●横浜「戦争と加害」のパネル
細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜) 毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜 参観者の感想 ・実際に被害にあわれた方の証言を目の当たりにすると、恐ろしさが伝わってくる。そして知らないことも怖いと思いました。このようような展示を行って下さる方々の行動力に感謝します。30代女性 「慰安婦」関係資料21選より ●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦) 日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!! 日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!! 「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア 井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている) 寧波(ニンポー)細菌戦 闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送) 細菌戦裁判(1997年~2007年) 終戦50周年731部隊 細菌戦被害の人々 (毒ガス戦) 日本鬼子のおきみやげ(毒ガス) 暴かれる毒ガス戦の真実 (毒ガス戦) さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) (細菌戦) 昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 天皇は知っていた!! 澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!! 『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』 松野誠也(明治大学大学院)【当時】より ・・・・・・(略) 澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。 これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。 石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。 これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。 次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。 石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。 何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。 仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。 石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略) 東京初空襲・浙かん作戦 一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。 赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】 ・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!! ・日本は富国強兵を目指した!! 1921年昭和天皇フランス視察 1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察 ・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか? 医の倫理は、向上すると思う!! 中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!! 夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻 ここで焼却されたマルタは虚空に消えた その無念の粒子を今なお人々は呼吸する この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける だが誰もそのことを声高に語ろうとしない 【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より 日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア 混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮) *細菌戦被害の深刻性 腺ペスト(ヒトのペストの中で最も多く、80%~90%を占める。)や皮膚ペストは、ペストに感染したノミに噛まれて感染する。肺ペストは、ペスト患者の喀痰や飛沫が感染源になる。敗血ペストは主として腺ペストに続いて起こる二次性のものが多い。本件の被害地域のように人的なつながりが強い地域では、ペストはそのような社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。そして、ペストは本来齧歯類(げっしるい)の病気であることから、ヒト間の流行が始まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期的に渡って汚染する病気であるといえる。 ※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!! 『細菌戦資料センター会報10号』より 小泉親彦(ちかひこ) ※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物 1945年9月、自決。 ・「特殊部隊731」 秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行) 第2部 恐るべき遠足 死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。 わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。 は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。 ・パネル展 瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦 話は今につながっている!!幽霊が出る!! 石井隊長の戦後3 筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。 ガン治療のウラ 3/8 抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ 「ミドリ十字」という会社 内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。 厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。 命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような 医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう 医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する 千数百名もの感染者を出した 「薬害エイズ」事件 このような事件の発生を反省し この碑を建立した 平成11年8月 厚生省 碑を建てても薬害は続く!! イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴 イレッサ訴訟 子宮頸がんワクチン接種後の症状 国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!! 子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ 以下、ウィキペディアより ・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。 ・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。 ・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。 ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影 堀田伸永 第2章 原子力ムラの源流 原爆症研究組織が平和利用支持の拠点に 「原爆症調査研究協議会」は、1953年11月、広島・長崎の被爆者の原爆後遺症の治療方法究明のために設置された連絡組纖だった。事務局は、広島と長崎にある米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)にそれぞれ支所(原子爆弾研究所)を置き、連携してぃた国立予防衛生研究所内にあり、米国の原爆の人体影響研究の補完を前提としていた。第五福龍丸事件以降は拡充され、臨床小委員会は国立東京第一病院や、東大医学部の若手の医師によって補強され、乗組貝の治療、放射性降下物による環境や農・水産物の汚染調査にあたっていた。 福島 南相馬の避難指示 大部分が解除 ・日本の科学者の核兵器への執念の系譜 戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている! ◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ 小路田泰直 ■註 ★1—玉木英彦宛書簡(1945年8月7日)中根良平・仁科雄一郎・ 04 仁科浩二郎・矢崎裕二・江沢洋編 『仁科芳雄往復書簡集』 III、みすず書房、2007年、1142頁。 ★2—仁科は1942年6月には海軍技術研究所(中佐伊藤庸二)から、1943年7月には陸軍航空本部から依頼を受けて、 核兵器開発に取り組んでいる。 そして後者の依頼をきっかけに始まったのが 「ニ」 号研究であった。 ★3—菊池正士宛書簡(1941年10月4日)『仁科芳雄往復書簡集』II、1033頁。 ★4—『仁科芳雄往復書簡集』III、1240頁。 ★5—D.マッカーサー宛書簡(1945年12月12日)『仁科芳雄往復書簡集』III、1195頁。 ★6—朝永は「仁科先生」と題した小文で「先生の見透しは時にはあまりに遠大すぎたこともある。特にわが国情においては、今少し近小の見透しであった方が実効があったと思われることもあった。 小さいサイクロトロンが出来たなら、 これをつかって小さいながらいろいろ有益な研究をすることもできただろうに、先生はそういう小成に安んずることを好まれない。…いつもさきへさきへと急がれる。」(玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄』みすず書房、1991年、4~5頁)と書いている。 ★7—『仁科芳雄往復書簡集』III、1343~1344頁。 ★8—吉川秀夫『科学は国境を越えて』三田出版会、1987年、134頁。★9—『仁科芳雄往復書簡集』III、1302頁。 ★10—「原子力と平和」『仁科芳雄遺稿集 原子力と私』学風書院、1950年、104~105頁。 ★11—同 前、102頁。 ★12—『仁科芳雄往復書簡集』II、1450頁。 ★13—日本学術会議編『日本学術会議25年史』1977年、15頁。★14—玉木英彦「科学研究所と仁科先生」朝永振一郎・玉木英彦編『仁科芳雄—伝記と回想』みすず書房、1952年、95頁。 ★15—中曽根康弘『天地有情—五十年の戦後政治を語る』文芸春秋、1996年、167頁。 ★16—『天地有情—五十年の戦後政治を語る』168~171頁。 ★17—同 前、186頁。 ★18—伏見康治『時代の証言』同文書院、1994年、271頁。 ★19—門上登志夫『実録関西原子炉物語』日本輿論社、1964年。 ★20—熊取町教育委員会『「京都大学研究用原子炉」の誕生』(熊取町史紀要第4号) 1996年、 17頁。 ※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。 ※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!! 海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集 開示された文書「何で黒塗り?」 原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影) 放射能汚染地図「川で何が起きているか?」 原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は??? 封印された原爆報告書 全文は、「731からフクシマまで!!」で!! |
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