核・戦争のない世界!!

2024-08-02 09:46:05 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
           






 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)




 原爆    


 
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
炎衝の発生機転に関する研究
この物質に関する研究に深く突進んで、昨年は相当注目すべき点に迄達しているとおもうのである。即ち昨年1月の報告(向誌67)によるに、炎衝性浸出物内にある、毛細血管拡張性浸透性のあるものは下の如く純粋に取り出すことができるというている。即ちピリデン、アセトンによって浸出し.蛋白質を除いて後に、ブチール酒精又はアセトンによって永く低温で浸出して、純粋にするのである。その物は結晶性のニ重屈折性含窒素物であるが、蛋白質ではない。然しア ミノ酸カルボキシル群並びにインドール核(Adamkiewicz反応陽性)を有し、透析性で、濃厚硫化安門によって沈澱するから明らかに蛋白質の中間代謝物質と見做すべきものであると言うている。この種の硏究に於ての、確かにー新方法と言うべきものであって、尚大いに開発闡明せらるる新所見が加わることであろうと信ずるものである。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変

満州事変の間、日本のオピニオンリーダーにより、誇張された利己的な国際情勢の解釈が数多く提起されたが、なかでも満蒙を日本の経済的、戦略的、道徳的な「生命線」であり、「生存の唯一の手段」であるとする主張ほど、陸軍の支持を得たものはなかった。生命線という表現は当初、松岡により案出されたが、幅広く愛国心を刺激した。満州の陸軍の行動に関し誤謬にとらわれた多くの日本人は、祖国とその栄誉を守るためならば、列強の最大の強国とさえ進んで対決するように思われた。国際法とは西洋の概念であり、英米に有利な時点で国際秩序を固定化することを意図したものであるから、満州国承認や連盟脱退が国際法自体の否認になるとしても、それで構わなかった。日本は天皇に由来する規範に基づく、独自な序列による国際的枠組みを創造しようとしているのであり、天皇は道義の化身であり、英米人が好む抽象的な法よりも具体的な存在なのである。

 
 
 

 

 

 

 



 

 

 

 

 




























 


































































































































































































































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