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●731部隊(1) ●731部隊(2) ●731部隊(3) ●731部隊(4) ●陸軍軍医学校50周年記念行事について ●南京大虐殺 ●昭和天皇 ●教科書問題 ●陸軍登戸研究所 ●日航123便の怪 ●日本とドイツの違い ●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!! ●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか? ●731部隊展 ●マレーシアの旅 ●九大生体解剖事件 ●ご案内 1月23日の河村たかし名古屋市長発言に抗議する!! 河村さんも名古屋との友好都市南京に積極的に行かれたらどうですか? 本当に友好を願うなら現地に行き、その目で事実を確かめられたらと思う!! ・写真展「重慶大爆撃」【2月9日(木)~15日(水)入場無料】 ・「戦争の加害」パネル展(横浜)2月21日(火)~28日(火) 糸数慶子参議院議員挨拶(沖縄の風) 『週刊金曜日』からのメッセージ 日中戦争、南京大虐殺から今年は80年にあたります。本来なら安倍首相はこの国を代表し、改めて侵略戦争を反省し、アジアの国々に謝罪すべきです。しかしその風情は感じられず、「加害」の意識が希薄としか思えません。未来を語るためには、過去をしっかりと見つめる必要があります。どんなにつらくとも、負の歴史を正面からとらえなくてはなりません。このパネル展が多くの市民の考えるきっかけとなることを望んでやみません。 パネル展『戦争の加害』プレイベント(横浜) 戦争の加害と教科書記述の変遷 「戦争の加害」パネル展(2016年2月横浜) 「辺野古の“今”」写真展(2016年2月横浜) 秘密国家日本!! 日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年) アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。 このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。 過去の侵略戦争を全く反省しない自民党政権!! 安倍氏「真珠湾犠牲者を哀悼」…中国「本当の和解望むなら南京に来い」 日本軍による太平洋戦争最大の3万人虐殺事件 1943年5月9日から12日にかけ洞庭湖の湖畔にある魚とコメが豊富な廠窖鎮が地獄と化した。日本軍はここで罪のない人々を虐殺し、中国侵略で二番目の大虐殺事件を起こした。これは太平洋戦争の最大の虐殺事件で、わずか3日間に中国の軍民3万人余りを殺害し、200人余りの女性を強姦し、第二次世界大戦でのファシストによる1日の殺りく数としては最多となった。 福澤諭吉は民主主義者ではなく軍国主義者だった 雁屋哲〈週刊朝日〉 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。 ──なんのためにそんなことを? 丸山眞男は戦後を代表する知識人。日本に民主主義を根付かせるために、あえて福澤を誤読したとも言われています。ですが、そのためにオリジナルの主張を捻(ね)じ曲げているとしたらとんでもない。多くの人は原本を読まず、丸山氏ら学者の権威に従って福澤を偉人と思い込んでいるのです。 三原じゅん子は過去の日本が「八紘一宇」のスローガンのもとに行った残虐行為の数々を認識しているのだろうか?? まずは、安倍と中国各地を巡ったらいいと思う!! 【国会】三原じゅん子『【八紘一宇】を語る? 2016年年3月16日 地底からの叫び声が聞こえませんか?? 731勿忘 731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、 また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。 ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長) 侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像 常徳細菌戦 なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか?? 核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も こんなことまで起こっている!! 外務省は、安倍内閣の顔色を窺ったのか、政府からの指示があったのか、中国人細菌戦被害者遺族のビザを発給しなかった!! これからも、アジアの戦争被害者や遺族の入国を拒否するかもしれない!! 当時の集会の模様 中国人細菌戦被害者なぜいない? ビザ発給拒否・集会妨害裁判について 次回の裁判は、3月2日(木)午後2時~東京地裁、傍聴よろしくお願いします。 莫大な防衛費を使って、化学学校、衛生学校ではどんなことが行われているのであろうか? 米軍と共同でCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。明らかにしたい!! 〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器=細菌兵器等)、R(放射能兵器=核兵器)〕 12月21日(水)『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』の公開を求める裁判が東京地裁522号法廷でありました。 最初は、情報公開法でその2点を開示請求していたのですが、保有していないことを理由に、行政文書不開示を防衛省は決定しました。それに対し、原告は、行政不服審査法に基づき異議申し立てをしました。その審議会が、防衛省の意向に沿って、不開示は正当であるとの結論を出すまでに、4年も年月をかけているのです。全く何もやっていなかったのではと思ってしまいます。防衛省と審査会とのやり取りはどんなことがあったのか、4年間の経過をきちんと説明してくださいと、弁護士は切実に訴えました。また原告は、いまだに、細菌戦被害・毒ガス被害で悩む中国の被害者のためにも、きちんと公開すべきだと陳述しました。 化学学校記事の第12号には、杉田論文「自衛隊員が語る旧軍技術研究」として次のような細菌戦に関する記述があります。 「-日本は1931年(昭和6年)満州に細菌戦遂行のため〈731〉部隊を編成した。研究所、部隊は逐次整備され1935年(昭和10年)には、ねずみ2000匹を使用してノミを飼育し、ペスト菌の培養量だけでも毎日10㎏に及んだ。 1938年 華中戦線 細菌大量使用 1939年 ノモンハン 細菌大量使用 1940年 重慶爆撃 ペスト菌、コレラ菌使用 1941年 湖南省 細菌作戦 1943年 華中、華北 細菌作戦 その戦績は、衛生部隊としてかつてない大きな成果をあげたとして感謝状36回授与にみられる」 今、現在の研究では、細菌戦を始めたとされるのは1939年のノモンハン事件の時です。この論文が確かだと、ノモンハン事件の前に細菌戦が38年に華中で行われていたこと、また、重慶でも細菌戦が実施されていたこと、1942年の浙贛作戦以降の43年にも細菌戦が行われていることになります。 今、まさに、この『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』『衛生学校記事』そして『731部隊関連資料』の全面公開を実現させ、細菌戦・化学戦の戦中・戦後の実態を解明し、今の日本の現状でいいのかを考える時に来ています。 米軍と共同で自衛隊はCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?非核3原則を唱えながら、防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。防衛省はきちんと国民に説明する義務があります!! 憲法9条はないがしろにされ、軍事研究がどんどんとスピードアップされている現状を打破しなければと強く思います!! 次回「衛生学校記事情報公開裁判」は、2月28日(火)午後 2時~東京地裁419号法廷 傍聴よろしくお願いします!! 次回「化学学校記事情報公開裁判」は、3月 1日(水)午前11時~東京地裁522号法廷 傍聴よろしくお願いします!! ・中国外務省の陸慷報道局長は7日の記者会見で、南京大虐殺記念館のほか、満州事変の発端となった柳条湖事件を記念した博物館や731部隊跡地を挙げ、「日本が深刻に反省し本当に謝罪したいなら、中国には多くの弔うべき場所がある」と述べた。 中国にも「弔う場所ある」=安倍首相の真珠湾訪問 「米国が真珠湾を忘れられないように中国も南京大虐殺を忘れることができない」 安倍総理の真珠湾訪問に対し 中国外務省が牽制 「今の日本にもう黙っていられない!」マレーシア アジアフォーラム ●南京大虐殺 ・南京大虐殺から80年、今年の12月13日は、80年前の日中戦争で南京が陥落した日だ。そして、虐殺が始まる。(もちろん、南京に至る過程でも、残虐行為を繰り返していた!) 23、南京の人口 1937年11月23日の南京市政府の書簡には「現在の人口は約50余万である」 南京攻略戦が開始されたときは、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万人であったと推測される。それに、中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など総勢15万人をカウントしておくべきである。(最大で65万人) 外務省は、持っている情報をきちんと開示せよ!! ある書物には、こう書いてあるが、この真偽はいかがなものか? 「1938年の1月17日に、廣田弘毅外務大臣は東京からワシントンDCの連絡員に次のような電文を転送したが、それをアメリカの情報機関が傍受し、暗号を解読してから、1938年2月1日に英語に翻訳した。 数日前に上海に戻ってから、私は南京やその他の地区で日本軍によって行われていると報告されている虐殺行為を調査した。信頼できる目撃者の口頭の説明と、信頼性について疑念の余地のない人たちの手紙により、日本軍がフン族のアッチラを思わせるような態度で振舞ってきて、現在もそういう風に振舞っているという確証を得ることができる。30万人を下ることがない中国の民間人が殺戮された。そのほとんどは血も凍るようなことだ。」 南京の情報を遮断するために、海軍はパナイ号は故意に撃沈した? 「そこで電報を(漢口にいる蒋に)打ち、同時に東京へ一通送る必要があった。電文が起草され、ベイツと僕とでそれを携えて“パナイ”号へ行ったのだが、・・・・・・その翌日“パナイ”号はさらに上流へと出発し・・・時ならぬ終着駅でもある処へと向かった。あらゆる通信がかくして切断され、僕らはそれ以上停戦を促す何事もなしえなかった。(ミルス:「夫人への手紙」より) パナイ号撃沈 安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!! 当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺 フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」 マギーフィルム(日本語訳付き) フォースター(Ernest H. Forster)は1895年にフィラデルフィアで生まれ、1917年にプリンストン大学を卒業した。バルティモア聖ボーロ小学校で校長の助手を2年務めた後、聖公会の宣教師[Episcopal missionary]として中国へ行き、揚州の馬関学校で教えた。1936年に名高い弁護士タウンゼントゥ(Irving U. Townsend)の令嬢クラリッサとボストンで結婚した。フォースター夫妻は一緒に中国へ戻り、揚州に駐在した。南京が陥落する1ヶ月前に、2人は揚州から南京へ移り住み、聖公会の聖ボーロ礼拝堂に仕えた。1937年11月末にクラリッサは南京から漢口へ撤退し、1938年1月中旬に香港を経て上海に着いた。フォースターはもう1人の聖公会の牧師マギーと、南京に留まり大虐殺の全歳月を過ごした。 フォースター夫妻のイェール神学校に保存されてきた文献の中の手紙やレポートや写真が、南京大虐殺の全般的で目に見えるような記録となっている。 夫人への手紙 (1937年11月23日~1938年2月13日)※ ここからがフォースター氏の書簡の抄録で、その後の南京に関わる消息が記載されている 11月30日、火曜日 昨日バクストンさんが、汽船に乗って漢口へ行くんなら、今日が最後のチャンスだと、いいに来てくれた。僕らにどうしても撤収させようというのではないんだが、もしも僕らが出て行かねばならない情勢になったらば、その時は砲艦に乗るしかないと言うんだった。 この町が死守されるにしても、ほんのちょっとだと言う人もいるが、他の人はみんな、中国人は抵抗するつもりはないと言っている。僕の思うに、金陵大学は今日引き移るんで、何人かの婦人と男の人とが、それと一緒に出て行くんだろう。僕らで大体決めたのでは、もしも日本人が町を砲撃したり爆弾を投げたりし始めたら、ハンソンの家に引き移るんで、さもなければここに留まって、自分でできる限りのことをすることになる。僕らには必要な物がいっぱいあるのに、物資はこんなにも少なく、全くがっかりさせられる。誰しも正常な状態では、やれることがいっぱいあるのに、この場に及んでは、ただ手をこまねいて傍観するしかなく、何もできないでいるという、こういう感じは、全くいやになってしまう。 しゃべってから死ぬ!南京大虐殺 南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分 昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!! ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より 第3部 陛下の戦争(1931年~1945年) 第9章 聖戦 日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・ 1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171 ・・・・・・・・ (日中戦争)『昭和天皇』「上」(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫より) Ⅳ 1940年夏になると、昭和天皇にはドイツとの新同盟の主張者たちと手を結ぶようにという圧力が強まり、新たに2つの要素が戦略構想に加わってきた。1つはドイツ軍の圧倒的破壊力による西ヨーロッパの征服であり、そのため明らかにイギリスは孤立し、ドイツのイギリス侵攻は日前に迫っていた。いま1つは、スターリンとヒトラーが結んだ条約の庇護のもとで、対ソ外交の方針を再検討することだった。ソ連の動静は、枢軸国に新たな力を加えるように思われたが、一方で、ソ連は最新の装備で蒋介石に軍事支援をするのではないかという不安があっ赳。この電撃的な軍事征服と強烈な外交戦略が展開する状況下で、昭和天皇は、英米と直接対立することになる三国同盟について陸軍に断固たる反対の立場を取るべきか、あるいは、立場を変えて陸軍が望むことを裁可すべきか思い迷っていた。昭和天皇の決定の最終的な狙いは、ナチスとそのイデオロギー的な目標を共有するというよりは、むしろ日本の単一性を守ることにあった。 軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!! (勿論、警察も見て見ぬふりをした!!) ※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著) お粗末な日本政府の情報公開 ※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像! 南京陥落 東京の風景 ※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著) ※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。 |
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