細菌戦の系譜!!

2022-01-30 10:47:52 | Weblog

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

香港難民の大量虐殺

ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・

 

丸山茂

8604部隊

 

(経歴)

1917年生まれ

1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集

1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属

1943年3月 除隊。帰国

1945年 再召集

1945年8月 朝鮮で除隊

1945年10月 帰国

■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。

 

解説ー波8604部隊について  越田稜
 沙東迅氏が記した『日本軍の広東に於ける細菌戦調査報告』(1994年10月第2稿)の「3、広東侵略日本軍細菌戦部隊の広州難民収容所における香港・広東難民の大領殺害」は、当時(42年)難民収容所にいた数名の人々からの貴重な証言を載せている。その一部を紹介しておこう(難民収容所で数年間過ごした馮慶章<当時は馮奇といった>の“証言”)。
 
1942年の春と夏は、香港が陥落した後、香港の難民が大勢、船で次々と収容所に運ばれてきました。3000人から4000人ぐらいいました。・・・・・地元の難民とは別々にされました。・・・・日本人は難民に強制的に予防注射を打ちましたが、打たれた後、高い熱を出し、痙攣をおこし、・・・・何日も起きられませんでした。この時はもう、死体を溶かす池が2つできていて、死んだ人やもうすぐ死にそうな人はみんなこの池に放り込まれました。池は深さ4mぐらいで、正方形でした。・・・(略)(馮慶章の第1信より)
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

5  内蒙古

安達千代吉自筆供述書(1955年)

 血生臭く、恐ろしい雰囲気があたりに漂った・・・・。また2人目を穴の前へ座らせた。私は大隊長の失敗を眼のあたりにした後だったので、いささかためらいがあった。しかし思った。「以前、人を斬るにも体面を保て、といったことがある。それに成功すれば、隊長の自分を見る眼も変わるに違いない。兵士は勿論将校の前でも鼻が高いだろう」。私はすぐさま刀を抜き、姿勢を定め精神を集中すると、「えい」の一声と共に刀を振り下ろした。「ガチャ」という恐ろしい音と共に首が3分の2切れて、頭が胸の前にがっくりと垂れた。あっという間に鮮血が1尺の高さに噴き出し、熱い血の臭いが鼻を突き、男は「バタン」と穴の中に落ちた。瞬く間に、穴の中は鮮血で赤く染まっていった。こうした情況を見て私は「何はともあれ准尉の面子は保てたようだ」とほっとしたのだった。こうして残りの3人も、将校と下士官に殺された。

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか

4 日中戦争をめぐる陸軍中央の動向と毒ガス戦

日中戦争の戦略的持久戦から「好機南進」へ傾く中での毒ガス戦

 

 
 この頃ヨーロッパ情勢は急変し、ドイツ軍は40年4月北欧へ侵攻、5月には西方攻撃を開始してベルギー・オランダ・ルクセンブルグ・フランスに侵攻した。陸軍中央は、泥沼化した日中戦争を早く解決して国力を回復し、世界情勢の変化に対応できる態勢を整える必要があると判断し、5月18日に参謀本部と陸軍省は、40年末に至っても中国国民政府が屈服しない場合は、軍は自主的に戦線の縮小を決意し、41年秋までにはこの態勢を概成するが、この場合でも、治安地域の他に漢口、広東地区は保持すると決定した(陸軍省・参謀本部「昭和15、6年を目標とする対支処理方策」前掲『現代史資料』第9巻<日中戦争2>)。ようやく中国戦線からの戦線縮小・部分的自主撤退案が採用されるに至ったのである。
 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第9章 戦犯の証言

 

「中国帰還者連絡会」

 

 

私たちは多くの事実から、日本侵略者が中国の戦地で、また一般民衆に対して化学兵器を使い、毒ガスによってほしいままに殺戮を行ってきた事例を挙げたが、ここで、より直接的により有力な証拠となるものを展示したい。それは当時、日本軍の一員として自ら毒ガスを扱い、中国人を手にかけた戦犯の証言である。

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 


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