核・戦争のない世界!!

2024-05-25 13:27:35 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 
南京大虐殺 

 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈


 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

731部隊 

 

731部隊展


 原爆    
 
今も傷む背中の傷 目をそらさないで聞いて 原爆を背負って(1)

背中一面が真っ赤な血に染まり、うつぶせで苦しみに顔をゆがめる少年――。長崎原爆資料館に展示されている写真は、17歳の私の姿です。
 想像してください。石のような硬い塊が背中の皮を突き破って出てくる様子を。
 1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。郵便配達中に熱線で焼き尽くされた私の背中は、通常の皮膚ではありません。汗腺も皮脂もなく、背中を覆っているのは瘢痕(はんこん)という薄い膜。汗もかけない背中には徐々に石灰質が沈着し、大きくなると瘢痕を突き破って出てくるのです。
 背中の痛みは一日に何度も変化します。殴られているようにずきずきしたり、針を刺されているようにちくちくしたり。布団に寝ていても背中の下に硬い石ころを敷いているようで、あおむけでは眠れません。体温調整も難しい。夏は熱が体にこもって焼けるように熱く、冬は何枚上着を着ても震えるほど冷えます。


 
 


 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)


 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報5号(23巻、1939年)
五十嵐・森成両君応召す
医局の五十嵐正治・森成禎二の両君は名誉の召集を受け、夫々5月1日及び3日に勇躍応召せられた。
 
学友会へ寄付金
金75円28銭也  島田捷四郎君
金35円47銭也  土屋三司君
金55円63銭也  佐藤秀三君
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 10月事件と天皇の甘い対応は、軍部を抑えようとする若槻内閣の努力を損なうものだった。当時、宮中グループは君主制や明治の政治体制全般を倒壊させかねない国内危機を防ぐことが、満州の問題よりもはるかに重要であると信じていた。なかでも10月事件は陸軍大学卒業のエリート将校による2つのグループの間で、派閥抗争を引き起こす契機となった。一方は皇道派であり、荒木貞夫、真崎甚二郎、小畑敏四郎らの将官と、彼らを支持する「青年将校」からなる。他方は、当時、皇道派が敵視していた―「皇道派ほど組織だってはいないのだが―統制派であり、永田鉄山、林銑十郎、東条英機らの将官に加えて高級将校や彼らを支持する青年将校からなっていた。両グループとも天皇のもとでの「軍事独裁」の確立と、対外侵略の促進を目的としていた。皇道派は目的達成のためにクーデタを行おうとしていた。統制派は暗殺や脅迫を退けるものではないが、政府のより合法的な改革を目指していた。
 
 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 核・戦争のない世界!! | トップ | 核・戦争のない世界!! »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事