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国家犯罪!731から辺野古まで!!

2016-04-13 10:01:06 | Weblog

●ニュース
TPP法案成立先送りへ、参院選への影響回避

ロシア外相、北方領土「4島すべてが交渉対象になる」

「進学しても女の子はキャバクラへ」自民・赤枝氏発言

<自衛隊>対中、防衛関係強化…ベトナム寄港

パナマ文書の法律事務所、CIAもスパイ活動に利用か

トランプ氏の日本の核保有容認にケリー氏「危険だ」




●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。


細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
北坦村の悲劇



暴かれる毒ガス戦の真実



さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


東京初空襲・浙かん作戦

淅贛(せっかん)作戦 


1942(昭和17年)浙贛作戦における細菌戦
1942(昭和17)年4月18日、日本近海のアメリカ空母から飛び立ったB25爆撃機は、浙江省衢州の飛行場を着陸基地として、東京・名古屋を初空襲した。これに驚いた陸軍中央は、浙江省の前線の飛行場を徹底的に破壊することを決定した。これが「大陸命(大本営陸軍部作戦命令)612号」による「浙贛(せっかん)作戦」である。大本営作戦参謀井本熊男大佐の日記によれば、5月30日には細菌戦実施を指示する「大陸指(大本営陸軍部作戦司令)」が、参謀本部第一部長田中新一少将から、石井四郎少将、増田美保少佐らの実戦指揮者に伝達されている。7月26日には贛州(かんじょう)、建甌(じぇんおう)で飛行機から細菌の撒布が実行されたことが記されている。
地上撒布は、日本軍に被害が出ないように、侵攻した日本軍が反転し、撤退した8月19日以降に実施された。「井本日記」8月28日には、井本大佐が支那派遣軍参謀の長尾大佐から、「ホ実施現況」として細菌戦の実施状況の報告を受けている。これは細菌撒布の地上戦に関する報告で、広信、広豊、玉山にはペスト菌、江山、常山に対してはコレラ菌を、衢県、麗水には腸チフス菌、パラチフス菌を撒布したと記されている。
※井本日誌には浙贛作戦の仔細な情報が記されていた。
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行



(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦







細菌戦部隊731 


闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)


常徳細菌戦




●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗


「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備  米軍報告書

資料の表題は『日本の化学戦についての情報報告』。常石敬一・神奈川大教授(科学史)と、長島修・立命館大教授(日本経済史)が、研究資料を調査中に、報告書とその基になった尋問所を見つけた。毒ガスの開発研究、生産、戦場への補給システムと貯蔵施設、化学戦訓練などにわかれ、全体量はA5判のリポート用紙で約650ページ以上。いずれも昭和21年5月までに米太平洋陸軍総司令部が作成、「部外秘」扱いにしていた。
報告書によると、海軍では技術局の機関として大正12年(1923)に東京・築地に最初の化学兵器研究所を設立した。その後、神奈川・平塚の海軍火薬工場敷地内に施設を移し、昭和6年の満州事変ぼっ発後、研究規模を拡大。戦局にかげりが見え出した18年に毒ガス製造の拠点となる相模海軍工廠となった。
同工廠の化学兵器研究部門は終戦時、300人が勤務していた。ガスマスクや防護服、汚染除去剤のほか、びらん性、くしゃみ性の各種毒ガス、催涙ガスなどを製造。陸軍の毒ガス製造所だった広島・大久野島が最盛期5千人の従業員を抱えていたのに比べると、規模は小さいが、致死性のびらん性ガス「イペリット」の生産能力は月間80トンで、19年には海軍司令部の要請でイペリット爆弾4万3千個を製造している。








自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。




※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!












●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より


第二章国家機密の構造

3 外交機密の生態
暗号電報の仕組み
陸幕二部別室は陸上自衛隊の機関であるが、生み空隊員も派遣されておvり、事実上陸海空の統合機関となっている。71年3月現在、航空自衛隊からの派遣要員は、将校32人、下士官94人、兵96人、事務官19人(藤井『自衛隊の作戦計画』215ページの表参照)であり、陸海も合わせて2000人程度の機関であると推定される。これらによって外国の無線通信を傍受し、暗号を解読する活動が日夜つづけられているのである。これを「コミント」(通信情報)作戦という。ソースは外国の通信電波および空中航法、レーダー、ミサイル管制のための電波である。









●南京大虐殺
・証言
1937年の12月の暮れか1938年1月のある日の午後3時頃に、盤城の方向から日本軍が3人、長い銃2本と短い銃1つを持ってやって来て、先ず向かいの潘家小荘子に来たのを見ましたが、その時は潘家小荘子には潘茂林の家1軒しかなく、日本軍が来たのを見て、一家みんなで私たち和尚荘に逃げて来たので、日本軍は無駄足を踏んだのでした。日本軍はそこでこっちの方へ来たのですが、その時私の村の呉長賢や卞加華や潘伝徳など4人がちょうど長い腰掛けに腰をかけて日向ぼっこしていて、日本軍が潘家小荘子からこっちには人がいると分かり、向こうから私たちちょうど日向ぼっこしている人たちに向かい銃を撃って来て、1発が卞正萍の太股に命中した後、潘家小荘子から私たちの荘までやって来ました。村に来ると、私たち子供5、6人に鶏を捕まえさせ、私たち彼らの為に鶏を捕まえるのに忙しくしていたら、3人が火を放ち始め、先ず卞正藩の家に火を放って焼き、続いて又私の家と呉長賢の家とを焼いて、その日にみんなで16部屋の家屋が焼き捨てられました。日本軍は火を放った後私たちが捕まえた鶏を持って行ってしまいました。日本軍が行ってしまうと直ぐに、私たち火を消すのに忙しくしながらも、先ず村の大人たちは傷を受けた卞正萍を後ろの野菜畑の沼の辺の竹林まで抱えて行ったのですが、みんなが忙しく火を消すので、消火の音が響いてしまい、日本軍が振り向いたらちょうど卞正藩が見え、又も続けて2発撃ったのが、1発卞正藩の首に命中し、もう1発が背中から突き抜け、卞はその場で撃ち殺されました。その時、卞正藩の父親がショックでパーになってしまいました。(呉大興と章歩錦が記録)


しゃべってから死ぬ!南京大虐殺













●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より



・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
浜中の脱走


私は電流に打たれたように、そのとき、初めて事態のただならぬことを悟った。
支給された被服はきちんとたたまれ、いつもある日記やその他の見廻り品は何1つないのである。意識的に整理したものであることが、歴然としている。
森島も起きてきて、ただならぬ表情で、どうしようと言う風に私を見つめた。
「報告してこようか。俺たちだけで探したって、とても分りゃしないだろうからね」
私は、野口傭員のいる夜警詰所に駆け出して行った。
「どうした?」
私のそぶりはやはり尋常ではなかったのだろう。野口傭員が待ち構えていたように立ち上がってきた。
「浜中が、まだ帰ってこないのであります。それに、私物はすっかり整理されています」
「ん?」
と、野口傭員は目を丸くして、
「すぐゆく」
と、同僚たちに事態の説明にかかった。
「やれやれ、やっかいなことをしてくれぁがったなぁ」


厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)

医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)

※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。



真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
終戦50周年731部隊2






●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏
戦争終結に果たした昭和天皇の役割については、型通りの解釈では、ソ連への調停の依頼、つまり広田弘毅とヤコブ・マリク〔駐日大使〕との会談や、東郷外相がモスクワの佐藤尚武大使に送った密電を、降伏のための重要な試みであると見なしてきた。しかし、6月から8月初旬にかけて行われた一連の予備交渉にたずさわった人間は、この交渉は不可避となった降伏を単に先延ばしにするだけの外交戦術に過ぎないと見ていた。ソ連に期待を膨らませていたのは、自らの大権を喪失しかねないという事態に苦悶していた昭和天皇と陸軍統帥部だけだった。
戦後〔独自録〕のなかで、天皇は対ソ交渉についてわずかに述べているがその説明は誤解を呼ぶものである。
講和の仲介に「ソビエト」を撰んだのは、それ以外の国は皆微力であるから、仲介に立つても英米に押されて無条件降伏になる怖れがある、ソ連なら力もあるし且中立条約を締結して居る情義もあるので、この2つの理由からである。
然し、ソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある。それでもし石油を輸出して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。





●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

米国の上陸

河辺大将がマニラから東京へ帰任してからの5日間、雨が宮中御殿の屋根を打ち、吹上庭園の木々に降り注いだ。そのそれぞれ日の午後遅く、裕仁は歩いて皇居神社にもうで、滴したたる軒下にたたずみ、来るべき試練に思いをはせていた。神殿は靄にかすみ、光沢のある白石を敷きつめた境内は、これまでにはなく、身にしみるように、どこまでも静まりかえっていた。裕仁の憂慮は彼一人だけのものではなく、東洋の全地域にあって、不安に打ちひしがれた人々のものでもあった。厚木特攻隊基地では、占領軍を迎える準備を進めていたある将校は部下に、征服者の行動に対する攻撃を加える以前に、自決することを訴えた(36)。はるか南のマニラでは、ひとりの米兵が、銃を掃除しながらつぶやいていた。「お湯の蛇口のようには、開けたり閉めたりができないやつらがいる」。彼は、先遣隊として日本に――武装解除を待つ250万の狂信的日本兵の敵陣の真っただ中に――行く、数百人の米軍部隊の一人だった。


全文は「ノブのノート」で!!

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