●南京大虐殺!!
名古屋から世界へ向けてのメッセージ!!
戦前・戦中、国家神道は日本の精神的支柱となり、国民は教育で洗脳され続けた!!
そこでは、天皇は絶対的な存在だった!!神であった!!
戦後、一旦は「国家神道」は占領軍によって廃止されたが、天皇制が存続したため、その「国家神道」の思想は今でも多くの国民に影響を及ぼしている!!
それも国歌・国旗が正式に制定されてからは、一段と強くなった!!「思想・信条の自由」は侵害されている!!
式年遷宮、年始の参拝等には、多くの政治家、国民が伊勢神宮を参拝し、天皇を崇拝している人が多い。
今のほとんどの政治家、企業家、学者等多くは今も「天皇は神である!!」ことを固く信じ込んでいる!!
神は悪いことをしない!!いやしてはいけないのだ!!天皇制の存続も危ぶまれる!!
だから、天皇・軍部の犯した罪を、歴史の真実を「秘密保護法」を作って隠す!!
「南京大虐殺はなかった!!」「731部隊は存在したけれども、生体実験、細菌戦等は資料が無いのでわかりません!!」等々、しらばっくれている!!(ノブ)
新野和暢氏講演!!
あの傑僧、沢木興道もこんなことを書いていたのか!!
「杉本五郎中佐はこの煩悩という2字を朝敵と訳したが痛快である。時局がらこういう工夫も悪くない」と書いた。
〔確か、沢木興道は日露戦争へ従軍して、金鵄勲章をもらっている。〕
「禅と戦争責任」
澤木興道 (ノブ)
(参考)
『生きている兵隊』(石川達三著=中公文庫61ページ)より
いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮の事を思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持ちでさえもあった。従軍層はどこの部隊にもついているが、彼ほど勇敢に敵を殺す僧はどの部隊にも居なかった。
「片山さんも帰ったら一つ金鵄勲章をもらわんといかんな」と通訳が笑うほど彼の戦闘は勇敢であった。しかも彼は拳銃も剣も持たない、武器はいつも有りあわせのものであった。北支の戦場で彼が殺した人数は20人を下らなかった。
北支に居たころ、西沢部隊長から問われたことがあった。
「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」
「はあ、そりゃあ、殺(や)ります」と彼は兵のように姿勢を正して答えた。
「ふむ。敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
「いや、やっている従軍僧もあるようですが自分はやりません」
「生きているのは殺さなきゃなるまいが、戦死した兵は弔ってやってもいいだろうじゃないか」
「はあ、しかし、自分にはどうもそういう気持ちになれませんな。やっぱり戦友の仇だと思うと憎いですな」
・・・・・・・・
従軍僧自身にあっては、自分の寺で平和に勤行をやっているときにはこの宗教が国境を超越したものであることを信じていた。印度において支那において日本において、同じ宗教が同じように信仰されて来たことはそれを証明すると思っていた。簡単な信じ方であった。また従軍を志願して寺を出るときには支那軍の戦死者を弔ってやるつもりはあった。しかし戦場へ来て見るとそういう気にはなれなかった。
戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、同じ程度のことしか考えない、同じ要求しか持たないものにしてしまう不思議に強力な作用をもっているもののようであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリジェンスを失ったように、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののようであった。ただ彼に残っている宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知って居るというだけである。彼は僧衣を脱いで兵の服を着ると同時に、僧の心を失って兵の心に同化していたのであった。
しかしそれは必ずしも片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれが出来なくなったのは、宗教が無力になったというよりも、国境が越え難く高いものになって来たのであった。
※石川がこの本を昭和13年に出すと、すぐに内務省は発売禁止を通告してきた。その後「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊すもの」との理由で、「新聞紙法違反」と罪に問われて起訴されてしまう。判決は2回の公判で早くも下され「禁錮4年、執行猶予3年」の刑であった。
●憲法9条!!
「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会 Executive Committee for “The Nobel Peace Prize for Article 9 of the Japanese Constitution”さんがキャンペーンの進捗報告を投稿しました:
署名40万人を突破しました!! 署名拡散にご協力お願いいたします。
世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください
●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?
昭和天皇の姿 浮き彫りに
「昭和天皇実録」公表 太平洋戦争終結への思いなど克明に
「人民を破局より救い、世界人類の幸福のために、ポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる」と記している。終戦を、自らの声で伝えた昭和天皇。
日本は自国の歴史を書く事が出来るか
「昭和天皇実録」が公開された。全61巻1万2千ページに及ぶ昭和天皇の記録である。実録を見た専門家の話によると、これまでの歴史観を覆すような新事実はないが、終戦直前まで戦勝を祈願していた事が明らかにされる一方、戦後に天皇が側近に戦争について語った「拝聴録」が行方不明とされ、詳しい内容が盛り込まれていないなどの問題があるようだ。
宮内庁は侍従日記などを「私的文書」として扱い、公開に消極的な姿勢を見せているが、実録を作成する基になった資料をできる限り公開しなければ、日本人は自分の頭で自らの国の姿を理解する事が出来なくなると思う。
●高校教科書から学ぶ
高校教科書(実教出版)に学ぶ
歴史のまど・・・1937年12月、日本軍は、国民政府の首都南京を占領した。その前後数週間の間に、日本軍は、南京市内外で捕虜・投降兵をはじめ婦女子を含む中国人推計約20万人を殺害し、略奪・放火や婦女への暴行をおこなった。当時の中島師団長は、12月13日の日記に、捕虜にはしない方針であり、佐々木部隊だけで約1万5千人を「処理」したと記している。
南京での大虐殺事件は、日本国内には知らされず、東京・名古屋・大阪などでは「南京陥落」を祝って提灯(ちょうちん)行列がおこなわれていた。しかし欧米では『ニューヨークタイムズ』などによって「捕虜全員殺される」と報道され、国際的非難が沸き上がった。(※南京大虐殺)
※現在、中国南京市郊外の虐殺現場には侵華日軍南京大遇難同胞記念館(1985年8月15日開館)がある。中国側は、市民や武器を捨てた兵士など30万人以上の人々が日本軍によって虐殺されたと発表している。なお、日本国内では虐殺数について「10数万人」など他の説もある。
・・中国軍民の抵抗に直面した日本軍は、1940~43年にかけて、華北の抗日根拠地への攻撃をおこなった。この作戦は「焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす」という意味で「三光作戦」と非難された。また、ハルビンの731部隊などでは、細菌戦・毒ガス戦の研究で、3000人ともいわれる中国人ロシア人を実験材料(マルタと呼んだ)にし、しばしば中国各地で細菌・毒ガスを使った作戦を実行した。さらにアヘンを生産して中国占領地で販売したりした。
実教出版の教科書、都教委「不適切」 日本史の記述で
「不適切」とするのは「高校日本史A」と「高校日本史B」。国旗掲揚や国歌斉唱に関して「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という記述について、都教委は「国旗掲揚と国歌の起立斉唱は教員の責務であるとする都教委の考え方と異なる」としている。
(東京書籍)
戦争裁判・・・(東京)裁判を通して、戦争中の日本軍による侵略行為、残虐行為の実態が、はじめて国民の前に明らかになった。他方でこの裁判には多くの問題点もあった。昭和天皇の責任をこの裁判で問うかどうかは、国際的に議論されたが、天皇制維持による占領政策の円滑な遂行を進めようとしていたアメリカの意向もあって、結局不問にふされ、また731部隊の関係者はアメリカへの資料提供とひきかえに訴追をまぬかれた。連合国側のアメリカによる無差別爆撃や原爆投下、ソ連軍の行為などは問題にされることもなかった。
極東国際軍事裁判とは別に、通例の戦争犯罪の容疑で、BC級戦争犯罪裁判が1945年10月から1951年4月まで、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フィリピン、フランス、オランダ、中国の各国の法令によって実施され、死刑984人、無期刑475人、有期刑2944人の判決が下った。この裁判では、残虐行為を命令した上官ではなく実行した部下のみが責任を問われたり、誤認で刑が下ったこともあったといわれている。有罪となった者の中には、朝鮮人約150人、台湾人約180人が含まれていた。
なぜ、日本政府は731部隊のおこなった生体実験・細菌戦を認めて謝罪しない!?
高校日本史Aの教科書、実教出版を希望が最多 来年度 静岡
高校教科書から学ぶ(?)
731部隊・・・日本陸軍は、細菌戦準備のため1932(昭和7)年に関東軍防疫班を設立し、38年から39年にかけて、中国ハルビン郊外にその本部と実験施設を移転した。ノモンハン事件ではじめて細菌戦を実施した軍は、防疫班の規模を拡張して40年から関東軍防疫給水部と改称した。この細菌戦部隊は731部隊と呼ばれ、ペスト・腸チフス・コレラなどの病原菌を兵器にして、42年からは中国戦線で細菌戦を実施した。また、中国人などを「マルタ」とよんで人体実験をおこない、敗戦時までに3000人あまりを死亡させた。
敗戦後、アメリカは731部隊が開発した技術を入手するためにこの部隊の幹部を免責したため、彼らが公的な責任を問われることはなかった。
安倍のお爺さん、岸信介と731の関係は?情報公開せよ!!
日本人が忘れても、マルタの怨霊は日本の罪業を訴え続けている!!
安倍の行けない中国・韓国では731部隊の研究が盛んになってきている!!
「秘密保護法」の施行を急ぐ安倍政権の閣僚に世界からメッセージが届いています!!
とくとご覧下さい!!
侵華日軍第731部隊罪障陳列館(ハルピン)
中国が教える731部隊
生きた人を人体実験、日帝731部隊の恐ろしい蛮行
鉄証:731部隊の罪業
日本人の証言もありますよ!!
語り部フォーラム
韓国人「中国が731部隊の残虐行為証拠資料を公開、幼い子供にも人体実験していた日本」
731部队的真相(英文)2/5 731部隊の真実 the truth of Harbin Unit 731(English Narration)
731部隊のことは、アメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター・・・1946年に創設され、アメリカ国内・国外を問わず、人々の健康と、安全の保護を主導する立場にある連邦機関。)のビデオでも紹介され、世界では公然の事実とされている。
インターネットエクスプローラーのグーグルで(グーグルクロームでは映りません。)
http://www.bt.cdc.gov/agent/plague/trainingmodule/1/02wmp.htmをご覧下さい!!
疾病管理予防センター(CDC): 谷川透訳
医学博士、科学博士 ジョアンヌ・コノー
人は中世以来、敵を殺し、敵の能力を奪うため、自然界に存在する生命体を用いてきた。
初期の例の一つは、14世紀にタタール軍が黒海沿岸の城郭都市カファを包囲攻撃したときに起きた。
腺ペストが発生してタタール人に猛威を振るい始めたとき、彼らはペストに罹って死んだ者の死体を投石器で市内に投げ込み、城壁の内部で腺ペストを勃発させることを決めた。
その後まもなく、城市の中で虐殺から身を守っていた人々は、突然ペストに襲われ、イタリアへ逃がれた。
彼らはこの伝染病を、彼ら自身でヨーロッパに運び、それが恐ろしい黒死病の大流行の始まりとなって、ヨーロッパの人口を激減させたのであった。
ペストの流行に関する今日のわれわれの知識によれば、ノミは人体が冷えるとすぐ人体を離れるので、人体を離れたノミによって元々市内に住んでいたネズミが感染し、市内で突然発生したペストが現実にカファ全域に広がった可能性は非常に高い。
日本帝国731部隊は、日本が戦争に動員され準備が整った1930年代と40年代に仕事をした。
この恐ろしい計画の立案者である石井四郎中将は、病気を殺人兵器に変える任務を帯びていた。
石井は特にペストに魅了されていたが、それはペストによる細菌戦攻撃が自然発生的な伝染病の様相を呈するからであった。
さらに、人から人への感染拡大は、最初に用いる(細菌戦)発動物の量に応じて、病気を発生させることが出来るからであった。
731部隊は、ペスト菌を霧状に散布したり、水に溶かして散布したりすることが出来なかった。そこで彼らは、ペストを感染拡大させるために、天然の病毒媒介昆虫――通常のノミ――を用いた。
感染ノミを搭載した陶器爆弾が中国本土の幾つかの都市に投下され、その住民に多数の感染を引き起こした。
ペストは恐怖心を生み、容易に感染拡大し、人々を迅速に殺すので、兵器として魅力的である。
合衆国の攻撃計画でもペストに関して若干の調査研究を行なったが、同国では完全に武器化することは出来なかった。
ペスト菌を大量に増殖させた時、人はその毒性を持った細菌を保有しつづける魅力に打ち勝つことが出来ない。
ペスト菌は武器であって、伝染力を持っている。われわれは過去を振り返って、そのことを強く感じる。さらに、ペスト菌をエアロゾルにして持ち歩かないよう管理することも問題だし、気象条件によってペスト菌が変異しうることも問題だし、細菌の形をとらなくても非常に感染性が強いことも問題だし、最後にペスト菌がどういう形をとってお終いになるのか、誰もコントロールすることが出来ない。
ペスト菌はきっと、帰ってきて、あなた方に噛みつくことでしょう。
あなた方の軍隊だけでなく、あなた方の友軍や同盟軍にも噛みつくことでしょう。
しかしながら、ソビエトの兵器工場では、ペスト菌はその伝染性ゆえにお気に入りの生命体である。
ソビエト軍は、米軍の経験した毒性の問題を克服した。
ソビエトの亡命者アリベック博士とのインタビューによれば、彼らは1,500トンのペスト菌をいつ如何なる時でも手にしており、それを大陸間弾道弾に搭載する準備が出来ているとのことである。
保管の問題のため、彼らは頻繁にペスト菌の備蓄を廃棄して、新しいものに替えるという。
われわれはテロリストによるペスト菌の使用に非常に関心がある。というのは、ペスト菌が自然界に見いだされるだけでなく、世界中の数多くの生物学資料供給所で入手できるからである。
「生物兵器による戦争とテロリズム;軍事上および公衆衛生上の対応」(アメリカ食品医薬品局発行、1999年)から脚色
榊原秀夫(731部隊林口支部長)
榊原秀夫の供述書公開 731部隊の細菌戦に協力(一)
榊原が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
「林口支部の任務に従って私は在職間、細菌戦準備の為に第一課長細矢少佐に命じ細菌保存培養を実施せしめました」。当時の生産量は、「中蘇国境の東部地面に撒毒し、極めて大量に蘇同盟軍隊のみならず中蘇両国の平和人民をも毀滅せしめるに充分な量」だった。
「細菌戦準備の為の捕鼠」では、「私は部隊全員を動員して捕鼠に従事致しました」。「間所少尉を長とし約二五名の捕鼠班を常時設置」し、「捕鼠により第七三一部隊に送附致しました鼠の総数は一九四五年四月に一〇〇〇匹、五月一〇〇〇〇匹、六月八〇〇〇匹、七月七〇〇〇匹総計二六〇〇〇匹」にのぼった。
1945年3月上旬,「私は第七三一部隊の命により」「支部の保存培養中のチフス菌、A型パラチフス菌の試験管二本を第七三一部隊第一部毒力検定班」に提出した。「両菌種共に第七三一部隊第一部保存菌中の標準毒力」に適合しており、「細菌戦の準備の為の保存培養に適」していた。「井戸水には効力の確実を期するために大体一・二本の試験管でし得ると計画したものであります」。「私は此の効力実験によりて四名の中国愛国者を殺害したものであります」
1945年4月には、黒竜江省安達県で、「私は安達に於ける殺人実験に参加致しました」。「中国愛国者の方四名」が「安達演習場に二五米―三〇米の間隔に地に打ち込んだ丸太の棒に縛りつけられました」。「軽爆撃機が演習場の上空に飛来し約一五〇米の高度より素焼製爆弾(陶器の一種)を投下し五〇米上空で炸裂しました」。「私は完全予防衣をつけ五・六〇〇米位の距離から此の惨行を見たものであります。此の爆弾は恐るべき炭疽菌を充填した爆弾で鼻咽腔より吸入せしめ当時絶対に生きることの見込のない肺炭疽に、或は破片により皮膚炭疽を起させる全く酷悪の罪行であり、私も此に参加したものであります」
1945年8月、「蘇聯軍開戦をラヂオに依り知り、直ちに自動車の出動準備を命じ、同時に一切の馬を除いた動物、即ち捕鼠した鼠、白鼠、モルモット、兎、蚤、及保存培養せる細菌を第七三一部隊に送附せしめました」。「部隊建物に藁を積み石油を準備し建物の焼却準備を実施し、更に部隊専用の水源地の給水ポンプの破壊を命じ破壊せしめました」。「細菌戦準備の為の一切の証拠物件を煙滅破壊したものであります」。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月11日)
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
731部隊!!
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
731部隊展(群馬)
7月25日、26日、27日の展示会に430人が見に来ました。
地方紙にも小さく記事が載りました。
(感想)
80代
731部隊にびっくり。
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅴ私は中国軍の捕虜だった
―総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
あの兵器は、陛下がお許しにならぬ
昭和20年5月のことである。我々が入手したソ連共産党中央機関紙「プラウダ」に、写真入りで、戦争犯罪人に関する規定が掲載されていた。この月の8日に降伏したばかりのドイツを例にとって、こまごまとした戦犯の対象となるケースが発表されていた。
我々は急いでこれを翻訳し、将校集会所で、石井部長をはじめ幹部将校を前にして、ソ連の主張している戦争犯罪について説明したのであった。これでいくと731部隊の場合、戦犯規定に引っかかることは必至である。誰しもが、日本の敗色濃厚なことを知っていたにもかかわらず、会場は、平静であった。内心の不安を表に出さず、同僚や部隊長の手前、強いて強がりを見せる、空威張りの感があった。
6月になると、私は、直属の上官、石光総務課長から奇妙な命令を受けた。命令にはこうあった―「命令、H中尉ハ官姓名ヲ秘匿シ関東軍司令部第4課ノ嘱託トナリ原参謀ノ指揮下ニ入ルベシ」
関東軍司令部第4課とは、後方業務すなわち満州国への支援を任務とし、同時に同国に睨みをきかせているところである。満州国は、関東軍の後ろ盾なしには存立しえない国であった。
続きは「ノブのノート」で
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