細菌戦の系譜!!

2022-12-16 12:08:26 | Weblog

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

生体解剖をやらされた

意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・

 

鎌田信雄(かまたのぶお)

731部隊・少年隊

(経歴)

1923年生まれ

1938年 731部隊入隊

1940年 新京の防疫でペスト感染

1943年 病気療養の為帰国

■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。

 
 
 解説―石川太刀雄丸

昭和32年4月21日米国の諸研究室研究視察の為出張、同年8月24日帰国した。昭和37年11月第6期日本学術会議第7部会員に選ばれた。昭和42年6月から同43年3月まで医学部付属神経情報研究施設長を兼任し、更に同43年4月から同46年3月まで岡本前所長の後を受けて金大がん研究所長を併任した。
 
と、華やかな戦後の足跡が綴られている。紹介の最後は、このような一文で締めくくられている。
「これまで全く未開の分野であった東洋医学の科学的展開の道を拓いた」と。
石川もまた、731部隊に於ける幾多の人々の犠牲に立って、戦後の医学学術界で名声を得た1人であろう。
      (西野留美子)

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
 
第2 731部隊に関する研究状況
 
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
 
 
4  その他の資料の発見と文献の刊行
 
 本書はアメリカ国立公文書館所蔵の、日本の細菌・化学兵器開発・研究関係文書のうち約500頁を翻訳し、ほぼ時代順に配列したものであるが、とりわけ戦後の調査報告のなかでは「サンダース・レポート」と「トンプソン・レポート」が全文翻訳され、さらに、「人体実験の暴露」(第9章)では、1947年1月のソ連による石井以下3名の尋問要求を巡り、それ以降同年9月までGHQ(マッカーサー)とアメリカ本国陸軍省との間で交わされた秘密文書、及び人体実験を示す「フェル・レポート」(総論)を収録した海軍情報局長T・Bイングリスの文書(1947年8月5日)も訳出されている。この点は、秦証言がなされた1987年には翻訳で読むことも充分可能だったという意味で重要である(秦証言に対する批判は後に行なうが、この点は予め指摘しておきたい)。
 

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936

3 毒ガス戦の準備

対ソ戦への準備

 第1次の牽引式装甲撒毒車による撒毒では、故障した車の修理などで生じた汗のため分隊長以下全員がガスマスクを脱いで作業した。その後、日が昇ると暑さのためにイペリットが湯気のように蒸発して気状ガスとなって流れた。このため、村田栄吉上等兵が被毒し、病院で治療中に死亡した。小隊長、和田盛哉中尉と分隊長、進藤進伍長は重体になった。第2次の撒毒地通過演習では、兵士たちに完全防護・半防護(薄いゴム製の防毒衣着用)・軽防護(ガスマスクとガス手袋のみ装着)という3つのグループを作り、撒毒地200乃至300mを通過させた。これは事故ではなく実験であった。演習を終わって部隊が撒毒地の風上で休憩していた時、風向きが変わったため多数の兵士のまぶたが膨れ上がり、視力が減退した。演習を指揮した今村幹事も軽防備だったので、被毒して入院した。

      海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)

日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査

 

日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる

外側は腐食が進んでいたが、標識も何の文字もなかった、掘り出してから、労働者たちはそれを構内の飯場の入口、便所の側に担いで来た。力を入れてネジ蓋を回した。缶の中の液体は満杯ではなかったから、きっと使用中のものなんだろう。人々は縄を小さい容器に繋いで、中の液体をすくい出した。

 私は、けがをした人たちを東大営の病院に運んで行った。この病院には当時4名の日本人の医師がおり、(留用になっていた)、その医師はこれを見るとすぐに『糜爛性の毒剤によるものだ』と診断した。そして『この毒剤は既に5年も経っているので有効期限は過ぎているから飲んだ者を除いては生命の危険はない』と、言った。日本人の医師は自分が軟膏を配合して被害患者の傷口に塗った」



 



 
 
 

 

 

 

 


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