細菌戦の系譜!!

2021-11-05 11:13:40 | Weblog

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

5 条理に基づく損害賠償請求について(争点5)

(3)条理に基づく損失補償請求又は特殊な補償請求について

イ これら我が国及び諸外国における戦後補償に関する立法は、第2次世界対戦において国家の権力により犠牲を強いられ被害を受けた人々、特に違法な国家権力の行使によって被害を受けた人々に対しては、国家の責任においてその犠牲・被害について一定の補償をすべきであるという人道的配慮ないし国家補償的配慮に基づくものと解される。しかし、上記の各戦後補償による補償は、何れも立法を待たずに行われたものではなく、立法によって初めて行われるに至ったものである。しかも、上記各立法は、何れも単純に人道的、国家補償的な配慮だけに基づくものではなく、政治的、外交的、社会的、財政的その他の見地からする配慮をも併せた総合的配慮に基づき、かつ、様々な紆余曲折を経て制定されるに至ったものである。したがって、これらの立法の基礎には上記の人道的配慮ないし国家補償的配慮が存在しているとは言えるものの、これらの我が国又は国際社会における法体系の中に、立法を待たずに当然に違法な国家権力の行使によって被害を受けた人々が加害国に対して補償を請求できるという価値体系が確立しているということはできない。

 
 
 
 

 

 

 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 

三月六日

 

晴 風なし 春の如し 炭坑分遣下番 中隊に帰る

相変わらずといふ様に相変わらずの日本晴れだ 内の班の初年兵が来た 中隊に帰れば二等兵ばかり弱ったものだ 丁度一家の働き手を失ったかに感じる 第二四列車の下番ながら呑気な事おびただしい 中隊に帰れば半日は休めるもの 分遣の中隊は非常に厳格だ 初年兵の教育の為に馬鹿らしい様なれどもいた仕方なし。

 

一通りの申し送りの後 歩哨の暇には大きな声を噴出さずにはいられない有様だ。

午後零時十分中隊に帰る 班の作りが一変している 入営の為に宿営した大連の関東倉庫式のように寝台がない。支那人が表で一生懸命切っている 寝台の手すりを。

名残なく晴れた大空からは絶えず春の招きが 霞にかかった春の陽炎と共に刺し招いている。

何分外で仕事ができるようになったものだからね。点呼の掃除もするでなし 残飯を捨てるでなし静かな一日が終わった 今週は初めて勤務がないらしい うんと春休みして又経理検査の次は分遣へ

さよーならだ。

 
 
 
 
 
 
軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・


 

この文章には、彼らの被った原爆の悲惨が究極的に償われるためには、それがすなわち、もう決してそのようにも残酷な体験が人間に課されることがないということへの確証とならなければならぬ、という被爆者の一般的な心情が表現されていると共に、被爆後3年にしてすでに、原爆体験者の心底からの叫び声が、≪太田河畔平和塔の辺りに低く寂しくてただよっている≫のみであるかのように感じられていた事を示しているものであろう。
 
 

 

 
 
 
 
 
 

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