核・戦争のない世界!!

2024-07-06 09:05:28 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
        
        



 重慶爆撃               

 

原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    
  






 原爆    

 
 
【歴史】なぜ原爆ができたのか
 
 
核分裂の発見
1932年、チャドウィックが中性子を発見したことで放射能の研究が一気に進みました。さらに、1938年にはオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーがウラン原子の核分裂を確認しました。この発見は、アインシュタインの有名な公式「E=MC2」とも合致していたため、ウランの核分裂から大きなエネルギーが生み出せると期待されました。*5)
 
イギリスに亡命していたハンガリー生まれの物理学者シラードは中性子を原子に衝突させ、2個の中性子が飛び出せば、核分裂反応が連続すると考えました。*6)
【核分裂による中性子の放出】
アメリカに移ったシラードやイタリアからアメリカに移っていた研究者のフェルミは核分裂連鎖反応の実験を行い、着々と研究を進めました。*6)
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
(ハ)馬の脳炎ウィルスと人類のそれとの異同
本邦に於いては城井尚義博士等が馬の脳炎に関する研究所見を発表している。自然に見られるそれと、人類のそれとに対する関係については尚確定的所見を発表せられていないが、米国に於いては、馬の脳炎ウィルスが人に感染したという例を発表している報告がある。Eklund&Blumstein(J. A n, M.Ass. 111,1938)は馬の脳炎の流行地であるMinnesotaに於いて、6例の特有なる人体の脳炎を経験し、その中の1人の血清は、Ten Broeckによって、馬の脳炎ウィルスを中和する力があったという。又 Wesselhofft,Smith&Branchは昨年8月にMassachusetts&Rhode島に於いて、馬の脳炎の流行があり、200頭以上の死んだ。その当時蚊の非常なる発生があり、人間にも同病の流行を見、7例の剖検を行い、その脳の4例に於いて、馬脳炎ウィルスを分離することが出来たという。臨床所見によるに子どもには急性に、成人には稍々緩徐に始まっているが、東部の馬脳炎ウィルスは一般に人に重症疾患を起こすという。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
このころ、関東軍は熱河省攻撃の結果、北京―天津間の地域への軍事行動を展開する兆候を示していたが、これほど、昭和天皇にとって心配なことはなかった。攻勢に先だって、東京の陸軍上層部は多くの関東軍幹部将校を更迭し、満州の官僚機構を統合することで統制を回復しようと努めた。武藤信義(のぶよし)大将が関東軍司令官、駐満州国特命全権大使、関東長官の三官に任命された。これらの職分は公的には3つの機関に分かれていたものだった。同時に関東軍が増強された。

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