「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
原爆
【歴史】なぜ原爆ができたのか
マンハッタン計画
シラードはナチスドイツが核分裂連鎖反応を利用した兵器を手にすることを恐れ、旧知のアインシュタインやフランクリン・ルーズベルト大統領にアメリカ政府も研究に取り掛かるべきだと強く進言します。
ルーズベルトの決断を後押ししたのはアインシュタインの書簡でした。アインシュタインは書簡の中で核分裂の発見により人工的な核分裂連鎖反応を爆弾に応用できるかもしれないこと、ドイツでも研究が進められていることなどを述べています。*6)
シラードらの運動やアインシュタインの書簡を受け、ナチスが核爆弾を手にすることを危惧したアメリカ政府は、核分裂の研究に資金を拠出します。そして研究が進み、ウランを使った強力な爆弾が製造可能とわかると、本格的な製造研究がスタートしました。*6)
1942年、ルーズベルト大統領は原爆の生産を目的とするマンハッタン計画をスタートさせます。オークリッジで高濃縮ウランの分離、ハンフォードでプルトニウムの生産、ロスアラモスで原爆の組み立てが行われました。*8)
原爆が使用されたのはなぜ?
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
宮川米次
(ニ)インフルエンザ・ウィルスの多原性
所謂流行性寒冒とインフルエンザと同一なりや否やは1個の疑問である。又流寒と所謂普通寒冒と相違ありや否やも考えて見たい事である。人類のインフルエンザと豚、駒、馬、牛等に見るこれ等の類似のものは何れも異なった病毒より惹起せらるるものであるであろうか。昨年鶴見三三氏(東京医事、3105、13年)は小笠原、高木氏と共に朝鮮縞リスに感受性見出し、小島三郎氏は、フェレットを利用して、日本性のインフルエンザ株を人間より分離し得られたらしい。ドイツのKobe&Fertig(C.f.Bac.141.1938)は、本ウィルスの培養を精細に研究し、米、仏等に於ける多くの研究者の所見に追従している。鶏胎児の脈絡尿膜上に継体培養が出来、然も局所には軽度の浮腫が生ずるという。駒のそれは駒にのみ罹患性があり、マウスに出来ないことは人類のそれと相違している。然し人類のも、駒のも、海猽の胎児の肺臓組織によっては培養が出来ないと言う様なことを発表している。米国に於いては既に免疫操作を始めているという報告と比較して見ると一層興味がある。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
Ⅲ
1932年11月、天皇は関東軍が熱河省(阿片という重要な財源があった)を満州国の一部と見なし、春には侵攻を開始する計画であることを知った。しかし、12月23日には関東軍の先遣隊はすでに、万里の長城の東端にある山海関に達していたが、そこは熱河省への入り口だった。そこで張学良の軍隊との間に小規模な衝突があった。1週間後の1933年1月1日、より大規模な衝突が起き、日本は町全体を占領した。天皇は、この侵攻が国際連盟との関係を複雑にしかねないと懸念し、(奈良を通じて)事変の拡大を認めないよう陸軍に警告しようとした。1週間後、天皇はこの問題に対処させようと牧野に御前会議の召集を提案した。しかし、側近の意見は分かれ、結局、御前会議は召集されなかったのである。
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