核・戦争のない世界!!

2024-06-29 08:05:33 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
        
        




 重慶爆撃               

 

原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    
  

 

 原爆    

 
 

原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】

 
古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
2021/8/6(金) 10:29
 
4.広島原爆投下時に空襲警報が解除されていた→正
このような結果として、いったん解除された空襲警報により安堵した広島市民は地下から出てきてしまった。その無防備な人々に原爆が投下された。米軍の狙いは一人でも多くの日本人を殺傷するためである。もしこの時点でも空襲警報が出ていたら、広島原爆の被害は多少なりとも軽減されていたであろう。このような巧妙な空襲警報解除を誘発し、一人でも多くの広島市民を地獄の業火で焼き尽くす戦略を周到に準備していた米軍の戦争犯罪は76年たった現在でも消えることは無いのではないか。(了)
 
古谷経衡
作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

 

 
 
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
(イ)トラコーマの病原体体としての Halberstadter- Prowazek小体
他方田宮、羽里博士等は結膜細胞の組織培養を遂行せられ、62例の材料より55例の雑菌混入のない材料を得られ、27例に於いて2‐3日の培養によって、本小体の盛んなる発育をしつつある状態を認めておられる。著者も常にその標本を見ることが出来、本小体が日を遂って発育しつつある様を見て生物たることを疑うことが出来ない様な感を有している。然もこれ等は人体に接種して陽性の成績を得られたということでもある。然るにここに1個の謎は何故に本小体は世代を重ねて培養し得られないであろうか。初代培養に於いてはあれ程盛んなる発育あるものが、世代を重ね得ないという点は、本研究に於いて尚一歩進むことを要するのではないかと思われることである。それも同氏等の熱心なる努力が近く必ず酬いらるることと確信するものである。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 
もうひとつの天皇の意思である「明治憲法の擁護」とは、おそらく、1889年の憲法が異常な運用をされていると天皇が理解していたことを示唆する。憲法は権力の行使の手引きでも、日本臣民の制限された自由と権利を擁護するものでもなかった。なぜ天皇は改憲を許さなかったのだろうか。憲法はすでに合法的に、実際「立憲的に」、天皇や権カエリートが望んだどんな類の政治的ルールもつくることができたからである。
 
 

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