国家犯罪!731から福島まで!!

2014-09-25 10:49:47 | Weblog

●日本とドイツの違い!!
ドイツは、過去と真剣に向き合い、ヨーロッパの国々から信頼されている!!
日本は、過去と向き合うのをずっと避け、汚い出来事は隠し続け、特に中国韓国から全く相手にされていない!!

日本の医学界の未来は暗い!!山中教授がいくらiPS細胞で業績をあげようと、京大が過去の謝罪をしなければ、いつまでも、731の暗い影はつきまとう!!

文科省は道徳の強化を進めているが、自民党のいう道徳では、過去の日本軍の罪業をどの様に扱うのか?
道徳とは関係ない?過去は無視しろとでもいうのか?

なぜ、731部隊の事実がこれほど明らかになっているのに、日本政府、天皇・皇族、日本医学界、京大・東大のが学者の誰一人、謝罪しない?
2013シンポ731吉中講演 


731シンポジウム奈須講演 


知ってるつもり「731部隊と医学者たち」より、「ある医学者の生涯2」 





●731部隊
防疫研究室・731部隊及びアジア各地にあった細菌戦研究所は、現人神・大元帥であった昭和天皇の承認のもと、莫大な国家予算を使い、生体解剖・生体実験等をして、細菌兵器の開発や、毒ガスの研究、凍傷の研究などが行われた。
731部隊には、日本の各大学から優秀な若い教授候補の医学者が集められ、研究が進められた。その人集めに一役買って出たのが石井四郎の恩師、清野謙次だった。
731部隊にも、清野謙次(京大教授)が度々訪れ、いろいろとアドバイスをしていた!!
京都大学は、731部隊の中核を担い、清野をはじめ、その他の教授たちも多くの弟子たちを口説いて731に送り込んでいた!!
京都大学が731部隊の資料を隠すのには訳がある!!
きちんと京大は731部隊のことを展示してほしい!!
「731部隊」展示撤去 京大医学部資料館


随筆・遺稿(故清野謙次先生記念論文集より)

石井・・・今紹介を受けました石井であります。親孝行したい時には親はなし、先生にまだ御恩を報ずることもできないで誠に残念であります。大学院学生時代に眠り病が起こりまして、各大学が行っているのに京都大学だけが居眠ってると京都大学が眠り大学になるから、一つ京都大学は奮発して、この眠り病の本態を突き止めて頂きたい、とこう申し上げました。先生膝を打って賛成して下されて、あの大編成ができて、丸亀に本拠を置き、香川県の二豊郡に本拠を置いて一切の資料、お墓の屍体まで集めて、渡辺遍さんと共に、この、朝から晩までシャンペランを濾(こ)しまして
、遂に動物実験に成功して、東京に於ける学会に発表して、あらゆる反駁をそこに受けたんでありますが、とうとうまあウィルスであるということが承認されまして、日新医学の原稿(?)になったのはご存知の通りであります。
それからお前洋行して来い、ということを言われ陸軍から外国へ行きました。その時の深い感銘は、学問は日本で出来る、しかしながら世界の大人に会って、この、その偉大な人間が如何なる条件でこういう偉大な事業を成したかというその着眼と、方法とを、ガッチリ握ってきて、日本でやれば必ず出来るという話でした。それから英・米・仏・露、ロシアまで入りまして永くこの観点で見たのでありますが、どうも日本にとっても、一つも手をつけない大きなデフェクトがあるという事がわかりました。即ち日本に於いては非常に日本が偉いと、日清、日露、日独、済南、シベリア、こういう事変を通じてぐんぐん興隆の一途を進んで、日本の中にいる我々は、日本中が一等国であることを自負してましたが、この観点から世界の内面に入って考えると丸で逆であったのであります。それでもう一年も延ばして、これを少し徹底的につかみたいと思いましたが、ひとまず日本へ帰ってきて、内閣の諸侯と軍の首脳に報告しようと思いまして、先生を訪ねました。そりゃいいことをつかんだと、つかめないとこをつかむのがいいんだと。しかしながら、連戦連勝の日本、万世一系の天皇を上に頂いて隆々たる日本の何人もこれを耳にする人はございませんでした。誰も相手にしません。しかし既に、第一、民族の潰されたのが御存知の通りアメリカインディアンであります。第二の潰された、ほとんど潰された民族はモンゴリアンであります。第三番目にジャップであります。先生はこの着想を非常に喜ばれました。これは一つの大きなつかみ所だから、これをものにして将来を計画するのが一番いいということであります。
それでも非常に有頂天になっている日本として一番難しいことでありました。
そこで、自分で中々取り付く島もありませんから、陸軍軍医学校の教官に補せられたのを幸いにして、先生と相談し、又長与先生にも相談し、それから荒木にも相談しましたが皆、この着眼は、出た杭は必ずたたかれることがあるんだから、或いは然らんという考えでございました。
それで、陸軍、内地で全大学にお願いして出来る事と、内地で出来ない事の2種に、軍の再々の会議の結果決定致しまして、そして、内地で出来ないものは何とか別に方法を考えると、その為には、まあ気温の変化、環境が違うから、まあ北極、南極、赤道と3つの大きな、地球儀の大きなものを作って環境の変化を作ってもらう約束をしましたが、日本の力では、当時昭和5年でありましたが、内地に作る技術も無ければ、資力も無いということで、一つは赤道の直下へ行くがいいし、一つは満洲の北端に行けばいいということで、遂に研究所をそこに設けることにしたのであります。それから次々と発展致しまして、まず、戦地が4千キロに発展しまして、北は北満より、南はアンダマン、ジャワ、スマトラまでゆきまして、1年中同時に戦争があるものでありますから、これに対応策として、まず将兵の身体を保護して死亡率罹患率をなくするという国家百年の計をたてることに廟議一定しました。それで如何にして日本の国力を維持するかが問題であります。そこでまず陸軍軍医学校に研究室を作り、それから満洲ハルピンに(ロックフェラー・インスティチュートを中心に)。又南支に中山大学を中心に、その他、逐次研究室を作って行って、遂に324の研究所を作ったのであります。この結果、伝染病並びに伝染病死の率が下がり、大蔵省は非常に喜んで、これではまだ継続できるという結論になったのであります。その為に、ハルピンに大きな、まあ丸ビル14倍半ある研究所を作って頂きまして、それで中に電車もあり、飛行機も、一切のオール総合大学の研究所が出来まして、ここで真剣に研究したのであります。その時に先生が一番力を入れてくれたのが人的要素であります。各大学から一番優秀なプロフェッサー候補者を集めていただいたのがここにたくさん御列席になる石川教授、それから東北大学の岡本教授その他10数名の教授連でございます。そうして先生が、鶴見先生と一緒でございましたと思いますが、研究室をご覧になりまして、これはどうしても国家的なものにして育てねばならんというので、非常に力を入れて頂いたのであります。
その都度簡潔に御報告しますと、今度は、次は、とどこまでも先生が拍車をかけられまして、段々に、最後に大東亜の全面にわたって、この民族線防御の第1次完成をみたのであります。
ところがここで不意に中立条約を破ってソ連が出て来た為に、この敗戦の憂き目を蒙りまして、部隊は爆発し、一切の今までの何十巻にのぼるアルバイトも、感染病理に関する心魂込めて作った資料も全部焼かざるを得ない、悲運に到着したのであります。しかしながら頭に残った経験、残ったこの研究は今病理学会で、岡本教授、石川教授、ちらほらと出ます、又細菌については各教授になられた方が細菌学会でその片鱗を発表しておられますので非常に心強く思っております。
清野先生の構想はどこを叩いてもそれに応ずる反応があったんでありまして、今はよくこれをまとめて国家に奉納して、そして最後の日本の防御、破壊の防御、生々発展、再建にするようにと、わざわざ茨城県から出ていらっしゃいまして、私のうちにお泊りになって、このことを始終案じておられたことであります。(昭和31年9月3日 録音)


●南京大虐殺!!
名古屋から世界へ向けてのメッセージ!!




戦前・戦中、国家神道は日本の精神的支柱となり、国民は教育で洗脳され続けた!!
そこでは、天皇は絶対的な存在だった!!神であった!!
戦後、一旦は「国家神道」は占領軍によって廃止されたが、天皇制が存続したため、その「国家神道」の思想は今でも多くの国民に影響を及ぼしている!!
それも国歌・国旗が正式に制定されてからは、一段と強くなった!!「思想・信条の自由」は侵害されている!!
式年遷宮、年始の参拝等には、多くの政治家、国民が伊勢神宮を参拝し、天皇を崇拝している人が多い。
今のほとんどの政治家、企業家、学者等多くは今も「天皇は神である!!」ことを固く信じ込んでいる!!
神は悪いことをしない!!いやしてはいけないのだ!!天皇制の存続も危ぶまれる!!
だから、天皇・軍部の犯した罪を、歴史の真実を「秘密保護法」を作って隠す!!
「南京大虐殺はなかった!!」「731部隊は存在したけれども、生体実験、細菌戦等は資料が無いのでわかりません!!」等々、しらばっくれている!!(ノブ)


新野和暢氏講演!!
あの傑僧、沢木興道もこんなことを書いていたのか!!
「杉本五郎中佐はこの煩悩という2字を朝敵と訳したが痛快である。時局がらこういう工夫も悪くない」と書いた。
〔確か、沢木興道は日露戦争へ従軍して、金鵄勲章をもらっている。〕(ノブ)
「禅と戦争責任」 
澤木興道 






(参考)
『生きている兵隊』(石川達三著=中公文庫61ページ)より
いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮の事を思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持ちでさえもあった。従軍層はどこの部隊にもついているが、彼ほど勇敢に敵を殺す僧はどの部隊にも居なかった。
「片山さんも帰ったら一つ金鵄勲章をもらわんといかんな」と通訳が笑うほど彼の戦闘は勇敢であった。しかも彼は拳銃も剣も持たない、武器はいつも有りあわせのものであった。北支の戦場で彼が殺した人数は20人を下らなかった。
北支に居たころ、西沢部隊長から問われたことがあった。
「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」
「はあ、そりゃあ、殺(や)ります」と彼は兵のように姿勢を正して答えた。
「ふむ。敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
「いや、やっている従軍僧もあるようですが自分はやりません」
「生きているのは殺さなきゃなるまいが、戦死した兵は弔ってやってもいいだろうじゃないか」
「はあ、しかし、自分にはどうもそういう気持ちになれませんな。やっぱり戦友の仇だと思うと憎いですな」
・・・・・・・・
従軍僧自身にあっては、自分の寺で平和に勤行をやっているときにはこの宗教が国境を超越したものであることを信じていた。印度において支那において日本において、同じ宗教が同じように信仰されて来たことはそれを証明すると思っていた。簡単な信じ方であった。また従軍を志願して寺を出るときには支那軍の戦死者を弔ってやるつもりはあった。しかし戦場へ来て見るとそういう気にはなれなかった。
戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、同じ程度のことしか考えない、同じ要求しか持たないものにしてしまう不思議に強力な作用をもっているもののようであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリジェンスを失ったように、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののようであった。ただ彼に残っている宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知って居るというだけである。彼は僧衣を脱いで兵の服を着ると同時に、僧の心を失って兵の心に同化していたのであった。
しかしそれは必ずしも片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれが出来なくなったのは、宗教が無力になったというよりも、国境が越え難く高いものになって来たのであった。

※石川がこの本を昭和13年に出すと、すぐに内務省は発売禁止を通告してきた。その後「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊すもの」との理由で、「新聞紙法違反」と罪に問われて起訴されてしまう。判決は2回の公判で早くも下され「禁錮4年、執行猶予3年」の刑であった。







●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?


昭和天皇の姿 浮き彫りに

社説[昭和天皇実録]戦後史の理不尽を正せ
沖縄に関係する記述の中で注目されるのは「天皇メッセージ」について触れている点だ。
1947年9月19日、昭和天皇と面会した宮内庁の寺崎英成御用掛は、その日に連合国軍総司令部(GHQ)のシーボルト外交局長を訪ね、米国による沖縄占領について天皇の意向を伝えた。シーボルトは翌20日、その内容を文書でマッカーサー最高司令官に報告した。これが「天皇メッセージ」と呼ばれているものである。・・・・
実録で昭和天皇の生の言葉が紹介されているわけではなく、新事実が盛り込まれているわけでもないが、シーボルトの報告書が存在することを正式に認め、その内容を引用したということは、大きな意味を持つ。

昭和天皇実録 資料公開に注目
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「天皇に関する資料は公益性が高く、内部資料であっても公開し、記述の検証や今後の研究に使えるようにすべきだ。日記など個人の資料も所有者の理解を得たうえで、なるべく早く公開してもらいたい」と話しています。

日本は自国の歴史を書く事が出来るか
「昭和天皇実録」が公開された。全61巻1万2千ページに及ぶ昭和天皇の記録である。実録を見た専門家の話によると、これまでの歴史観を覆すような新事実はないが、終戦直前まで戦勝を祈願していた事が明らかにされる一方、戦後に天皇が側近に戦争について語った「拝聴録」が行方不明とされ、詳しい内容が盛り込まれていないなどの問題があるようだ。
宮内庁は侍従日記などを「私的文書」として扱い、公開に消極的な姿勢を見せているが、実録を作成する基になった資料をできる限り公開しなければ、日本人は自分の頭で自らの国の姿を理解する事が出来なくなると思う。


誠実かつ率直に過去と向かい合うこと・・。 あなたはそれ相応の努力をしてますか?
万世一系とは嘘ではないか?明治・大正といろいろとまずいことがあった?


こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)


昭和天皇の出生の疑惑

昭和天皇ヒロヒトの父親は西園寺 八郎、朱貞明皇后咬合との子堕った、昭和の醜卑喰ら卑闇

山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」に狂奔していた?731の取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?

『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。・・・・・
1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・


アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?




●高校教科書から学ぶ
・・中国軍民の抵抗に直面した日本軍は、1940~43年にかけて、華北の抗日根拠地への攻撃をおこなった。この作戦は「焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす」という意味で「三光作戦」と非難された。また、ハルビンの731部隊などでは、細菌戦・毒ガス戦の研究で、3000人ともいわれる中国ロシア人を実験材料(マルタと呼んだ)にし、しばしば中国各地で細菌・毒ガスを使った作戦を実行した。さらにアヘンを生産して中国占領地で販売したりした。


実教出版の教科書、都教委「不適切」 日本史の記述で
「不適切」とするのは「高校日本史A」と「高校日本史B」。国旗掲揚や国歌斉唱に関して「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という記述について、都教委は「国旗掲揚と国歌の起立斉唱は教員の責務であるとする都教委の考え方と異なる」としている。

東京書籍)
戦争裁判・・・(東京)裁判を通して、戦争中の日本軍による侵略行為、残虐行為の実態が、はじめて国民の前に明らかになった。他方でこの裁判には多くの問題点もあった。昭和天皇の責任をこの裁判で問うかどうかは、国際的に議論されたが、天皇制維持による占領政策の円滑な遂行を進めようとしていたアメリカの意向もあって、結局不問にふされ、また731部隊の関係者はアメリカへの資料提供とひきかえに訴追をまぬかれた。連合国側のアメリカによる無差別爆撃や原爆投下、ソ連軍の行為などは問題にされることもなかった。
極東国際軍事裁判とは別に、通例の戦争犯罪の容疑で、BC級戦争犯罪裁判が1945年10月から1951年4月まで、アメリカイギリスオーストラリア、フィリピン、フランスオランダ中国の各国の法令によって実施され、死刑984人、無期刑475人、有期刑2944人の判決が下った。この裁判では、残虐行為を命令した上官ではなく実行した部下のみが責任を問われたり、誤認で刑が下ったこともあったといわれている。有罪となった者の中には、朝鮮人約150人、台湾人約180人が含まれていた。


なぜ、日本政府は731部隊のおこなった生体実験・細菌戦を認めて謝罪しない!?
高校日本史Aの教科書、実教出版を希望が最多 来年度 静岡
高校教科書から学ぶ(?)
731部隊・・・日本陸軍は、細菌戦準備のため1932(昭和7)年に関東軍防疫班を設立し、38年から39年にかけて、中国ハルビン郊外にその本部と実験施設を移転した。ノモンハン事件ではじめて細菌戦を実施した軍は、防疫班の規模を拡張して40年から関東軍防疫給水部と改称した。この細菌戦部隊は731部隊と呼ばれ、ペスト・腸チフス・コレラなどの病原菌を兵器にして、42年からは中国戦線で細菌戦を実施した。また、中国人などを「マルタ」とよんで人体実験をおこない、敗戦時までに3000人あまりを死亡させた。
敗戦後、アメリカは731部隊が開発した技術を入手するためにこの部隊の幹部を免責したため、彼らが公的な責任を問われることはなかった。






安倍のお爺さん、岸信介と731の関係は?情報公開せよ!!
日本人が忘れても、マルタの怨霊は日本の罪業を訴え続けている!!

安倍の行けない中国韓国では731部隊の研究が盛んになってきている!!
「秘密保護法」の施行を急ぐ安倍政権の閣僚に世界からメッセージが届いています!!
とくとご覧下さい!!

侵華日軍第731部隊罪障陳列館(ハルピン)

中国が教える731部隊


生きた人を人体実験、日帝731部隊の恐ろしい蛮行


鉄証:731部隊の罪業

日本人の証言もありますよ!!
語り部フォーラム 




731部隊のことは、アメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター・・・1946年に創設され、アメリカ国内・国外を問わず、人々の健康と、安全の保護を主導する立場にある連邦機関。)のビデオでも紹介され、世界では公然の事実とされている。
インターネットエクスプローラーグーグルで(グーグルクロームでは映りません。)
http://www.bt.cdc.gov/agent/plague/trainingmodule/1/02wmp.htmをご覧下さい!!

疾病管理予防センター(CDC): 谷川透訳

医学博士、科学博士 ジョアンヌ・コノー

人は中世以来、敵を殺し、敵の能力を奪うため、自然界に存在する生命体を用いてきた。
初期の例の一つは、14世紀にタタール軍が黒海沿岸の城郭都市カファを包囲攻撃したときに起きた。
腺ペストが発生してタタール人に猛威を振るい始めたとき、彼らはペストに罹って死んだ者の死体を投石器で市内に投げ込み、城壁の内部で腺ペストを勃発させることを決めた。
その後まもなく、城市の中で虐殺から身を守っていた人々は、突然ペストに襲われ、イタリアへ逃がれた。
彼らはこの伝染病を、彼ら自身でヨーロッパに運び、それが恐ろしい黒死病の大流行の始まりとなって、ヨーロッパの人口を激減させたのであった。
ペストの流行に関する今日のわれわれの知識によれば、ノミは人体が冷えるとすぐ人体を離れるので、人体を離れたノミによって元々市内に住んでいたネズミが感染し、市内で突然発生したペストが現実にカファ全域に広がった可能性は非常に高い。

日本帝国731部隊は、日本が戦争に動員され準備が整った1930年代と40年代に仕事をした。
この恐ろしい計画の立案者である石井四郎中将は、病気を殺人兵器に変える任務を帯びていた。
石井は特にペストに魅了されていたが、それはペストによる細菌戦攻撃が自然発生的な伝染病の様相を呈するからであった。
さらに、人から人への感染拡大は、最初に用いる(細菌戦)発動物の量に応じて、病気を発生させることが出来るからであった。
731部隊は、ペスト菌を霧状に散布したり、水に溶かして散布したりすることが出来なかった。そこで彼らは、ペストを感染拡大させるために、天然の病毒媒介昆虫――通常のノミ――を用いた。
感染ノミを搭載した陶器爆弾が中国本土の幾つかの都市に投下され、その住民に多数の感染を引き起こした。
ペストは恐怖心を生み、容易に感染拡大し、人々を迅速に殺すので、兵器として魅力的である。

合衆国の攻撃計画でもペストに関して若干の調査研究を行なったが、同国では完全に武器化することは出来なかった。
ペスト菌を大量に増殖させた時、人はその毒性を持った細菌を保有しつづける魅力に打ち勝つことが出来ない。

ペスト菌は武器であって、伝染力を持っている。われわれは過去を振り返って、そのことを強く感じる。さらに、ペスト菌をエアロゾルにして持ち歩かないよう管理することも問題だし、気象条件によってペスト菌が変異しうることも問題だし、細菌の形をとらなくても非常に感染性が強いことも問題だし、最後にペスト菌がどういう形をとってお終いになるのか、誰もコントロールすることが出来ない。
ペスト菌はきっと、帰ってきて、あなた方に噛みつくことでしょう。
あなた方の軍隊だけでなく、あなた方の友軍や同盟軍にも噛みつくことでしょう。

・・・・・・・
「生物兵器による戦争とテロリズム;軍事上および公衆衛生上の対応」(アメリカ食品医薬品局発行、1999年)から脚色





731部隊!!

夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)




【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)

Ⅴ私は中国軍の捕虜だった
総務部調査課翻訳(情報)班 H・M

あの兵器は、陛下がお許しにならぬ


教育隊からきた隊員が出動して行った。すぐにその隊員が、済州島で戦死したとの報せがもたらされた。どういう形で特攻していったのか、誰も知らなかった。
いらいらしていると、命令が出た。驚いたことに、補鼠隊として行動せよ、ということであった。本部から、731部隊だけでなく、憲兵隊、特務機関、ハルピン市衛生顧問の各身分証明書が、全員に与えられた。
鼠を捕れと漠然と言われて、困惑した。とりあえずハルピン市役所に行った。「731部隊だが・・・・」と言うと、幸い2000個ばかり金網で作った捕鼠器が残っていた。これを借りてトラックに積み込んで、日本人小中学校、病院、会社、各駐屯部隊に配って回った。その際、「関東軍は冬に備えて防寒具が不足している。鼠の皮が必要なので協力してほしい」という説明をするように指示されていた。
最初の頃、鼠は何百匹と捕れた。満州の各地でも補鼠が行なわれているらしく、ハルピン駅には、鼠が山と積まれていたりした。
捕れた鼠は、毎日、平房の部隊本部からトラックで受け取りに来た。
隊員たちは、部隊から鼠の餌(小麦粉を油で揚げたダンゴ等)や報奨用の鉛筆、ノート類を支給され、鼠と引き換えに各所に配給した。



続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

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