南京!南京!南京!!

2013-12-19 10:22:19 | Weblog

IMAGINE 9
06
想像してごらん、
女性たちが
平和をつくる世界を。

Imagine,
A world where
women create peace.
文 星川淳、河崎哲 合同出版より


●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開\x{6c85}/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
ヴォートリン
ヴォートリン
日記の抄訳(1937年12月12日~1938年5月13日)
5月13日、金曜日
午前中―というより、その残った時間を―費やして、この秋の学期の初級中国と高級中国のカリキュラムを、仕上げようとしている。
典型的な事例が2つ、きょう午前中オフィスにやってきた―江老太と娘さんとが来訪した。その物語―53歳の息子がいて、何年も肺結核を患っている。その息子に、妻と息子がいる。もう1人33歳の息子がいて、稲の脱穀場で機械を動かして、月に40ドル稼いでいた。この息子に、妻と3歳から10歳の子供4人とがいる。9人全部が、この33歳の息子に頼っていた。家族のうち8人が去年の秋、長江の北へ避難し、持ってたものをすっかり使い果たした。33歳の息子が、日本兵らに殺された。




水俣病
一時は、「奇病」などと呼ばれていた。
水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。
苦しんでいる人は、今もいる!!

もし、戦後日本学術会議や日本医学界が731部隊の反省をきちんとし、人間を「マルタ」としてみるのではなく、「人」としてみる、すなわち患者側にたって、医療をすすめていれば、水俣病の拡大は防げたのでは?
政治家・経済界は目先の経済優先の戦後復興に血眼になった。医療は、企業側・国側に相変わらず加担してしまった。

水俣と福島の状況は酷似していませんか?
水俣病では工場が設置したサーキュレータが全く機能しなかった!
福島ではシルトフェンスは大丈夫なのか?
質問なるほドリ:シルトフェンスで汚染水を防げるの?=回答・鳥井真平

ミナマタからフクシマへ~いま、いのちを問う~(後半

水俣病は克服などしていない!!まだ多くの人が苦しんでいる!!





写真集『水俣』(W.ユージン・スミス、アイリーンM.スミス、中尾ハジメ訳 三一書房より)

江頭が会長だった1972年1月、千葉県のチッソ五井工場に交渉にやってきた患者や新聞記者たち約20名が暴力団員に襲われた。著名なカメラマンであるユージン・スミスはこのときに脊椎を折られ、片目失明の重傷を負っている。その件について、彼が謝罪することは決してなかった。

娘・優美子が外務省勤務の小和田恆に嫁いだ。恆と優美子の長女である雅子は平成5年(1993年)、皇太子徳仁親王と結婚し、皇太子妃となった。


水俣条約:外交会議 首相ビデオメッセージ 「水銀による被害とその克服を経た我々」 「苦しみ知らぬ」患者反発

医学界はここでも水俣病の否定にはしった!!
水俣病では、田宮委員会が、水俣病をもみ消し走った。(宇井純)
昭和35年に入り、医学者は水俣病の発生は止んだと発表した。こうして患者は、以後10年まったく忘れ去られた!!
(20:40あたりから)福島原発事故を想起させる!
水俣病=その20年=


偉い学者(原田正純、宇井純、小出裕章など)は出世できない社会?(権力側が押さえつける構造)
宇井純氏は、なぜ万年助手だったの?

助手就任の1965年に新潟水俣病が発生し、実名での水俣病告発を開始したため東大での出世の道は閉ざされ、「万年助手」に据え置かれた



【訃報】<宇井純さん死去>「水俣病」などに大きな足跡

尊敬する学者・宇井純・水俣病


水俣病と731部隊の影

田宮猛雄について
◆731部隊関連科学者たちの戦後
東京帝国大学にあって、731部隊のための人材スカウトの役目を果たしていた田宮猛雄博士は、1945(昭和20)年4月東大医学部長になった。そして後にリッケチアによる伝染病、かの有名なつつが虫病の研究で世界的名声を獲得する。彼はさらに日本国立ガンセンターの初代の所長になり、日本医師会の会長にもなった。
【『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)より】
◆京大閥「731部隊」、東大閥「同仁会」
そのころ、東京帝大伝染病研究所(伝研)は激動に見舞われていた。昭和20年9月2日、岡本啓氏(伝研2部)が自分の研究室でガス自殺をし、ついで、昭和20年9月16日、米軍が伝研を接収しようとしたが、これは田宮猛雄所長らの抵抗で阻止するなど大忙しであった。
北野(北野政次・・・731部隊2代目隊長)が東大伝研に現れたとき、最も北野を庇護したのがこの田宮猛雄伝研所長であった。田宮は日本医学界の大ボスで、多くの伝研所員を「徴兵逃れ」を餌に731部隊や同仁会に送り込んでいた。
731部隊の大ボスが京大閥の石井であるならば、当時の軍隊を頂点とする権力構造に、民間の側から医学的に奉仕したのが同仁会である。
【『731部隊細菌戦の医師を追え』(今も続く恐怖の人体実験)高杉晋吾著より】
◆水俣病と田宮猛雄
東大医学部の反論が原因特定の遅れを招いた!!
公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そして、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。なお、当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は単に有機水銀と表記されていることがある。(ウキペディアより)

「原発はいますぐ廃止せよ」より転載
歴史は繰り返す  水俣病の有機水銀説を否定する「田宮委員会」御用学者たち
(3)日本化学工業協会の田宮委員会
見舞金契約の決着で年を越した昭和35(1960)年以降は、通産省の指導によりチッソは表立って有機水銀説に反論を出すことはなくなり、代わって、有機水銀説への反論・異論を唱える役割は日本化学工業協会(以下「日化協」という。)が担うことになった。
その場として日化協は「田宮委員会」を用意した。
チッソに代わって業界団体が水俣病問題に乗り出してきたことは、有機水銀説すなわち工場原因説による影響がチッソだけでなく国内の他の同種工場へ波及することを懸念したものと思われる。
昭和34(1959)年9 月には、既に大島日化協理事が爆薬説を主張していた。日化協は、同年12 月に水俣病問題に関連した排水対策のため、産業排水対策委員会の中に塩化ビニール酢酸特別委員会を設立した。
昭和35(1960)年4 月8 日、日化協は、酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄日本医学会会長を委員長に、錚々たるメンバーを集めて「水俣病研究懇談会」を設けた。
この会は委員長の名を取って「田宮委員会」と呼ばれ、日化協は、これを中立的、科学的見地からの水俣病への取り組みであると強調した。
[注釈]主なメンバーとしては、顧問に小林芳人東京大学名誉教授(薬理学)、沖中重雄東京大学医学部教授(内科学)、幹事に勝沼晴雄東京大学医学部教授(公衆衛生学)、委員に山本正東京大学伝染病研究所教授、斉藤守東京大学医学部助教授(病理学)、大八木義彦東京教育大学教授(分析化学)のほか、同月12 日の第2 回水俣病総合調査研究連絡協議会で「有毒アミン説」を発表した清浦雷作教授と戸木田菊次東邦大学教授(薬理学)らも加わった。
熊本大学医学部も参加を要請されたが、世良完介医学部長(法医学)はこれを断り、昭和36(1961)年に医学部長が忽那将愛教授(くつな・まさちか)(解剖学)に代わってから参加するようになった。

http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/pdfversion/houkokushopdf.html

原因についてはさまざまな説があり、いまだ確定していないという委員会の主張がそのままマスコミによって報道され、 有機水銀説を相対化させ、原因は未解決という印象を与えることになった。この点で、日化協の田宮委員会が水俣病の原因究明を後退させた影響は大きく、 新潟における第二水俣病の発生を許す一因にもなったと考えられている。
http://www.supercourse-japan.org/lecture/other/Minamata3/10.html

これは過去に現実に起こったこと、本当にあったことだよ、日本の医学界の代表、学会のトップの東京大学だよ、

みんな全員うそつきなんだよ。マスコミも連動してうそつきだよ。

今起こっている福島原発問題、子供たちの被曝線量の安全安心のうそ発表を、これでもまだあなたは、信じるの?

資金をかき集めて、東京に避難しろ、東電に行って補償金をふんだくれ、金が出来たらさらに遠方に疎開しろ、それからゆっくり今後の仕事や学校のことをのんびり考えろ、人生は長い慌てることはない、ただ子供の健康にだけ気をつけろ、まだ子供を作る気なら、自分の健康も注意しろ、私からは以上だ。(以上転載)


#福島 #原発 #4号機 核燃料飛散し東京も避難必要か\x{2049}字幕

◆小出裕章ジャーナル~第43回【トリチウム79万ベクレル検出】 福一、汚染水問題の今後 2013/11/02


小出裕章先生:事態はどんどん悪い方向に行っているわけですから「福島の重荷」を背負っていくしかない

水俣病では、海洋汚染のメチル水銀によって人々は神経細胞が冒された!1942年には水俣病の患者はいた!!

国も期待していたのでは?
1931年、水俣工場を昭和天皇が臨幸(11月16日)
昭和天皇は、チッソ水俣工場を昭和六年と昭和24年に訪問あそばされました。孫はチッソの経営者の孫娘と結婚しました。
チッソは、戦前国策会社の一つだった。

水俣病ビデオQ&A(1996年)


「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったこと」-原田正純先生をしのぶ


・・・・・・・・・・
見舞客を笑顔で迎え、亡くなる2週間には、原田先生が胎児性水俣病患者に深くかかわるきかっけとなった人物・金子スミ子さん(81)との面会も実現し、感謝の気持ちを伝えたそうだ。スミ子さんとの出会いは60年代の水俣にさかのぼる。

ある日、原田先生は、縁側で遊んでいる兄弟の症状が全く同じことにきづき、母親のスミ子さんに、二人とも水俣病なのかと聞いた。すると「お兄ちゃんは水俣病だけど、弟は違う」という。

どうしてかたずねると、「先生たちがそういっているじゃないですか」といわれた。兄のほうは魚を食べて発病したから水俣病だが、弟のほうは生まれたときから病状があったから水俣病ではないという。

母親は続けて、「先生たちは魚を食べないと水俣病にならないといっているけど、私はそう思っていない」というのだ。夫も長男も発病し、同じものを食べていた自分がうんだ下の子は、うまれながらに障害をもっている。自分に症状がみられないのは、体内の水銀がおなかの子どもにいったのではないかと。

当時の医学では、「胎盤は毒物をとおさない」が定説だったが、原田先生はスミ子さんの言葉を聞き流さなかった。このことは後に、国に胎児性水俣病患者を認めさせることにつながった。


水俣病と生きる1-6 医師・原田正純の50年 ドキュメンタリー番組



ハバロフスク軍事裁判!!

「スミルノフは公開裁判で731部隊の行為を明らかにし、アメリカ主導で行われた東京裁判の不完全さに世界の目を向けようとしたのである。」
・・・・起訴状朗読をもって審理に入った。
「起訴状―多年にわたり帝国主義日本は極東における侵略の主なる根源地であった。
日本の参謀本部及び陸軍省は日本の有名な細菌戦提唱者石井四郎を長とし・・・」
-起訴状には細菌戦部隊の罪が列挙されている。
・細菌戦を準備した罪。
・生きた人間を実験に使用した人道上の罪。
・中国で細菌兵器を実際に使用した罪。
・ソビエトに対して戦争を準備した罪。
ソビエトは、細菌戦部隊にかかわった個人としての責任を問い、さらには日本の戦争責任を追及しようとした。
「強制感染によって数千人の囚人を殺戮するごとき、あらゆる凶悪な行為をあえてなしたことが判明した。」
起訴状を書き上げるのに元になった内務省の捜査記録、この中には100人以上の証人の証言や被告たちの尋問調書が含まれている。
(プライム10「731細菌戦部隊」より)


アメリカは細菌戦のデータを独占し、天皇と731部隊員を裁かなかった!!アメリカにも大きな責任がある!!
ニュルンベルグ裁判では、非人道的な実験をした医師を裁いた!!
医者裁判



日本政府は、過去の日本軍の忌まわしい史実を教科書から消し去っている!!
人体実験被害者、細菌戦被害者の悲鳴が聞こえませんか?

戦後マッカーサーと昭和天皇の極秘会談は11回行われ、その中で沖縄や731のことも話し合われたのだろう。GⅡと731部隊幹部との話し合いは鎌倉で行われ、731部隊員の戦犯免責と引き換えにアメリカに情報を提供するということで合意した。
東京裁判では、天皇と731部隊員は戦争犯罪人から外されたが、その人たちの行った中国をはじめとするアジアでの加害行為は、消し去ることはできず、子々孫々まで語り継がれるだろう!!
今の安倍自民は、過去の史実をことごとく消し去ろうと必死になっている!!

「731部隊展開催20周年記念シンポジウム」


731細菌戦部隊 1(前編:プライム10) よりの書き起こし
現代史スクープ・ドキュメント
731細菌戦部隊 前編(1992年)
・・・私達は、この文書館で旧日本軍の細菌戦部隊、731部隊の膨大な報告書を発見した。
2000ページに及ぶ細菌の感染実験のデータ並びにアメリカの科学者による731部隊の調査報告書である。
細菌を使った感染実験のデータ。
実験材料として使用されたのは、400体以上の人間である。
報告書には、実験に使われた細菌の種類、そしてアメリカの調査に協力した日本人研究者の名前が列挙されている。
石井四郎、731部隊部隊長である。
甲状腺、肝臓、リンパ節、脊髄、肺。
実験材料にされた人体はすべて解剖され、あらゆる臓器、器官がつぶさに観察されている。
前編・後編全文を読みたい人は「ノブのノート」で

・・・・・
現代史スクープドキュメント
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より)
・・ しかし、その政治性ゆえに、ハバロフスク軍事裁判は黙殺され、幻の裁判として忘れ去られていく運命をたどったのである。

こうして米ソ対立のはざまで日本の細菌戦部隊が行った人体実験の罪は闇に葬り去られた。

当事者である日本はその責任を自ら問うことなく半世紀が過ぎようとしている。

前編・後編全文を読みたい人は「ノブのノート」で

しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長(細菌培養課課長)、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
「彼は恩赦になると知っていました。日本に帰れたのです。ところがそのことを知っていながら、ある夜、彼は自殺することに決めた。これが、私の知っている全てです。日本に戻ることができない訳が何かあったのだろう。私達は、そう噂しあいました。」
村はずれの墓地。ここには収容所で死んでいった人が葬られている。この墓地の一画に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている・
「このことは、いずれ誰かが語らなければならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は、医者としての良心をかけて、すべてを話そう。」










天皇はもちろん731部隊の人体実験を知っていただろう!!
(3:30あたりから)

UNIT3
・・・・
日本の防衛庁資料室で見つかった記録によると、731部隊は天皇の裁可によって設立されたということが明らかになりました。
この書類には天皇の印章が押されてあったのです。また、天皇の弟の三笠宮は平房を訪れていたことがわかりました。
部隊のカメラマンだった山下氏です。
「当時の貴族はみな軍人になっていました。ときどき、我々の部隊にもそういう方々がやって来ました。私は三笠宮のご訪問を特によく覚えています。私が彼の写真を撮ったのですが、太陽がメガネに反射して目がよくわからなくなってしまったのです。石井隊長は関東軍の科学のメッカたる我が部隊の写真班としては科学的にこれを修正する方法があるはずだと言って、すぐに修正するように迫りました。そんなことがあったので、私は三笠宮の来訪をはっきりと覚えています。」
それどころか、天皇自身も平房での研究が最盛期であった1939年に満州に少なくとも1度は行っています。しかし天皇は人体実験について知っていたのでしょうか。
「日本の制度として主要な研究の報告書は、組織内のすべての人に回覧されることになっており、その流れが途中で止まることは考えられません。私の考えでは、あのように重要な情報が天皇に届いていなかったと考えるのは馬鹿げていると思います。」・・・・・


unit 731 3

731細菌戦部隊 1(前編:プライム10)

闇に消えた虐殺ー731部隊 1

731部隊からフクシマまで、日本医学界は何の反省も無く医療が続けられている!!

全文を読みたい人は「ノブのノート」で

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