日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
昆虫班でのノミの増殖
ノモンハンでの細菌撒布も
鶴田兼敏(つるたかねとし)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1921年生まれ
1938年 731部隊に入隊(少年隊・田中班)
1939年10月 退職
1945年12月 帰国
■この証言は佐賀731部隊展(1994年12月)の『報告集』をもとに本人がまとまたもの。
私は昭和13(1938)年11月、関東軍の軍属要員として東京から未成年80人ばかりと一緒に“満州”、今の中国東北地方のハルピンに送られました。着いたところが石井部隊、いわゆる731部隊だったわけで、正式名称は関東軍防疫給水部です。私達80名は、少年隊という名のもとに3個班に分かれました。私は第3班の班員になりました。班員は16歳から18歳までの約30名でした。
入隊は11月13日でしたが、その時はまだ平房の部隊建物は建設中でした。建設資材が運ばれてくるので、私達は使役に出てそれを運ぶ作業を手伝いました。建物は鉄筋コンクリート3階建てでした。確か13年の11月下旬から12月上旬の事だったと思いますが、そのある日何かの用で屋上に上がったのです。下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、麻袋をかぶった3,4人の人が輪になって歩いているのです。不思議に思い、班長に「あれは何ですか?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。しかし、私は“マルタ”という意味が解りません。そこで「“マルタ”とは何だ?」と又聞きますと、「死刑囚だ」と言うんですね。軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、その疑問をぶつける前に班長から、「今見たことはみんな忘れてしまえ!」口外してもならない」と言われました。それが、私が初めて“マルタ”を見た時のことです。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
3 毒ガス戦の準備
対ソ戦への準備
これは陸軍の演習での最初の大きな毒ガス事故であったが、毒ガスの実戦経験がないため、このような演習が強行されたのである。
9月には、陸軍習志野学校・陸軍科学研究所・下志津陸軍飛行学校が、天竜川下流の中州で、びらん性ガスの模擬毒と真毒を雨下する実験を行った。その結果、兵士と軍馬が被毒したが、その状況から雨下は「他の持久瓦斯使用の手段に比し遥かに有効」であるいことが判明した。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
第13章 毒ガスは消えず
苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査
日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる
ここまで話すと、周先生は当時を思い出して苦しそうに、
「私は崔先生について何回も病院に行った。崔先生の被毒部分からは黄色い水が流れ皮膚はひどく爛れてある部分は血管が露出して、それがぴくぴくと動いているのが見え、もうそれ以上見ておられなくなった。毒剤を飲んだ人は死ぬ時、口も舌も全部大きな水泡が出来、その人は大きく口を開けて息をし、その苦しむ様子は、目を覆うばかりだった」と、回顧した。
お2人の先生の訴えは、私たちに日本軍隊が遺棄した化学兵器の危険性を更に深く認識させることになった。更に私たちは、資料と元516部隊隊員の回想から、チチハルには化学毒剤を使用した工場があったと考える。
では、・・・・具体的にその工場の位置はどこなのか?
今のところ私たちは分からない。
それならこの毒ガス桶を発見した所は、…その工場と関係があるのではないのか?これは私たちが更に一歩進んで調査を行わなければならない。
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