細菌戦の系譜!!

2022-01-11 11:50:58 | Weblog

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

香港難民の大量虐殺

ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・

 

丸山茂

8604部隊

 

(経歴)

1917年生まれ

1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集

1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属

1943年3月 除隊。帰国

1945年 再召集

1945年8月 朝鮮で除隊

1945年10月 帰国

■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。

 

難民を細菌で虐殺
 Mは、私に口止めしておいて、次の様なことを話しました。軍は広東市に来る難民を市内の治安を保つために、灘石頭に留めておきましたが、香港からの難民が多く、収容所にも限度が見えてきたので、南スホに命じ細菌による殺害を行わせたのです、Mは不幸にしてこの当面の責を負わされる羽目になったわけです。
 Mは部隊長・佐藤軍医大尉から直接口頭で命令を受け、絶対に外部にこのことを洩らさずに、細心の注意を払って任務を遂行することを誓わされたそうです。

 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

4 山西

 

遠山哲夫自筆供述書(1955年)

1944年10月末、山西省臨汾県城内日本軍臨汾陸軍病院(乙第1838部隊、院長岡本軍医大佐、庶務科長広田軍医大尉)では、庭のニセアカシアの木も黄色くなり始めていた。午前0時を少し回った頃だった。1時間前、私は理療科から勤めを終えて兵営に戻り、床について眠ろうとしたとき、突然兵営の入口で病室の当直が私の名を呼んだ。

「おい、遠山、任務だ」当時、私は放射線科と理療科で働く上等兵だった。

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか

 

3 毒ガス兵器から見た日本軍の諸相

日本軍と毒ガス兵器⑤ 中国戦線の日本軍の実態

泥沼化した日中戦争で陸軍は「水膨れ状態」となり、前線の指揮官である大隊長・中隊長クラスの不足は深刻で必要定員を充足できず、兵も従来では現役になれなかった体格・適性の者まで否応なく現役兵にされるなどの事態も起き、「日本陸軍は、日中戦争中に既に理想とする『少数精鋭』『寡をもって衆をうつ』という状態を維持できなくなっていたと言える」(山田朗『軍備拡張の近代史』)。

 

 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第8章 無辜の被害者

河北井シン(チンシン)県老虎洞 毒ガス殺人事件

 

九死に一生を得た生存者、范羊羔の回想

范羊羔の父方のいとこ、范庚羊は当時、村の武装委員会の主任だった。山で人々の避難を指揮していた、老虎洞にはいなかった。彼は日本軍が洞に毒ガス弾を投げ込んだことを知った時、人々を救うために駆け付けたが、既に敵は現場を離れてしまった後で、時は既に遅かった。以下は彼の回想である。

「・・・私が洞口に駆け付けると、外に這い出た者は全員死んでいた。・・・

 

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 


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