核・戦争のない世界!!

2024-06-02 09:42:50 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈





 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    

 
731部隊展



 原爆    
 

 

高松市などが毎年開いている原爆写真展です。会場には戦争当時の写真や記憶をもとに制作された絵画など約20点が展示されています。
 
日航123便の怪(1985年8月12日)


 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
   伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
戦争と文化
 

 各国民は自国民の腕に頼るより外、施すべき術はない。それが出来ないものは、気の毒ながら他国の庇護の下に来って、存立を保たなければならない。今次の聖戦に於いて皇軍に破竹の成果あるは、全く日本精神の発露の許に優秀なる科学の力があるからであって、徒に肉弾の強きにのみ頼っているものではないのであることは事新しく申す迄もない。今や大戦の半ばに達したかの感があるが、来るべき新相手国に対しては、吾々は新しき科学の力が用いなければならない。それが為には今次の聖戦に於ける尊き経験こそ、吾等に教うる事極めて多くのものがある。これを活用して、新研究指導の指針となし、新天地を開拓しなければならないことは申す迄もない。

 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 
実際のところそれは非常に穏健な言いまわしの訓戒の書だった。4日後、おそらくは閑院宮が勧めたことから、天皇は、さらに「関東軍に賜りたる勅語」を渙発することにした。そして、中国の「匪賊」と「自衛」のため勇敢に戦い、「皇軍の威武を中外に宣揚」したとして、統制に服さない関東軍を嘉賞したのである。ラジオや新聞を通じて詔書は広範に伝えられ、戦争に異論や不安がある人々を黙らせた。犬養による陸軍の軍紀回復の試みには、これが何の支えにもならなかったことは言うまでもない。
 
 
 
 
 

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