまた、新街口広場にはたくさんの死骸が横たわっているとのこと。市の南東部でしていた激しい砲撃も、夜になるとやんだようだった。マギーは、破壊をまぬがれた、下関の一部地域もきっと今夜焼き払われるだろう、とも言った。こうした破壊や加害に対し、我慢できないほどの激しい憤りがこみ上げてくる。・・・・ 

 相変わらず避難民がキャンパスに入ってくる。正午には850人ほどになった。その上、三家族が東の中庭に、そして、隣保館には約120人の避難民が生活している。北側の二つの寄宿舎の間にむしろの小屋を造り、知り合いの人にそこで食料品を売ってもらうつもりだ。強く要求しているのにもかかわらず、正門の外に設置された粥(かゆ)場はいまだに開業していない。避難民たちは、安全区について無邪気な考えを持っており、空襲の最中に道路の真ん中に突っ立っていても何の不都合もないのだと考えているようだ。今夜の記者会見で私たちは、そういう場合は家の中に入っているか、そうでなければ塀の陰に隠れているよう避難民に促すことを求められた。・・・・・・・・・・・・・ 

 今夜の記者会見には20人ーすべて外国人ーが出席した。4人の新聞記者のほかは、ドイツ人二人とロシア人青年一人を除けば、あとはすべて宣教師だった。サール・ベイツから、中国軍の指揮系統が崩壊し始めているといういささか憂鬱な報告があった。下級将校が防衛司令長官の命令に従わず、いまだに兵士や大砲が安全区内に残されている。実際、今朝私は、キャンパスの敷地内で塹壕が掘られているのを発見した。 これを書いている間にも、市の南東と南西の方角で激しい爆撃音と機関銃の音が聞こえる。人々の予想では、敵は三日のうちには城内に入るだろうが、その間にはすさまじい破棄をおこなうだろう、というのだ。 たしか、明日は日曜日だ。今では毎日が同じ調子で明け暮れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「Imagine 9」【合同出版】の解説より 

おたがいに戦争しないと

約束した世界

 地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月10日 南京

2008-12-10 08:52:25 | Weblog

 12月10日、中シナ方面軍参謀副長 武藤章大佐と同参謀 中山寧人(やすと)少佐は、通訳官をともなって中山門ー句容街道において午後一時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、中国側の軍使は来なかった。・・・・こうして10日の午後から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることになった。「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

 

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月10日 不穏な夜だった。昨日の夜8時から明け方の4時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやいうところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退する事ができたという。今朝早く分かったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、誰もがそう思っている。・・・・・・・・・・・・・  東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。 このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!・・・・・・・・・・ 

今夜のうちに南京が陥落しても少しも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。  深夜2時半 服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまじい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤々と照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、再び床に就いた、というより、うとうとした。こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。

 

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より 

 午前7時30分の時点では、爆弾はたぶん夜通し続くと思っていたが、ときおり街路を行き交う人の足音が聞こえる以外は、奇妙なくらい静かだった。朝7時に警戒警報が鳴ったが、いまだに飛行機の飛来はない。今は機関銃の銃声がはるか南の方角に聞こえる。依然として暖かく、晴天が続いている。・・・・

(前述のことを取り消さなければならない。朝食に行くと、ほかの人たちはみな、朝4時ごろまで夜通し銃声が聞こえたことを話題にしていた。どうやら、私のほうがすっかり疲れてしまって、物音は何も聞いていなかったようだ。) 引き続き今朝も難民がやってくる。かつての教職員宿舎はほぼ満員になっているし、中央棟も満員になりかけている。・・・・・・・・・・・・・ 

安全区の旗を掲揚するのを手伝うため、午後、F・陳と一緒に西の境界まで行った。希望としては、明日までにすべての中国軍に出て行ってもらい、その旨の電報を日中双方に送る事ができれば、と思う。外出中に激しい空襲があり、何発かの爆弾が神学校の西に投下された。私は、落下する爆弾のヒューッという音や対空射撃の閃光を初めて体験した。私たちは飛行機が頭上から去るまで塚の間に身を隠していた。 激しい撃ち合いがほとんど終日続いていた。日本軍が光華門のすぐ近くまで迫っているそうだ。

市外周辺のあちこちでほとんど一日中火災が目撃されている。今夜は西の空が真っ赤に染まっている。・・・・・・・・ 

 今夜の記者会見では、南京が引き渡されたあとの難民の問題が提起された。この先数ヶ月間、誰が彼らの面倒を見るのだろうか。 城外に取り残された12歳の少女の母親は、ほとんど一日中校門の外に立ちつくし、群衆の中に娘がいないかと食い入るように見ていた。

 

 「Imagine 9」【合同出版】より

 おたがいに戦争しないと

約束した世界  

 「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。

 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。  

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。

 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。 

 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月9日南京

2008-12-09 18:38:02 | Weblog

9日の夕方、「日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜(むこ)の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず」という大日本陸軍総司令官松井石根名の南京防衛軍に対する「投降勧告文」(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下した。(「南京事件」:笠原著)より

 

 「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より 12月9日 いまだに米を運び込む作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力(クーリー)がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。・・・・・・・・ さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながら言うところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ40人いた歩哨のうち、誰ひとり生きてはいなかったという。  燃え盛る下関を通り抜けての帰り道は何ともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の7時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まできているとのことだ。あるいはその手前に。中華門と光華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちのよってどうにか持ちこたえている。安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちいっぱいになった。われわれは部屋を2つ立ち入り禁止にした。武器と弾薬をみつけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と武器を差し出した。 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店) 12月9日(木曜日) 今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らし出している。午後はほとんど、北西以外のすべての方角からもうもうと煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。AP特派員のマグダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。この2日間に大挙して城内に避難してきたのは、これら焼け出された人たちである。こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か一日遅らせるとしても、人々にこれほどの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ。・・・・・・・・・・・ 今夜、記者会見の最中に大きな砲弾が新街口に落下し、みなびっくりして椅子から飛び上がった。青ざめた人もいたのではないかと思う。これは、私たちが初めて体験した砲撃だった。今日は飛行機の爆音がただの一時間も絶えることはなかった。・・・・・今後、記者会見はなくなるかもしれない。  避難民たちの話は心痛むものだ。今日、ある女性がさめざめと泣きながら私のところへやってきた。話を聞くと、用事があって南京にきたのだが、彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女の方も、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は、戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。 三汊河からやってきた女性は、気が狂ったように母親を捜し回っていた。キャンパスには母親がいないことがわかったので、私たちは彼女を聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)へ行かせた。 明日は日本軍が全力を挙げて城内突入を図るだろうが、その場合には、おそらく、激しい戦闘の一日になるだろう。(のちに福田から聞いた話では、実際、前衛部隊は12月10日に光華門に達したが、撃退されたそうだ。)

 「Imagine 9」【合同出版】より

武器をつくったり

売ったりしない世界

 世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。  日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

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1937年 12月8日 南京

2008-12-08 11:29:23 | Weblog
いつもの日記に入る前に、1941年の今日12月8日はどんな日であったのでしょうか?「日中戦争が泥沼化する中で日本が行った仏印進駐(1939年、北部/41年、南部)などによって、アメリカは1941年、石油・鉄くずなどの輸出を禁止し、日米間の外交は行き詰まりました。そこで日本軍は南進つまり東南アジアを侵略し、油田地帯を占領することで石油を確保しようと考えましたが、それは対米英開戦を意味し、マレー半島侵攻とハワイ真珠湾攻撃の同時作戦を決定したのでした。・・・ 12月8日未明、英領マラヤのコタバルに日本軍先遣隊が上陸を開始、イギリス軍との戦闘が始まりました。」【アジア・フォーラム横浜ニュースレター】より) そして、真珠湾を奇襲するとともに、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦を布告し、アジア・太平洋戦争に突入しました。その突入した日が今日、12月8日。テレビ・新聞などのメディアはほとんどこのことを報道しないでしょう。故意に無視していると思う。  8日・・・日本軍、南京城包囲を完成。「南京の真実」(ラーベ著:講談社より) 今日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。残りの家族が40マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けていたので迎えに行く時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここに来ているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。・・・・・・・・・・ 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に、家の蔭や路上で横になっている。我々は全力をあげて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼き出された人たちが次々と送られてくる。我々はさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実があがらないからだ。・・・・・・・・ 我々はみなお互い絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく揚げた安全区の旗をまたもや全部持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡塁(ほうるい)のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、何もかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本軍にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。・・・・・・・・ 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より 12月8日(水)今朝9時、避難民受け入れの訓練を行い、その要領を把握した。・・・地域住民は寄宿舎に入ってもらい、無錫(むしゃく)などの都市からの避難民は中央棟に収容することにしている。地域住民の世帯には隣保館で生活することを許可しており、そこは、すでにかなりいっぱいになっている。・・・・ 今夜は、初めての避難民を受け入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。 赤色の丸に十字の「安全区」の旗がきょう掲揚された。 今夜の私は、容貌は60歳、気持ちは80歳だ。避難民の受け入れを手伝いたかったので、記者会見には参加しなかった。・・・・・・・・  アメリカ大使館の通達には次のように書かれている。「諸外国の外交官の撤去にともない、残留アメリカ大使館員は今晩アメリカ砲艦パナイ号に乗船し、同艦内に臨時の大使館事務所を開設する。大使館員は、明日の日中は陸上の大使館に戻るものとする。下関門閉門の情報が入った場合には、パナイ号は三汊河の現在の碇泊(ていはく)地点から運行を開始する。南京城壁の乗り越えに用いるロープは、M・Sベイツ博士に保管してもらうことになっている・・・・。」  「Imagine 9」【合同出版】より 武器をつくったり 売ったりしない世界 「武器はどこから来るのでしょうか?ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」  これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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1937年 12月7日 南京

2008-12-07 16:40:47 | Weblog
7日・・・蒋介石、南京脱出。中シナ方面軍、「南京城の攻略および入城に関する注意事項」などを下達。中国軍、「清野作戦」を展開(~9日)【「南京事件」(笠原著:岩波新書)より】 「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より 12月7日 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ごろ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で! 後に残されたのは、貧しい人たちだけ。それから、その人と共に安全区に残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具を抱えて逃げ込んでくる。と言ってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。 これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊りし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。受け取るはずの食糧のうち、ここに運び入れる事ができたのはたった4分の1だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。 今日の午前中に、軍にトラックを2台取り上げられた。これまでに一台しか取り返していない。もう一台、塩が2トン積んであったほうはいまだ返ってこない。いまゆくえを探しているところだ。最高司令部から、たった今、さらに2万ドル、私のところに払い込まれた。約束の10万ドルの代わりに、全部で4万ドル受け取ったことになる。これで満足しなければならないのだろう。寄金が分割払いされていることなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句も言えまい。 明日、城門が閉められ、今まで残っていたアメリカ人も船に乗る。・・・・・・・・・・・・・ 18時記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百と言う家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。凍え(こごえ)、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、2117袋、米を買ってきた。明日もまた門を通れるかどうかは分からない。 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より 12月7日 今朝7時、下関の方角から砲声が聞こえてきた。真っ先に頭に浮かんだのは、日本の艦船が到着し、いよいよ砲撃が開始されたのでは、ということだった。さいわい、その推測ははずれたが、本当のところは何なのか、さっぱりわからなかった。 キャンパスでは引き続き備品を特別室(3階)に移している。今朝も男性たちが、中央棟と理科棟、それに実験学校の作業をしている。それ以外の男性は寄宿舎の掃除をしている。事務助手はポスターや案内標識を書き、一方、事務室では戴師傳〔師傳は技能者への敬称〕が案内係用の腕章を作製している。避難民用に割り当てられた八つの建物に収容できる推計人数をまとめるところだ。2750人(一人当たり16平方フィートを基準とした計算)になるが、それは、私たちが対処しなければならない、ほぼ精一杯の人数だ。(後日、実際には六つの建物に一万人以上を収容した。)・・・・・・・・・ 城内にはいろいろな噂が飛び交っている。何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのであった。 記者会見には中国人3人だけが出席した。彼ら以外の者は多忙を極めているか、そうでなければ南京を離れてしまったのだ。〔蒋介石〕総統は、今日午前4時に南京をあとにしたそうだ。2,3日のうちに南京が陥落すると予想する者もいれば、長期にわたって包囲攻撃が加えられると考える者いる。孝陵衛が燃えているそうだ。軍の作戦により放火されたのである。国営公園でたくさんの樹木が伐採されたー同じ作戦によりーとの報告もいくつかあった。淳化鎮に300発の爆弾が落とされたそうだ。 おそい夕食のあと隣保館に出向いた。今夜は近隣の何世帯かの人たちがきていた。その中には家が取り壊されることになっている胡大媽(大媽は年長の女性への尊称)や、彼女の息子たちとその連れ合いもいた。綴れ織商の呉さん一家やその他の世帯の人たちもいた。ある高齢の教師(78歳)が校門の前で立ち止まった。彼が言うには、家から追い出されたとのこと。年老いた妻は、家から離れたくないと言うので、彼だけがやってきたのだ。今夜は南京でたくさんの悲惨な事件が起こり、大勢の人々が空腹を抱え、寒さに震えている。 (Imagine 9解説)【合同出版】より   9条をつかって、  戦争のない世界をつくる。  中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」  ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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1937年 12月6日 南京

2008-12-06 10:49:10 | Weblog
6日:日本軍、南京外囲防御陣地をほぼ占領。「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より12月6日 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々はいつでも乗り込めるよう準備している。我々の仲間だけが拒否した。これは、絶対に内緒だが、と言ってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい。・・・・・・・ 黄上校との話し合いは忘れる事ができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れると言うのだ。 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今底に逃げ込もうとしている連中は、わが兵士たちの役に立てたのですぞ!」 これほどまでに言語道断なせりふがあるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?  それから軍人や軍の施設を安全区から引き上げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚(はら)なんだ! きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。軍隊が退却すれば十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる恐れがある。こういうこともみなその時になってからやれと言うのか? なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という同胞の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないと言うわけか?・・・・・・・・・・ 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)12月6日(月) 今日は寒さが厳しいけれど、幸いなことに、日なたは暖かい。十分な夜具を持っていない避難民は、さぞつらい思いをしているに違いない。雪や雨が降りでもしたら、その苦難はどんなに増すことだろう。神様、この冬の苦難はどんなに厳しいものになるでしょう.UP(ママ)特派員のマグダニエルが今日話してくれたところでは、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、その後を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦(1)」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。明孝陵に通じる道路沿いにあった竹林などの美しい樹木はすでに切り倒されていたそうだ。春に見たプラムや桃の花の美しい眺めは忘れる事ができない。 む湖でのイギリス船爆撃(2)のニュースを聞き、呉博士が漢口に着いたかどうか知りたくなった。 キャンパスでは終日みんながさかんに活動していた。陳さんと李さんは、職員に指示して文科棟のすべての備品を屋根裏に移動させている。文科棟には、今のところ200人(のちに判明したところでは1000人)の避難民を収容する余地がある。屋根裏が広くてありがたい。今夜中に文科棟と、それに二つの寄宿舎の整理が完了する。明日は理科棟と中央棟を片付けて避難民の収容に備えよう。明日は収容計画を完成し、割り当ての手順をまとめるようにしよう。ここにいて、こうした仕事を手伝えるのは何とありがたいことだろう。程先生一人だけでは指揮しきれないだろうし、彼女以外の人はあまりにも不慣れだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)・・・中国語で「清野作戦」といい、侵攻して来る日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦で、中国軍は南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。(2)・・・1937年12月5日、日本の海軍航空隊がむ湖を空襲した際、む湖沖の長江に停泊していたイギリスのジャーディン・マセソン社の汽船二隻に爆弾が命中して火災が発生し、船長夫妻が負傷、イギリス政府は日本政府に強く抗議した。 「Imagine 9」(合同出版)解説より 9条をつかって、戦争のない世界をつくる。  「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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1937年 12月5日 南京

2008-12-05 12:29:00 | Weblog
1937年12月4日・・・第16師団(中島今朝吾中将)、南京戦区に突入。「南京の真実」(ジョン・ラーベ著:講談社)より12月5日・・・・・・・・ アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや、詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、出来るだけ配慮しようと約束してくれたのだ。 ベイツ、シュペアリングと一緒に、唐指令長官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束を取り付けなければならない。それにしてもやつの返事を聞いた時の我々の驚きを一体どう言えばいいのだろう!「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?そんな馬鹿な事があるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることは考えられない。せいぜい、「難民区」だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・我々は必死で米や小麦粉を運び込んだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら、与えられないのだ! ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方が安全だと思っているからだという。・・・・・・・・・・「南京事件の日々・・・・ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店)より12月5日(日)鼓楼教会へ礼拝に行く時刻のころ「空襲警報」のサイレン(日本軍の前線がすぐ近くまで迫っているので、今では警戒警報は出されない)が鳴り、するとまもなく爆撃音が聞こえてきた。明朝故宮の「西華門」がやられたのだ、とウィルソン医師が教えてくれた。気の毒なことに、爆撃されたのはほとんどが貧しい民間人であった。ウィルソン医師が、ある一家のことを話してくれた。そこの母親と娘は即死、呆然自失のの父親をウィルソン医師が発見したとき、彼は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされてしまっていた。中国軍兵士のことを思うと胸が痛む。負傷兵50人が、20マイル離れたところからやっとのことできょう城内にたどり着いたそうだ。彼らの話によれば、負傷した多くの仲間が路上で倒れていったという。 大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)は、医師や看護婦が絶対的に不足している。看護婦は全員が、そして医師も、中国人医師一人を除いては全員が長江上流へ脱出してしまった。・・・・・・  昼食直後にキャンパスの緊急理事会が召集され、長時間にわたって避難民の扱い方が検討された。手伝ってくれる人がもっと大勢いればよいのだが。程先生は疲れており、何千人という避難民の世話をすることを考えただけで、もう具合が悪くなってしまう。持参する品を知らせる大きなポスターを校門に掲示する計画を進めている。また、できれば日刊紙(今では紙面が一枚に減ってしまった)に子のポスターを掲載するつもりだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・定例記者会見は長時間にわたった。馬市長と有意義な話ができた。市長の予想では、日本軍がここに到達するまで激しい戦闘が一ヶ月は続くことになるだろう。安全区の旗を立てる事ができるように、軍関係の団体や防御施設を安全区の外に移すため、あらゆる努力がなされている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ {imagine 9}【合同出版】より 想像してごらん、 9条がゆきわたった世界を。 Imagine, A world filled with Article 9. 憲法9条は、日本という「国」のものではありません。日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。 (アメリカ/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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1937年 12月上旬 南京

2008-12-04 14:54:31 | Weblog
「南京の真実」(ラーべ著 講談社)より11月30日韓に家族をつれて越してくるようにいった。一家は今学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で・・・レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだ出来上がらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げたレンガ壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)が一つあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道が止まりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約一か月分ある。・・・・・・  スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまりわら小屋に使うむしろだ。この寒空に、何とかして泊まれる場所を確保しなければならない。  以下は国際委員会が抱えている課題である。1、資金の調達2、警察   安全区入口の検問   境界の警備   警察官の総数の確認とその宿泊施設の整備3、兵士と軍人たち   撤退の指令と視察   既に始まっている脱走兵の対策   負傷兵の看護4、食糧の配給   食糧の管理   食糧の貯蔵と分配5、輸送と輸送手段6、避難民の収容施設   見張り   建物の使用と管理   ( a)公共の建物(政府の)   (b)学校や伝道団の建物   (c)空き家、わら小屋7、公共設備   水道・電気・電話8、衛生設備と健康管理   仮設便所・ゴミと糞尿の運搬・病院と医療設備  12月1日9時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へいく。いろいろな役目を割り振って、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米3万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉を売ればいい。出来るだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。 3つ目の防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から2万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の10万ドルの第一回目だ。残りはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめるだけだった。・・・・・・・・・・・18時、会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、我々の責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るよう勧める文書は、非常に慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。・・・・・・・・・・・・ ローゼンがアメリカ人を通じて知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。間違いない。総統が私を見殺しになさるはずがない!・・・・・・・・・・・・ ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗るか決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュベルグ先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。・・・・・・・・ 12月2日フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。  電報  1937年12月1日  南京大使館(南京のアメリカ大使館)より 11月30日の貴殿の電報の件 以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ 「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」  ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。・・・・・結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・・云々」は、非常に満足のいくものだ。  アメリカ大使館を介して、我々は次のような返信を打った。南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しない限り安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝を持って受け止めております。中国から全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、既に難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査を終えた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。 日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。                    ジョン・ラーベ     代表」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 米と小麦粉を運ぼうとするにも車が手に入らない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米を持って行かれたらしい。3万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【2日・・・蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府、斡旋断る)】 12月3日ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関のはしけでこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所に行ったのだ。私がそういうと、何度かためらった後、ローゼンも認めた。・・・・・・・・・ ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使宛なのだが、次のような内容だった。 ドイツ大使館南京分室 漢口発  37年12月2日       南京着 12月3日日本政府は、都市はじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を出来るだけ寛大に扱う考えを持っております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。     ザウケン ローゼンは、他の国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。ローゼンは、蒋介石婦人に接触してはどうか、と勧めてくれた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月4日どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだがうまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き上げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しかつかなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。100メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「南京事件の日々・・・ミニーヴォートリンの日記」(大月書店)より12月1日(水)今日は警報が一回あったものの、空襲はなかった。通産103回目の警報だ。もう気にかけない。呉博士とエルシー牧師は午前9時ごろ、ついに(金陵女子文理)学院をあとにした。昨夜二人が波止場に到着した時には、船が出たばかりだったので、やむなく引き返してきて学院で一夜を明かした。呉博士が無事に乗船できてとてもうれしい。というのは、何よりもまず、彼女は4ヶ月もの長期間、気を張り詰め通しですっかり疲労困憊していた、さらには今後彼女は来学期の、そして多分、来年の計画のことに頭を切り換えなければならないと思うからだ。南京にいたのでは到底できない相談だ。それに、日本の軍艦がいつ(長江を)遡上してくるか誰にも予測がつかないし、城内が激しく爆撃された時にはもはや脱出できなくなる。 午前10時、アメリカ大使館に呼ばれ、他の伝道団の指導者たちと一緒に会合を持った。(大使館書記官の)バクストン氏が私たちを三つのグループに分けた。今日にも商船で南京を脱出できる即刻脱出グループ、しばらくは残留しなければならないが、土壇場になったらアメリカ砲艦パナイ号で脱出するー必要とあれば、ロープを使って城壁を乗り越えてでもーグループ、ずっと残留したいと思っているグループである。大使館を出てから、どのグループにするのか、サール・ベイツに尋ねたところ、2番目と3番目の中間あたりだと答えたので、それでは城内の途中で宙ぶらりんになっているようなものだと、二人で笑ってみたものの、それは危険な状態だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 陳さんとそれに私も一緒にキャンパス中を歩き回り、アメリカ大使館の公告文を掲示する場所を決めた。明日になれば、中庭に掲揚されている30フィート四方の国旗に加えて・・・のアメリカ国旗が翻ることになるだろう。・・・・・・・  11時30分、緊急委員会が招集され、その会議で李さんに、6人の男子職員を組織して自警団をつくり、彼らを訓練し、あわせて彼らの腕章を用意することをお願いした。また、隣保学校の教師をしている・・先生に、キャンパスにいる彼女の生徒や比較的に高年齢の子どもたちを組織して避難民のための奉仕団をつくり、彼らを訓練し、彼らのための徽章を作製することも依頼した。・・さんの報告によると最悪の危険に遭遇した時には、近隣の婦女子およそ200人がキャンパスに避難したいと思っているようだ。  今晩の記者会見で安全区の存在が公表され、食料、住宅、財政および公衆衛生を扱う4つの委員会が設置された。市(南京市政府)から米と2万ドルが供与された。 3日ほど後に来ることになっている日本船を待っている人もいる。書籍を詰めた箱を地下室に移し、予想される避難民に備えて各部屋を空ける作業をしていたとき、陳さんが葬式の準備でもしているような気分だ、と言った。まったく、この世の終焉がすぐそこまで来ているような感じだ。 12月2日(木)今日は3回空襲があったが、いずれも城外だった。中国軍機が発進し、日本軍機が撃墜されたが、その数についての報告はまちまちだ。・・・・・・・すっかり空襲になれてしまったので、今では空襲の最中でもずっと仕事をしている。 これまでは漢口や香港を経由してニューヨークや上海あての航空郵便が送られていたが、今夜耳にしたところでは、今後は郵便用飛行機は飛ばないそうだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 午後、大変な失敗をした。昼寝をしたところ、ひどく疲れていたため、夕方近くまで目が覚めなかったのだ。 午後6時、再び記者会見に出かけた。安全区計画が進捗している。米が搬入されることになっているが、問題はトラックの入手だ。日本側から知らせが届いているが、それは好意的に解釈すれば、準備完了までに残された時間はあまりない、と言う趣旨である。その情報は、日本軍は三方向から接近中、というものだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月3日(金)いまや情報入手は非常に難しい。昨日も今日も上海や香港の放送の時間帯に空襲があり、そのため停電し、したがって、ニュースが聞けない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  昨日中央棟から備品をあらかた撤去した。今日は避難民の受け入れに備えて男性たちが二つの寄宿舎の片づけをしている。避難民がやってくるまでほんの2,3日だと考えている者もいれば、まだ10日ほど間があると考える者もいて、本当のところはだれにもわからない。 今夜の記者会見はとても興味深かった。南京市長と防衛司令長官代理が二人とも出席した。安全区の計画が進捗している。事務所は、寧海路五号にある外交部長張群宅に設置された。目下、城内に、そして安全区に十分な量の米をどのようにして搬入するか検討しているとこだ。・・・・・・・・トラックを何台かを確保するため、明日は市長が全力を尽くしてくれる。米は金陵大学の礼拝堂に貯蔵されることになっている。ひきもきらず人々がやってきて、安全区の場所はどこか、いつからそこに入れるのか、などと尋ねる。 今日大使館から最終の問い合わせがあった。三つの選択肢の中から一つを選んで署名しなければならなかった。私は(3)に署名した。【(3)・・・どんな事態になっても脱出しない。】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月4日(土)今夜、門衛から報告があった。昼間、何百人もの中国人が校門にやってきて、金陵女子文化学院が難民収容所になっているのは本当か、と尋ねたそうだ。門衛は、一人残らず寧海路五号の国際委員会本部へ行かせた。トラックが足りないため、城内への米の搬入は困難である。現在は塩も食用油も買えない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私たちは避難民への収容スペースをつくるため、引き続き寄宿舎の備品を屋根裏に運んでいる。また、後日問題になりそうなパンフレット類はすべて破棄している。・・・・・・・・・・・・・・・・  今夜に記者会見での重要な点は、安全区では塹壕堀のような軍事的予備行動を一切停止すること、軍関係の事務所はすべて安全区外に移すことを(中国)軍が約束したという情報であった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今朝南門付近が激しい空襲に見舞われた。イタリアが日本を支援し、ロシアが中国を支援しているそうだ。スペイン同様にここが第二の思想戦場となるのだろうか。うわさにすぎなければよいが。 AP特派員のマグダニエル氏によれば、市の東方では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になると言う理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間はどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制されいたるところで軍が防備を固めているのだ。 一年前のあの活気溢れる、明るくて希望に満ちた前向きの南京を思うと、気持ちが沈んでくる。分別ある人間がどうして戦争を阻止できないのだろうか。その気になれば阻止できるだろうに。 (IMAGINE 9)【合同出版】より 想像してごらん、 ひとりひとりの安全を 大事にする世界を。 Imagine, A world that values the safety of each and every human. 政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に平和をつくりたい。それが私の理想です。 (イラク/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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1937年南京大虐殺前夜

2008-12-03 19:09:01 | Weblog
「南京事件の日々  ミニー・ヴォートリンの日記」【大月書店】より(ミニー・ヴォートリン・・・南京にあった金陵女学院の教育と運営の実質的な指導者であった。)1937年11月5日、日本軍の第10軍が杭州湾に上陸、背後をつかれた上海防衛の中国軍に動揺がはしり、13日に第16師団が上海北西の長江岸の白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなり、15日、上海は日本軍の手に落ちた。 10日は雨天にもかかわらず日本軍機の南京空襲があった。・・・・・・・ 上海発行の英字新聞や上海、香港からの英語ラジオ・ニュースで戦況についてある程度把握していたヴォートリンは、日本軍が南京に侵攻してくるのは時間の問題であり、そうなれば、南京城の攻防をめぐって長い戦闘がおこなわれ、その結果南京には瓦礫と廃墟が残るだけになるだろうと予測して、それが現実になるのを恐れていた。 20日、ヴォートリンは、宣教師のジョン・マギーらとともに、下関駅に送られてきている負傷兵たちの様子を見に出かけた。そこで彼女が見たものは、医者と看護婦にも見放されて、死体同様にホームに放置されていた数百人の負傷兵の集団であった。蘇州、無錫の攻防戦で負傷した中国兵たちで、南京陸軍病院の医師や看護婦たちがすでに南京から避難してしまった後に、送還されてきたのだった。 眼も鼻もつぶれてうめき通しの兵士、尻のところまで脚をもぎ取られた兵士、ほとんどが瀕死の重傷を負った兵士たちがベッドもなく横たわっている。あたり一帯に死臭のような悪臭が充満していた。 昨夜は下関駅の負傷兵の二割が絶命し、今日は三割の負傷兵が息を引き取るであろうと、関係者は言っていた。・・・・・・・・ ヴォートリンにとって、さながら生き地獄絵のような負傷兵の集団を見たことは、戦場の悲惨さ、忌むべき戦争の実態をあらためて思い知らされ、忘れることのできない強烈な体験となった。 こうした戦争の悲劇をさらに増大させることになる日本軍の南京攻撃を、なんとか停止させたいと願い、神に祈り続けていたヴォートリンが、最後に望みを託したのが、3日からベルギーのブリュッセルで開催されていた九ヶ国条約会議(ブリュッセル会議と称する)であった。・・・・・・・・ ブリュッセル会議は、「各国代表は条約の規定(中国の主権・独立とその領土的・行政的保全の尊重を規定していた)を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択して、24日に閉会した(日本とドイツは招請を受けたがボイコットした)。会議は日本の中国侵略にたいして警告宣言を発するという平和的手段に訴えることで終わり、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定しなかったのである。 同会議の宣言を香港からのラジオ放送で聞いたヴォートリンは、23日の日記にこう記す。 「多くの国が協同して、日本の中国侵略を阻止するためにやるべきことを、今こそ実行するように、衷心から祈るばかりである。日本の硬直した保守的な思想と侵略的な態度が変わるように、そして世界の人道主義的圧力が日本国民に重くのしかかるように、強く願っている。日本国民は世界から非難されて大きな苦痛を経験しなければ、目覚めることをしないであろう」。  20日、蒋介石国民政府は、首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、同日、唐生智(とうせいち)が南京防衛軍司令長官に任命された。これに前後して政府の中央諸機関は、つぎの暫定首都である長江上流の武漢(同市は漢口・武昌・漢陽の三地区よりなる)に向けて続々と移転を開始した。国民政府当局は、南京の防衛軍は最後の一兵まで戦うつもりであるから、一般市民は市区域から早急に避難していくよう呼びかけた。政府機関の移転とともに、政府官庁の職員とその家族が南京から離れて行き、ついで中産階級の市民が南京から避難していった。脱出していく市民と入れ替わりに、中国軍5万が16日に南京到着、その後も兵士、武器、軍需品を満載したトラックが大通りを頻繁に行き交い、南京城内は戦闘前夜の興奮と緊張と喧騒とに包まれていった。 ここにいたって19日、金陵女学院の呉学長は、成都に赴くことを決定せざるを得なくなり、涙ながらにヴォートリンに金陵女学院の後事を託した。同日、アメリカ大使館のホール・バクストンが、南京城内が無秩序になり、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江に停泊しているアメリカ砲艦パナイ号に避難するように通告に来たとき、ヴォートリンはこう答えた。  「わたしはどんなことがあっても金陵女子学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできないのです。彼女(彼)らは私を頼りにしている。状況によっては彼女(彼)らが私を助けてくれるだろうし、状況によっては私が彼女(彼)らを助ける事ができるのです」。 最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、ヴォートリンと鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレース・バウアーの3人だけとなった。 南京に日本軍が侵攻してくることが確実になると、戦火の南京に留まることを決めていたアメリカ人の宣教師、大学教師のあいだに難民区を設定する話が急速に進展し、17日には主要メンバーが集まって、南京安全区(難民区)国際委員会の結成を決定。中国当局の承認と協力を得、アメリカ大使館を通して日本側の了解と認知を獲得するために積極的に活動を開始した。(昨日書いたように委員長にはドイツ企業ジーメンス社南京支社の支配人として南京に残留していたドイツ人のジョン・H・D・ラーべが就いた。) 国際委員会の申し入れにたいして、中国当局から、委員会の提起した非武装の安全区設置の条件を全面的に遵守するとの回答が寄せられ、日本の関係当局からはしばらくして、難民区が中国軍の軍事目的に使用されない保証があれば、日本軍が攻撃する意図はない、と間接的に認める回答があった。 日本当局からも一応尊重する旨の回答を得た国際委員会のメンバーは、金陵大学や金陵女学院の中国人スタッフの残留者を総動員して大急ぎで難民区の設定に取りかかった。 南京安全区は、南京城内を東西南北に四等分したその西北部に位置し、東京の台東区や中央区よりやや狭い面積に相当する。この区域に難民区が設定されたのは、金陵女学院や金陵大学もあり、さらに公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であったこと、同地にある高級住宅街の洋館の外国人はほとんど避難した後であり、いざという時には難民を収容できたこと、そして何よりも、安全区を運営したアメリカ人やドイツ人たちのホームグランドであった事などの理由による。 金陵女学院を難民収容所として解放する事が決まったので、ヴォートリンらは、構内の校具、図書、文書の整理・移動にとりかかり、貴金属や装飾品などは長江に浮かぶアメリカ砲艦パナイ号に保管してもらうなど、難民区設営の準備におおわらわとなった。 国民政府が重慶遷都を宣布した20日、日本では天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、中国全面侵略戦争を本格的、長期的に指導する体制を確立した。そして、12月1日、大本営は中シナ方面軍にたいして正式に南京攻略を下令、総勢20万に達する日本の大軍が中国軍の包囲殲滅を目指して南京に進撃して行った。 {Imagine 9}【合同出版】より 想像してごらん、戦争にそなえるより戦争をふせぐ世界を。 Imagine, A world that instead of preparing for war,prevents war. コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを発揮する事があります。なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。(コスタリカ/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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南京事件前夜:国際委員会立ち上げ

2008-12-02 11:08:43 | Weblog
「ラーベの日記」の続き。(「南京の真実」講談社より) 11月20日 18時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。 11月22日・・・・ 17時に国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立地域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事つとまるように。責任重大だ。・・・・・・・  デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、難民のために安全区の設置を提案する。 国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立入りは禁止される。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。 国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。国民政府との交渉を出来るだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、日本当局のすみやかな回答を切望する。  会議から帰ると、ボーイの張が待っていて、医者を呼んでほしいという。かみさんの具合が悪いらしい。ヒルシュベルグ先生の診断の結果、数日前流産した事がわかった。すぐに鼓楼病院に連れて行かなければ。 11月24日ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。  当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。 ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。・・・・・・・・よってこれを転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。                 ローゼン  中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」医師たちも二人ともいなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、この大ぜいの負傷者はどうなってしまったか分からない。先日、贈られたトラックを一台動員した。車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。中国兵はトラックとみれば残らず取り上げてしまう。カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では「命令」が出たという。 つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。 11月25日 医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るように勧めているからだ。 ・・・・・・・・・ ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、同じく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、次のような電報を打つつもりだ。  在上海ドイツ総領事館 党支部長ラーマン殿。次の電報をどうか転送してくださるようお願いします。  総統閣下 末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部委員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万人以上の生命が危機にさらされることになります。    ナチ式敬礼をもって。           ジーメンス・南京   ラーべ・・・・・・・・・・  上海の中国本社からドイツ大使館に私宛の電報が届いていた。「ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るよう勧める。そちらの予定を電報で告げよ」  私は大使館を通じて返事した。「ジーメンス・上海へ。ラーべより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」  韓が、・・・レンガ工場からガソリン100缶、小麦粉20袋を運んできた。庭では、新しい防空壕の建設中だ。ガソリンはどこか他に置き場を探さなくては。100缶も庭に置くのは危険だ。 スマイスから電話。東京の新聞が、中立区域があると南京の占領は非常に困難になる、あるいは遅れてしまうと論評したという。もしもこれがうまくいかなかったら、いったいどうすればいいんだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。わが頼みの綱はヒトラー総統だ! (IMAGINE 9)【合同出版】より 想像してごらん、女性たちが平和をつくる世界を。 Imagine, A world where women create peace. 戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。 (アメリカ/先住民女性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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