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国家犯罪!731から辺野古まで!!

2016-04-16 09:03:52 | Weblog

●ニュース
<熊本地震>大分県由布市で震度5弱

熊本で震度6強、M7.3=阪神大震災級、1人死亡―阿蘇など負傷者多数・熊本

熊本空港、運航不能=天井崩落でターミナル閉鎖

「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告







●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。



細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
日本の毒ガス弾の処理


暴かれる毒ガス戦の真実


(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦





細菌戦部隊731 


東京裁判




●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗


「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備  米軍報告書

アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)


報告書には海軍の化学兵器の全容のほか、陸軍側の研究、生産状況や、毒ガス研究機関だった第6陸軍研究所、化学兵器戦の訓練教育に当たった陸軍習志野学校の各見取り図、化学戦装備の写真なども一緒にファイルされていた。
資料では「日本には陸、海軍とも独立した化学戦組織はなく、毒ガス研究も計画性はなかった。装備が十分だったのは中国遠征隊と満州・関東軍ぐらいで本土決戦でも在庫不足で大規模な毒ガス攻撃は無理だった。ドイツとの協力もほとんどなく、これ以上の詳細な調査は必要ない」と結論付けており、米国側が日本の化学戦についてまとめた最終報告書とみられる。
日本の毒ガス作戦に詳しい栗屋憲太郎・立教大学教授(日本現代史)の話
海軍の毒ガス研究については関係者らが口を閉ざし、霧に包まれていた。まとまった報告書が見つかったのは初耳で、海軍側の解明の糸口になる基礎資料だ。終戦後の戦争裁判では毒ガスについて起訴状では触れていたが、なぜか途中から扱われなくなる。日本軍の毒ガス戦を米国側がどう見ていたかを知るうえでも、参考になる。








自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年6月7日号
第4回
事件1報前に待機していた自衛隊。
・「解毒の方法を知っていますか?」
―事件発生数ヵ月前に化学学校に1本の電話が入った。
「・・・化学学校でサリンが製造されていることは自衛隊内部でも知られていないことなので、10人ほどの研究員はその電話に騒然となったようです。その数ヵ月後に地下鉄サリン事件が起き、あの電話はオウム(真理教の信者)からだったと再び騒然となったのです。・・・外部から直接電話が入ることもおかしいのですが、そもそも直通の番号を知っていること自体、あり得ない話なのです
・聖路加国際病院に、自衛隊中央病院の医師が突然現れた。「パムを使うといい」
・1報前に出動待機
実は、自衛隊は警視庁から防衛庁に「毒ガスらしきものが撒かれた」との1報が入る15分前に、すでに自衛隊中央病院に出動待機の連絡を出していた。
・・・以上の経緯を見れば、自衛隊は警視庁から事件の1報が入る前に原因物質がサリンであるとほぼ断定していたことになる。あるいは、この日のサリン撒布自体を事前に知っていたのではないかという疑問が生じる。事件後に称賛された除染活動も、こうして解毒剤をめぐる経緯を見ると、これまでとは違った色合いを帯びてこないか。

日本は現在毒ガスを製造している!!




※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!











●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より


第二章国家機密の構造

3 外交機密の生態
暗号電報の仕組み
暗号としてもっとも強度なものは、無限乱数表を使用したものである。この方式によれば、同一乱数を絶対使用しないから解読不可能であり、完全暗号とよばれる。不規則な暗号化数字が無限につづいているので、米軍ではこの乱数表を「トイレット・ペーパー」と呼んでいるという(長田順行『暗号―原理とその世界』による)。これなら乱数表が漏洩しないかぎり、解読される危険はない。高度の外交機密は、この方式で暗号化され、送受信されているのであろう。



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景








●南京大虐殺
・証言
1937年には家は南京の栖霞山保太街で、日本軍が南京を占領した時、私は日本軍に捕まって行ってクーリー(苦力=辛い労働を強いられた人夫)をさせられ馬を飼わされました。12月中旬に、日本軍は大虐殺をやり、私は日本軍が中央軍を16人捕まえて来て、全部銃殺にしたのをこの眼で見ました。やがて私が保太山逃げ戻ったら、日本軍が又も私たちの村で掃蕩をやり、私はその時隠れていて、私が戻って一目見たら、家屋は日本兵に焼き払われていて、村中がみな死体で、おおよそ百人余りがやられました。(賀家宝と沈珍昌が記録)


しゃべってから死ぬ!南京大虐殺











●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より



・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
浜中の脱走


「いないかァ!どうだ」
などと叫びかわす声がし始め、1時間もたつと、みなそろそろ、業を煮やし出したようだった。
そのうち、他の班の者や雇員たちも起きてきて、部隊内は時ならぬ騒動となった。
私達が一巡りして官舎の前に来たとき、近江属が懐中電燈をちらつかせながらやってくるのにであった。
「何をぼんやりしてやがんだ。まぬけ!こんなところを探したってどうなるんだ。・・・・俺と一緒に来い!貴様らにも責任があるんだぞ」
と、ものすごい剣幕だった。営外へ出たとすれば、夜警はもとより、部隊としても一大事なので、みな血眼になって探していた。
それからまた1時間あまり、私達はいくつかに分れて、入り込めそうな建物の中や、土塀のきわ、草原のほうを探し歩いた。
空はすでに青く明けて、地上も人の顔かたちがはっきり分るほど明るくなっていた。
丁度、土塀に沿って進んでいた組が両側からであいそうになったとき、
「いるぞ!おおい!こっちだ、こっちだ!」
と叫ぶ声がした。人々は、そのほうへ一斉になだれ込んだ。
塀に近い草丈の高いところに、石のようにじっとうずくまっているのは、まがいもなく浜中であった。 


厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)

医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)

※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。



真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
731問題







●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏
さらに重要なことに、6月8日以来、モスクワの佐藤大使は、東郷外相に、ソ連が日本を助けるとは到底、想像できないと伝えていた。7月13日、佐藤は東郷に対し、「特使派遣は天皇陛下の御意志にして恐燿に堪へず」としながらも、それはソ連にとってまったく意味をなさず、皇室に災いをもたらす結果となるだけで、「もし陛下より日本政府案を提示したとしても、具体性に欠け従前の考えの列挙に限られる」と警鐘を鳴らした。
7月19日、佐藤大使は、ソ連が「目的が曖昧(あいまい)との理由から」実際に特使の受け入れを拒絶した(それは佐藤が一貫して主張してきたとおりの結果であった)と東京に伝えた。その翌日、同大使は情勢全般についての感想をまとめ、彼としてはもっとも感情をあらわにした電報を東郷外相に送った。そのなかで、佐藤は(7月9日に拝謁した有田や、2月以来、戦争終結を主張していた近衛と同様に)、国家は倒壊寸前にあり、すみやかに降伏すべきであるとした。また、佐藤は「国体保持」については「国内問題なりとして講和条件より除外すること」もひとつの方法であると強調した。換言すれば、講和に際し君主制の保障を求める必要はなく、佐藤にとっては天皇の大権を意味する国体は、すみやかな降伏によって護持され、再び日本が独立を回復すればこれを復活させることができるだろう、というのだった。






●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

米国の上陸
昼食の後、アメリカ軍司令官、チャールス・テンチ大佐は、盲腸炎で苦しんでいるひとりのアメリカ兵捕虜の件を取り上げた。日本側は、彼は定期的に付き添う外科医のもとにある、と説明したが、今やアメリカの管轄下にあるので、自国人の世話、あるいは、盲腸の手術をする医師を望んでいるのではないか、と付け加えた。テンチ大佐は、この件を扱っている日本人外科医を十分信頼していると回答した。彼は、この捕虜が収容されている、横浜の北、品川の収容所の病院について、その評判を何も知らなかった。その病院は、アメリカ人監視者が検査のために送られ、あるいは、盲腸炎手術が行われるとすれば、そこであるはずの模範病棟をもっていた。しかし、この病院のその他の施設は、シラミと排泄物の恐怖の病棟だった。後に、そこの担当医は、人間を虐待する意味のない実験を行った罪で絞首刑となった。健康な人が、死ぬまでその血漿を抜き取られた。病人は、不可解な注射で死に至らされた。その担当医は、豆乳や尿を動脈注射した。彼は、赤痢の患者の胆汁を結核患者に、マラリア患者の血清を脚気の患者に投与した。その日の夜遅く、その厚木の日本人司令官は、テンチ大佐のもとに、立腹してやってきた。というのは、ハロルド・スタッセン――後の大統領候補――に率いられた米国海軍部隊が、品川病院を急襲し、その盲腸炎患者を停泊中のアメリカの病院船に連れ去ったからであった。



全文は「ノブのノート」で!!

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