細菌戦から核戦略へ!!

2024-04-07 11:52:20 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈

 
 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

731部隊 

731部隊展

 
 
 原爆    
ニュース257号

 
崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年8月9日(木曜日)に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本の長崎に対して原子爆弾「ファットマン」(以下原爆と記す)を投下し、午前11時02分に炸裂[1]した出来事である。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された2024年時点では最後の核兵器である。
原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。
長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である場合が多い。
 
 
 

 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)

 

 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?


実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??

 
 
 
 雑報10号(22巻、1938年)
 
※中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
三田村は、真実を隠すだろう。
 
尚所長に代わって述べられた三田村教授の追悼の辞は次の様であった。
故中込亘君を想う
                    三田村篤志郎
 又後に続く我々は怯まず新手の兵士を彼の地に送れるでしょう。斯くして逝ける我々の友の弔い合戦に力限り戦い続けるであろうことを我々は並びに厳粛に誓うものであっります。
 我等の友中込君。君は我々の内に、我が伝染病研究所の内に限りなく生きています。
 
学友会へ寄付
金16円25銭也   酒井臬二君
金41円61銭也   坂野信雄君
金20円26銭也   岡本啓君
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第2部    
仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
   

第6章 政治的君主の誕生 
 
 V 
 
 奉天が攻撃される前夜には、このように東京の多数の指導的人物が関東軍が事件を起こすことを知っているか、少なくともそれを強く疑っていた。天皇とその宮廷高官たち-牧野、鈴木、関屋、木戸、奈良-も軍部内の不穏な状況を感じてはいたが、状況を読み違えて機敏に対処しなかった。彼らは天皇の警告が十分効果をあげる時間がまだあると考えており、関東軍が主導権を握って民政党内閣の政策を転覆させ、天皇の権威を損なうとはまったく想像しなかった。天皇と宮内官僚は、かなりの間陸軍、外務省、政党に醸成されていた派閥抗争と不満を著しく過小評価していた。しかし彼らがこの危機に対抗しなかったのは、1905年以来の満州における陸軍の任務をつねに肯定し続けてきた結果でもあった。
 
 
 
 
 

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