細菌戦の系譜!!

2022-12-22 07:15:38 | Weblog

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

昆虫班でのノミの増殖

ノモンハンでの細菌撒布も

 

鶴田兼敏(つるたかねとし)

731部隊・少年隊

〈経歴〉

1921年生まれ

1938年 731部隊に入隊(少年隊・田中班)

1939年10月 退職

1945年12月 帰国

■この証言は佐賀731部隊展(1994年12月)の『報告集』をもとに本人がまとまたもの。

 

私は昭和13(1938)年11月、関東軍の軍属要員として東京から未成年80人ばかりと一緒に“満州”、今の中国東北地方のハルピンに送られました。着いたところが石井部隊、いわゆる731部隊だったわけで、正式名称は関東軍防疫給水部です。私達80名は、少年隊という名のもとに3個班に分かれました。私は第3班の班員になりました。班員は16歳から18歳までの約30名でした。

 

入隊は11月13日でしたが、その時はまだ平房の部隊建物は建設中でした。建設資材が運ばれてくるので、私達は使役に出てそれを運ぶ作業を手伝いました。建物は鉄筋コンクリート3階建てでした。確か13年の11月下旬から12月上旬の事だったと思いますが、そのある日何かの用で屋上に上がったのです。下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、麻袋をかぶった3,4人の人が輪になって歩いているのです。不思議に思い、班長に「あれは何ですか?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。しかし、私は“マルタ”という意味が解りません。そこで「“マルタ”とは何だ?」と又聞きますと、「死刑囚だ」と言うんですね。軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、その疑問をぶつける前に班長から、「今見たことはみんな忘れてしまえ!」口外してもならない」と言われました。それが、私が初めて“マルタ”を見た時のことです。

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
 
第2 731部隊に関する研究状況
 
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
 
 
4  その他の資料の発見と文献の刊行
 
 1988年8月には、『陸軍軍医学校防疫研究報告』61冊が山中恒により発見され石井四郎によって東京の新宿戸山の陸軍軍医学校内に設置された防疫研究室(1933年4月設置)と平房の731本部との密接な関係が明らかにされた(『朝日新聞』1988年8月21日)。特に、その中の「支那事変ニ新設セラレタル陸軍防疫機関運用ノ効果ト将来戦ニ対スル方針並ニ予防接種ノ効果ニ就テ」(『陸軍軍医学校防疫研究報告』第2部99号)は、1940年3月30日、石井四郎による陸軍軍医学校で開催された軍陣医薬学会での講演記録であるが、この中の第83図「本事変ニ新設セラレタル陸軍防疫機関」によれば、固定の防疫給水部として、ハルビン、北京、南京、広東と共に5番目に陸軍軍医学校防疫研究室が、「部隊長石井四郎、東京、310名、昭和8年4月1日編成」という記述と共に並置されており、防疫研究室とハルビンの731部隊本部の密接な関連を示している。因みに、そこではハルビンの関東軍防疫給水部は「部隊長石井四郎、ハルビン、1836名、昭和11年8月11日編成」とされている。
 

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936

3 毒ガス戦の準備

対ソ戦への準備

 これは陸軍の演習での最初の大きな毒ガス事故であったが、毒ガスの実戦経験がないため、このような演習が強行されたのである。

 9月には、陸軍習志野学校・陸軍科学研究所・下志津陸軍飛行学校が、天竜川下流の中州で、びらん性ガスの模擬毒と真毒を雨下する実験を行った。その結果、兵士と軍馬が被毒したが、その状況から雨下は「他の持久瓦斯使用の手段に比し遥かに有効」であるいことが判明した。

 

      海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)

日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!

 

 

 

 

 

 
 
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査

 

日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる

ここまで話すと、周先生は当時を思い出して苦しそうに、

「私は崔先生について何回も病院に行った。崔先生の被毒部分からは黄色い水が流れ皮膚はひどく爛れてある部分は血管が露出して、それがぴくぴくと動いているのが見え、もうそれ以上見ておられなくなった。毒剤を飲んだ人は死ぬ時、口も舌も全部大きな水泡が出来、その人は大きく口を開けて息をし、その苦しむ様子は、目を覆うばかりだった」と、回顧した。

 お2人の先生の訴えは、私たちに日本軍隊が遺棄した化学兵器の危険性を更に深く認識させることになった。更に私たちは、資料と元516部隊隊員の回想から、チチハルには化学毒剤を使用した工場があったと考える。

 では、・・・・具体的にその工場の位置はどこなのか?

今のところ私たちは分からない。

 それならこの毒ガス桶を発見した所は、…その工場と関係があるのではないのか?これは私たちが更に一歩進んで調査を行わなければならない。



 



 
 
 

 

 

 

 


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